亜細亜の街角
水,ポプラ,山並みの風景に魅了される
Home 亜細亜の街角 | Skardu / Pakistan / Jun 2007

スカルドゥ   (地域地図を開く)

スカルドゥはパキスタンのリゾート地として紹介されているが,山に興味のある人たちにとっては世界第2位の高峰K2(8611m)の入口の町の方が通りがよい。K2はエベレストに比べて極端に登頂成功率が低く,世界でもっとも困難な山として知られている。1954年にイタリア隊が初登頂したあと1977年に日本隊が第2登を果たすまではどの国のパーティも登頂できなかった山である。

日本隊の登山記録は,「白き氷河の果てに」というタイトルでビデオ化されている。その映像の中で起点となるスカルドゥから,トラクターの隊列と500人のポーターが出発した。1977年の時点では最奥の村がアスコーレと紹介されていた。現在ではそこまではシガール川,パラルドゥ川沿いに車道があり,ジープで移動することができるようだ。

とはいえ,スカルドゥの標高は約2400m,アスコーレが約3500m,K2のベースキャンプは5100mなので,世界第2位の高峰はそう簡単には姿を見ることはできない。

1954年の初登頂から2007年までに284人がK2登頂を成功する一方で66人が命を落としている。同じ期間中にエベレスト登頂は延べ3681人が成功し,死者は210人となっている。登頂成功者に対する死亡者の割合は5倍となっている。

そういえば,カラコルム・ハイウエィからスカルドゥ方面に分岐する少し手前にある独立峰ナンガパルパットも多くの死者を出しており「人喰い山」という異名をもっている。

現在のスカルドゥは風光明媚な避暑地としてパキスタン人の人気は高い。日本人にとってはメインルートのカラコルム・ハイウェイから外れることもあって訪問者はフンザに比べて格段に少ないだろう。

しかし,インダス川を遡るルートの雄大な風景は(天気に恵まれてせいもあり)僕の山岳地域移動の中でも確実に5本の指に入る素晴らしいものであった。帰りには手前の山が切れたところでナンガパルパットの雄大な姿を見ることもできた。

また,スカルドゥの風景やサトパラ湖の風景は(高山の風景を除くと)フンザにも負けないものがある。今回の訪問によりすっかりスカルドゥの景色に魅了されてしまった。

スカルドゥ訪問から6年後にサイトの書式を変更する機会にこの地域の風景を細大漏らさず見ていただこうと写真の枚数を増やした。

ホテル・タジマハール

スカルドゥはリゾートのイメージはなく普通の町であった。通りは埃っぽく,車が通るたびに砂埃でちょっとつらい。コーチは大通りから少し入った小さな空き地で乗客を降ろした。ここがバススタンドかと思っていたら,帰りのバスは大通りから出発した。運営会社により場所が異なるようだ。

そこから埃っぽい大通りを500mほど歩くと,宿の多いところに出る。たまたま「タジマハール」の看板が目に入ったので中に入る。部屋は12畳,3ベッド,T/S付きで清潔である。3日間滞在するという条件で200Rpにしてもらった。

屋上からの風景|正面(南側)には大きな山塊が

マネジャーが宿の屋上に案内してくれた。ここからは町全体が見渡すことができる。正面(南側)には大きな山塊があり,その手前は大通りより一段低い緑の樹林帯になっている。どうやらその辺りに川が流れているらしい。

屋上からの風景|モスクのミナレットが高くそびえている

左側には大通りがまっすぐ伸び,ランドマークの白い塔が見える。少し左に目を転じるとモスクのミナレットが高くそびえ,その向こうは灰褐色の山並みが続いている。宿の背後にはもう山並みが迫っている。

町のランドマーク

ここはロータリーとなっており,だいたい町の中心となっている。正式には「バルティスターン記念塔」となっているが,そのいわれは不明である。スカルドゥのある地域は「バルティスターン州」なのでこの地域がインド独立時の混乱の中でパキスタンに組み込まれた記念なのかもしれない。

宿の前の通り

部屋で一休みをして夕方から町を歩いてみる。大通りの沿いの家屋はほとんどが平屋である。クツを修理しているおじさんにカメラを向け「写真を撮ってもいいですか」とたずねると笑顔でOKを出してくれた。このおじさんに限らず,この町の男性は写真に対して拒否反応はほとんど見られなかった。

子どもたちの写真を撮る

住宅街の手前に広場があり女性と子どもが歩いている。彼女たちの後をついて路地を歩いていくと,子どもたちが集まっている。外国人が来たということで子どもたちはさらに増え,20人くらいになった。さすがに全員にはヨーヨーを作ってあげられないのでヨーヨー適齢期の7人に作ってあげる。

近くに坐っていたおじいさんから「ワシの写真を撮ってくれ」と頼まれ,写真を撮り画像を見せてあげるとうん,うんとうなづき,「ワシの家に来なさい」と誘われた。おじいさんについて行き,民家の扉の中に入る。

「ワシの写真を撮ってくれ」と頼まれる

広い中庭があり,きれいな花壇と果樹園になっている。案内された居間はじゅうたんが敷かれ,壁際には背もたれの固めのクッションが並んでいる。

おじいさんは9人の子持ちで,たくさんの孫に囲まれて暮らしている。もっとも,近所の子どもたちも紛れ込んでおり,どの子が一族の子どもなのかよく分からない。甘いチャーイと青いスモモが出てくる。

この小さなスモモは適度な酸味がありおいしい。町の果物屋で探してみたけれどなかなか見つからなかった。ひと時をおじいさんや息子さんたちとの会話で楽しく過ごし,暗くなってきたので住所を書いてもらっておじいさんにお別れする。

早朝には軽いガスがかかる

07時少し前に宿の屋上に上がり町の写真を撮る。緑の樹林帯の上にはうっすらと霞がかかったようになっており,感じのよい写真に仕上がった。南の山の切れ目から雪山がのぞいており,その方角にこの地域の名所のサトパラ湖がある。今日は天気もよいので歩いてサトパラ湖に行くことにする。

サトパラ湖に向かって歩き出す

地図は無いけれどおよその方角は分かっているので何とかなるだろう。白い塔から南に向かう道をどんどん歩いていく。ちょうど登校時間のため大勢の小学生が歩いている。

小学校を発見

最初に訪問した小学校はクウェートの援助で建設されたもので男女別になっていた。子どもたちはみんな青色のシャツと紺色のズボンの制服を着ている。集合写真を撮ると,みんな緊張のためカチカチになっている。

麦は刈取りの季節である

近くの空き地はコンクリートのたたきになっており,刈り取った(引き抜いた)麦が広げて干してある。すっきり立ったポプラの向こうにはうっすらと雪を被った山並みがあり,なかなかの景色になっている。少し離れたところでは村人が麦を集めて積み上げている。

絵に描いたような風景

小さな用水路が現れる。草地に入ってみるときれいな水が流れている。この水路のずっと先にサトパラ湖がありそうだ。水路の向こうには目標の雪山が見える。 水路に沿って先を行くと何となく山が近くなってきたような気がする。水路もだいぶ広くなってきた。水はきれいで飲めそうだが,布やビニール袋がひっかかっている。「水路にゴミを捨てるな!」と声を大にして言いたい。

世界人口の5人に1人(およそ12億人)はきれいな水が使用できない環境に暮らしている。汚染された水を飲むことにより感染症にかかり,多くの人たちが苦しんでいる。命の源である水を大切にすることは,自分たちの命を守ることだと,この町の人々に知って欲しい。

もう一つの学校にて

道路わきに公立の小学校がある。声がするので見上げてみると2階で朝礼が行われている。階段を上ってみると,この学校には中庭が無いので建物の屋上で朝礼をしている。

子どもたちは国旗を前に国歌を斉唱し,その後は各クラスに移動してしまった。英語のできる先生が話しかけてきたため写真はあまり撮れずにちょっと残念な思いをした。

町では電気で製粉していた

パキスタン北部では水車の動力を利用し,石うすで小麦をひく文化が普及している。しかし,町では電力が使用できるようになると店先で製粉ができるようになり,あっさり文化が変わってしまう。それでも,北部一帯ではまだまだ水車製粉の文化は健在である。

水路に沿って歩く

だんだんよい雰囲気となる

さらに上流側に行くと人家が途切れ,水路はきれいになったので足を浸し顔を洗う。強い日差しを浴びてきた肌に冷たい水はとても心地よい。その先では水路と川が合流し,道が無くなっている。

風光明媚そのものの風景となる

この辺りの風景は絵になる。遠くに山頂がうっすら白い山並みがあり,そこを清冽な水が流れている。その川べりにはポプラの緑が鮮やかである。明らかにこの川はサトパラ湖から流れ出たものだ。

すばらしい風景が続く

ブッダの線刻画

このあたりに「サトパラ磨崖仏」があるはずだが,さっぱり案内等は見かけない。地元の青年2人が反対側の道路から下りてきて道案内をしてくれる。彼らのおかげで大きな自然石に刻まれたブッダの線刻画も見ることができた。

案内も無しに一人で歩いていたらとてもたどり着けなかったことだろう。もっとも僕が見たものは「サトパラ磨崖仏」ではないことが帰国後に判明した。

水路の工事

石ころだらけの道を行くと大きな用水路を造る工事が行われていた。ほとんど手作業で大きな石を積み上げ,セメントで固めていた。サトパラ湖のすぐ近くに発電所が新設されるというので,そのための水路であろう。

工事を眺めていたらお茶の時間になったらしく,なべいっぱいのチャーイができていた。僕も一杯ご馳走になる。疲れた体に甘いチャーイはとてもありがたい。

まだまだ先は長い

車道に出ると車が止まってくれた。サトパラ湖まで行ってあげると乗客が英語で話しかける。これはありがたいと車に乗り込む。湖の駐車場に着くと,「運転手に100Rpを払ってくれ」と告げられる。

2km弱で100とは高いので,「帰りはスカルドゥまでいくらだ」と聞くとやはり100だという。往復200Rpの料金は妥当なので2時間待ちということでお願いする。

サトパラ湖に到着

サトパラ湖はこの地域の観光名所である。湖岸にはレストハウスがあり,お茶と軽食を食べることができる。しかし,値段はとても高いので昼食は町に戻ってからにする。ヨーロピアンの団体が桟橋から小舟に乗って周遊に出かけるところだ。

湖面は明るい青色で周囲の灰褐色の山肌と鮮やかなコントラストを見せている。水はすばらしくきれいで,透明度は高い。湖岸からではその全貌は写真にできない。帰りに車を止めてもらい,道路から撮ったものの方が感じが出ている。

子どもたちが遠足に来ていた

僕は岸を歩いて写真のポイントを探す。女子小学生のグループがやってきた。制服姿の一団はとても絵になる。しかし,彼女たちの写真は難しい。下級生の3人だけが写真に応じてくれた。

ベンチに座る下級生の3人組を撮らせてもらう

欧米人は船で周遊する

欧米人の団体がサトパラ湖を訪問しており,船着き場から船に乗り込んで周遊するところであった。近くの茶店からサクランボが届けられたのにほとんど手を付けずに船に乗り込んでしまった。もったいないことだと,僕はちょっと大きな一皿分のサクランボをいただく。

立派な茶店がある

サトバラ湖は盆地状の地形に水が溜まったようだ

子どもたちはみんなこの車に入ってしまう

1.5時間ほど湖岸で遊び小学生の一団と一緒に駐車場に戻る。彼女たちは大型のジープに乗り手を振りながら去っていった。子どもたちは25人くらいいたはずであるが,みんなこのジープの中に収まってしまった。

この青は空の色を写している

僕の車の運転手はちゃんと待機しており無事に町まで戻ることができた。

広い河原はポプラの森になっている

午後はインダス川まで歩いてみようと大通りを西の方に歩き出す。通りの左側は崖になっており,下には幾筋かの流れになった川が幅1-2kmの平地を形成している。この平地が宿の屋上から見た樹林帯になっている。

売り物の民族衣装

絵に描いたような景色がいくつもある

一面の緑の向こうに山頂が少し白くなった山並みが連なっており,ここからの景色もなかなかのものだ。この道をそのまま行くとインダスに出るはずだが,生来の寄り道のクセが出て,途中で右に曲がってしまった。

これから農作業に出かける

一列に並ぶ麦,ポプラ,山の風景

しばらく行くと感じの良い田園風景が広がる。ちょうど麦が稔っている。畑の向こうにポプラの林があり,その背後に緑の全く無い山並みが見える。これだけで一枚の絵になる。

子どもたちは外国人を見てまず逃げ出した

近くの水路で遊んでいた子どもたちは僕が近づくと一目散に逃げてしまう。野生動物には自分の危険を感じる距離があるという。彼らの警戒距離は50mくらいのようだ。これでは写真にならない。

大人たちはその場に残っていたので,水路の水でヨーヨーを作り,彼らに子どもたちを呼んでもらった。何人かが戻ってきて写真におさまってくれた。男の子は洋装,女の子はカラフルなシャルワール・カミーズという伝統衣装を着ている。

川のそばに砂丘がある

田園風景を楽しみながら先を行くと川に出た。冷たい流れる足を浸してしばらく休憩をとる。後ろを振り返ると砂丘がある。川原に砂丘とはちょっと驚いた。どのような自然の力が働いてこんなところに砂丘ができたのか思い浮かばない。

背後にはやはり険しい山並みが連なり,この景色もなかなかのものだ。枝分かれして浅くなった川の周囲は草地になっており,何頭かの羊が草を食んでいる。これも絵になる。

水と羊の風景はなんとなく違和感がある

インダスはまだまだ先のようだし,日も傾いてきた。そんなときに年代ものの車が通りかかり,「町までいくよ」という。料金は50Rp,妥当な値段なのでお願いする。

夕食前に宿の近くを歩いてみる

夕食は宿でカリーをいただく

夕食は宿でとることにした。メニューの選択肢はそれほどなく,とりあえず無難なチキンカリーを注文する。カリー,ナン,サラダで80Rpは少々高いが,味はとてもよい。コックは頬ひげのパシュトゥーン人だ。

がっしりした体格と頬ひげのためパシュトゥーンの人々はとても怖そうに見えるが,実際は旅人に親切で陽気な人が多い。ペシャワールやチトラルで出会ったパシュトゥーンの人々は礼儀正しく,嫌な経験をした記憶はまったくない。

近郊に向かうジープ乗り場を探す

近郊に向かうジープは超満員である

今日はスカルドゥから20kmほど北東にあるシガール村を訪問しようと考えていた。インダス川を渡り,支流の川沿いにジープ道を北にいったところにある古い村だ。この川沿いにさらに行くと日本隊のK2登山に出てきたアスコーレの集落がある。当時はここが最奥の村と紹介されていた。

日帰りでシガール村を往復する乗り合いのジープの情報は宿では分からなかった。白い塔のあたりで「シガール」とたずねると,近くのジープ乗り場まで連れて行ったくれた。しかし,ジープには誰も乗っておらず,周りの人は手を広げて「10」を示す。おそらく10時発のことだろう。英語はまったく通じない。09:30に戻ってくるとやはりジープは動きそうにない。路地から出てきた人が「2時発だよ」と教えてくれる。これではとても日帰りは無理なのであっさりあきらめる。

朝食はハエとの戦いであった

朝食は大通り沿いの食堂でいただく。この町の食堂はハエが多くて難儀した。テーブルの上には常時10匹くらいのハエが止まったり,飛び回ったりしている。

となりのテーブルでハエを追うと,その分こちらのハエが増えるという仕組みになっている。そのため,自分の皿に止まったもの以外は追わないようにしている。

大きな鍋では何かが煮えており,今日は何にしようかと思案していると,中学生か高校生の集団が入ってきたので,あわててとなりの人の目玉焼きを指差して注文する。目玉焼きをナンに挟んで食べるのはちょっと技術が必要だ。見よう見まねで上手に平らげた。

石だらけの広い川原もある

川原のほうに歩いていくと両側が石垣になり,右側に小学校があったのでおじゃましてみる。ちょうど学校が終わったところで,子どもたちは校庭に集まっている。

残念ながら集合写真に参加したのは男子ばかりである。女子はカメラがまるで危険なものであるかのように避ける。女子の制服姿の写真はあきらめるしかない。

川原に出るとさきほどの小学校の男の子がまとわりついてくる。川のこちら側には石垣状の堤防がある。その横は一応道になっているが,石ころだらけでとても歩きづらい。

川では子どもたちや青年が遊んでおり,彼らのリクエストで何枚かの写真を撮ることになった。灰色の山並み,ポプラの樹林帯,川原を流れる一筋の川,ここもなかなかの風景だ。

ここの川原はあまりにも歩きづらいので,いったん道路に戻り西側の道路から川に下りてみる。道路から川原は20mほどの高い崖の上になっているので,景色はとてもよい。広い川原が眼下に広がり,川に沿って緑がはるか上流まで続いている。

昼食のため街に戻るく

この大なべの名前を知りたい

2004年にペシャワールで見かけて以来,この大なべの名前を知りたいものだと思っているが未だに不明のままである。

乾燥地帯とは思えない豊かな水の風景

川は本流と何本もの細い支流に分かれて,広い川原を好き勝手に流れている。乾燥地帯では水のある風景はどこでも絵になる。小さな流れでは女性たちが洗濯に精を出している。子どもたちは草地で遊んでいる。年齢に関わらず女の子の写真を撮るのはやはり難しい。

本流に足を浸してみる。身を切るような冷たさかと思いきやそれほどではなかった。広い石の川原を流れる時に太陽熱で暖められるようだ。

石に坐って足を乾かしながら,南の山並みを眺めて30分ほどを過ごす。わずかの風にポプラの木がゆっくりと左右に動いている。水音のため,あのポプラ独特の葉ずれの音は聞こえてこない。


インダス川を経由してスカルドゥへ   亜細亜の街角   フンザ