亜細亜の街角
1984年に世界最悪の化学工場事故が発生した町
Home 亜細亜の街角 | Bhopal / India / Mar 2010

ボーパール  (参照地図を開く)

ボーパールはインド中央部に位置するマディヤ・プラデシュ(Madhya Pradesh)州の州都で人口143万人の都市である。町の中心はボーパール・ジャンクション駅のあたりで,その南西2.5kmのところにアッパー湖とローワール湖という二つの人造湖があり,おそらく都市の水源となっている。

駅から西に向う「Hamidia 通り」が「Chhola 通り」と交差するあたりにバススタンドがある。駅からは1km弱の距離である。「Hamidia 通り」の南側には安宿が集まっている。バススタンドの交差点から北東に「Chhola 通り」を歩くと踏み切りに出る。その少し手前の大きな道を西に向うと右側に塀で囲われた旧ユニオンカーバイドの子会社の工場がある。

1984年12月3日の深夜,約35トンのイソシアン酸メチルが漏出し,工場周辺の町に流れ出した。この夜は大気に逆転層が生じていたため有毒ガスは上方には拡散せず,北西の風により地を這うように周辺に流れていった。有毒ガスが拡散した地域は40km2に及んでいる。夜明けまでに2000人以上が死亡し,15-30万人が被害を受けたとされている。最終的には様々な要因で1.5-2.5万人が死亡したとされる。

1989年に示談による和解が得られ,ユニオンカーバイドは事故によって生じた被害に対し4億7000万米ドルを支払うことに同意した(当初の訴訟金額は30億ドル)。2003年にボーパールガス事故被災者救援復興局 によって55万人の被害者と死亡した1万5千人の遺族に対して賠償金が支払われた。遺族一家についての平均額は2200ドルであった。

アジャンター→ジャルガオン 移動

07時にチェックアウトしようとすると,朝食ができると告げられ,ポテト・プラタとチャーイを注文する。ポテト・プラタはチャパティの間にマッシュト・ポテトを挟んだもので意外とボリュームがあった。これ一枚で十分に一食になる。味は単調なのでトマトケチャップを付けるとなかなかよく合う。

07:30から宿の外でバスを待つことにする。しかし,ここはバスストップではないのでバスは停まってくれない。400mほど離れた村のバスストップまで歩くのが正解である。朝食もここでとることができる。08時過ぎにジャルガオン行きのバスに乗ることができた。席はない。すると3人掛けの席にいた若い男性が席を詰めてくれたのでいちおう座ることができた。彼らは次のバススタンドで下車したので,お礼を交わしてお別れする。

ジャルガオン→Khanduhwa 移動

10時少し前にジャルガオンに到着する。今日の行程の誤算はジャルガオンのバススタンドからは長距離バスは出ていないということであった。ボーパールまではバスを数回乗り継がなければならないことが分かったので,親切なおじさんのスクーターで鉄道駅に行く。鉄道駅はコンピュータ化されており,インドでは信じられないくらい早い15分ほどで窓口に到達した。しかし,席がないとあっさり告げられた。

再びバススタンドに戻り,ボーパール方向にあるブサワール行きを待つことにする。出発は12:30なので待ち時間は2時間ほどある。バススタンドで早めの昼食をとる。ワスアはつぶしたジャガイモを衣でくるんであげたものでコロッケに近い食べ物である。ものによってはスパイスがきついこともあるがイモ好きには毎日食べてもよい一品である。

写真の題材としては一級品の農村の風景が広がる

12:30少し前にブサワール行きの中型バスが入ってきた。車掌がよく座る入り口の席にザックを立てて座ることにした。このスタイルだと少し横向きにはなるものの,座席を二つ占拠することはない。バスはあらゆる所で乗客を集め,実質的な出発時間は13時になった。バスのサスペンションはひどく。路面の振動がほとんど直に伝わってくる。途中でもう一台のバスの乗客が乗り移ってきたので車内は大変な混雑になる。

乗換えとなるブランプールには16時少し前に到着した。カンドゥア行きのバスはすでに待機していた。出発まで5分と言われ,その時間でトイレに行き,大急ぎでスプライトを飲み干す。ブランプールからは再び上りになり,デカン高原の豊かな農耕地帯を通る。写真の題材としては一級品の農村の風景が広がる。残念ながらこのようなところには宿は望めない。

カンドゥワで一泊

18時少し過ぎにカンドゥワのバススタンドに到着する。いちおうバススタンドの形態は整えており,地元の人に確認するとバススタンドの上にホテルがあるという。バススタンドからみて裏側の階段を上ると二階にレセプションがある。レセプションの責任者は僕に100Rpと300Rpの部屋を見せてくれた。300Rpのダブルはさすがにきれいな部屋であったが,ここは一泊するだけなので100Rpの部屋を選択する。

部屋は3畳,ベッドの布団はかなり薄い。夜になると冷えるのか厚手の毛布が付いている。蚊とゴキブリが多いので食べ物には注意が必要だ。トイレの汚さはインド的であり,シャワーはプラスチックの手柄杓で体に水をかけ,汗とほこりを洗い流す。従業員に聞いた範囲では明朝07時発のボーパール行きのバスがあるという。明日は早起きしなければならない。

カンドゥワ→ハルダ→ハッサンガバード 移動

05:30に起床,06時過ぎにチェックアウトする。朝食はジャガイモに比較的硬い衣を付けた食べ物で,値段は1個5Rpである。これを2個とチャーイをつけて15Rpの朝食となる。ボーパール行きのバスはない。昨日の情報はガセネタであった。仕方がないのでカンドゥワ→ハルダ→ハッサンガバード→ボーパールと刻んで行くことにして,06:35発のハルダ行きのバスに乗る。

レンガ工場はあちこちで見られた

ハッサンガバードまでは196km,6時間の行程かなと思っていたら,7時間半近くかかった。完全なローカルバスなので乗客の要求によりどこでも停車する。また,駅の近くなどでも客を拾うためにけっこうな時間停車する。これでは時間がかかるわけだ。

田舎の人々の生活を間近に見ることができる

ローカルバスは時間的には都市間バスに比べるとずいぶん遅いがその分田舎の人々の生活を間近に見ることができる。窓際に座っていたので,バスが停車するタイミングで人々の生活や田舎の村の様子を撮影していた。停車回数が多いので,普段はなかなか撮れない写真を撮ることができた。

ボーパールで宿探し

15:20くらいにハッサンガバードに到着した。周辺の人にボーパールと告げると鉄道駅に案内してくれた。窓口で当日売りのチケットを買う。もちろん座席指定ではない。適当なスリーパーの車両に乗ると,車内は大変な混雑である。とても中には入れそうもなかったので,トイレの前のスペースに荷物を立てて,僕もその前で立つことになった。

ボーパール駅から続く「Hamidia 通り」の左側に何軒かのホテルがあったが,二軒は満員ということで断られた。ホテル・マンジーは僕にしたら星をあげたくなるほど立派なホテルであった。料金は400と高い。フロントの男性は税金等があるので400だとゆずらない。とりあえず一泊することにする。部屋の広さはシャワー室を含めて8畳ほどの広さがある。ベッドは一つ,シーツは清潔であり,まくらもふわふわしている。

夕食

これでようやく夕食となる。時刻は20時近くになっている。到着時にマーザを飲んだ店でベジのターリーを注文する。ほうれん草のペースト,ヒヨコマメのカリー,レンズマメのスープに小さめのチャパティ2枚,それにご飯が少し付いている。これだけ食べると十分すぎる。野菜,豆,穀物とバランスのよい食事である。これにチャーイを付けて43Rpはインドでもかなり安い部類に入る。

ターリーはメインの食事であるが,移動時などにはカトゥリ(ジャガイモとコーンを混ぜたものを厚い皮でくるみ揚げたもの),サモサ(ジャガイモを厚い皮で三角形にくるみ揚げたもの),ライス・ポワ(黄色に色づけされたご飯に香菜をふりかけたもの)などの軽食が役に立つ。

早朝の市場は人,車,大八車でたいへんな混雑であった

早朝の市場は商品を運ぶ人々とそれをかき分けて進む車や大八車でたいへんな混雑であった。インドのトラック運転手はこの混雑さの中を左右のすき間が数cmというきわどい運転を余儀なくされるのでその苦労は大変なものだろう。

果物はオレンジ,バナナ,パパイヤの3種類で数量的に全体の9割は占めている。バナナはどこの果物市場でも大きな比重をしめているが,ボーパールでは相対的にオレンジとパパイヤの比重が高い。

オレンジの花畑

広場の一画はオレンジで占拠されていた。大きなタイヤを縦に切ったものを地面に並べ,そこにオレンジを山盛りにしている。まるでオレンジの花畑のようだ。この花畑の面積は10m四方ほどもあった。現在はオレンジの最盛期のようで市場の他の場所では店の中に積み上げられたオレンジの山もあった。

花屋の店先には

市場の一画には花を扱う店が集まっている。ヒンドゥー寺院は毎日のように多くの花輪や花飾りが奉納される。そのため,寺院の近くには花を扱う店が軒を連ねている。この量は大変なもので,そのかなりの部分は市場を経由してそのような店にやってくる。花市場の店先には麻袋に詰められた新鮮な花が何十袋と置かれている。袋の中身は花ごとに分類されており,黄色,オレンジ,白の三種類がある。

黄色はインドでもっともよく利用されるマリーゴールド,オレンジはベニバナのような花で,白はキクの仲間のようだ。季節により花の種類は移り変わると思うが,この市場から花がなくなることはないだろう。僕は花の写真を撮るだけで十分なのに,周辺の人々は「花と一緒にわしらも撮ってくれ」と要求され,何枚か撮ることになった。

バススタンドを確認する

水汲みの風景

「Chhola 通り」の先には踏切がある。線路は単線でレール幅は広い。線路の北側にはバラックのような家屋が密集している。線路の南側も似たような状況だ。この踏み切りの手前を西に折れると旧UCの化学工場があるはずだ。しかし,住宅密集地のところでさっそく道に迷ってしまった。

近くの人にたずねると旧UCの化学工場への道はすぐに分かった。教えられた通りに歩くと,下町の雰囲気になる。水道のあるところでは女性たちが水汲みのために集まっている。一軒の家からホースが伸びており,そこから出る水をバケツやポリタンクに入れている。この辺りでは水道が引かれていない家が多いので,このような光景は何ヶ所かで見かけた。

No more Bhopal, No more Dow

塀に囲まれた工場のような建物があり,その塀には「No more Bhopal, No more Dow」と大きな文字で記されていた。この建物は旧UCの化学工場に隣接しているが別のもののようだ。

旧UCの化学工場の南側は高さ2.5mほどのコンクリート製の塀で囲われており内部を覗くことはできない。ありがたいことに,塀の前に工事用の土砂が積まれているところがあった。土砂の山の上からならば工場の敷地内を見ることができる。塀の内側はほとんど草の無い空き地になっており,その向こうに樹木に囲われた工場と化学プラントのような設備が見える。おそらくそこが事故現場であろう。

ここは駅から直線距離で1.5kmほどしか離れていない。つまり,大都市の人口密集地で大量の有毒物質を扱う工場が操業されていた。この工場は1969年に操業を開始し,1979年に殺虫剤カルバリルの生産を拡大した。この殺虫剤は毒ガスとして知られているホスゲンから製造され,その中間反応体がイソシアン酸メチル (MIC)である。

1984年12月3日の深夜に約35トンのMICが流出し,有毒ガスが工場周辺の町に流れ出した。沸点が低く,猛毒のMICは通常のプロセスではタンクに保存されることはないが,このときは不純物を規定以上に含む規格外品が40トンも保管されていた。

この夜は大気に逆転層が生じていたため有毒ガスは上方には拡散せず,北西の風により地を這うように周辺に流れていった。有毒ガスが拡散した地域は40km2に及んでいる。行政からの避難指示や避難時の対処方法を知らされないまま,工場周辺の人口密集地に居住する貧しい人々は逃げ惑うことになった。夜明けまでに2000人以上が死亡し,15-30万人が被害を受けたとされている。工場内に放置されている有毒物質は何十年にもわたって大気と地下水を汚染していく。

花盛りのキワタの木

工場の塀の前の通りには高さ10mほどのキワタ(Bombax ceiba)が花を付けていた。朱色の大きな花が葉のない枝一面に咲いているのでよく目立つ。現在は8分咲きといったところである。もう少し時間が経つと椿のように花ごとぽりと落ちる。落ちた花により地面は朱色のじゅうたんを敷きつめたようになり,その上を歩くのははばかられる。

花が終わると大きな実を付け,熟すると表皮が開き,内部にある白い綿のような繊維にくるまれた種が顔を出す。中には大きな破裂音とともに表皮が割れるものもあるという。残念ながらその光景はまだ見たことがない。

工場の前の小学校

道路を挟んで旧UCの化学工場の南側には小学校があった。建物の上部には「Maharaja Ajamirh Conbvent School」と記されている。インドでは公立小学校は「Primary School」と表示されることが多いので,私立学校なのかもしれない。建物の外には制服姿の子どもたちが集まっているので集合写真を撮る。

ここの子どもたちはとても行儀が良い。ちゃんと集合写真に納まってくれた。学校は建物の二階にあり,一階には先生と思しき男性がおり,猛毒ガスの流出事故の話をしてくれた。26年が経過しても恐怖の記憶は近隣住民のこころに焼き付いているようだ。子どもたちの中にはヨーヨー適齢期の人が何人かいたので,水をもらってヨーヨーを作る。

長い列車

時間があったので宿に戻る途中に駅に立ち寄ってみた。ホームに移動するため高架になっている移動路の上から線路を眺める。客車と貨物車が見える。どちらも連結車両が多いのではるか先まで続いている。インドの列車は本当に長い。200mを越えるものも珍しくない。

当然,ホームもそれに合わせて長くなり,列車に乗るため100mほど歩かされることもよくある。また,チケットに指定された自分の車両を長い車列の中から見つけるのもけっこう大変である。僕がよく利用するSL(二等寝台)は前方と後方に分かれていることもあり,長いホームを行ったり来たりすることもある。

どこででも横になることができる

インド人はどんなところでも横になることができる。駅中の床や外のコンクリートの舗装の上でもごく普通に横になる。そのようなときのために大きな布を一枚用意している。彼らは布を床や地面に広げその上に坐ったり,横になったりする。

そのような光景は駅やバススタンドの周辺に限定されるものではない。観光地でもよく布を敷いて家族で食事をしている。コンクリートのような固い材質の上でも布一枚で寝ることができるのはインド人の特質である。これが中国になると薄い布団を大きな風呂敷に包んで移動するようになる。

これは何の神様

駅の建物の近くにオープンの小さな祠のようなものがあり,布と花で飾られた神様が祀られていた。オレンジ色の顔に王冠を被った姿からはヒンドゥーの神々の中から特定のものを推測することはできない。でも,横に絵が飾ってあり,それはハヌマーンのものであった。絵の方はずいぶん凛々しい姿で描かれており,ラーマーヤナで猿軍団を率いて羅刹の王ラーヴァナと戦った怪力のハヌマーン神を彷彿とさせる。


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