亜細亜の街角
■今回の旅行で4回も立ち寄る
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コルカタ (地域地図を開く)

ガンガーの支流フーグリー川の河口に開けた人口1200万人の大都市であり西ベンガル州の州都である。2014年の人口は1400万人を超えている。1690年にイギリス東インド会社がここに拠点を置いたときは小さな漁村に過ぎなかった。

その後,ベンガル総督が東インド会社のすべての土地を運営することとなった。東インド会社の支配地域がインド全土に拡大するとコルカタはベンガルのみならず英領インド全体の政治的中心となった。この当時の英語の呼称はカルカッタであり,現在でもこの呼称は十分に通用する。

さらに,独立時に大量の難民が東ベンガル(現在のバングラデシュ)から押し寄せ,都市整備がまったく機能できないほどの人口を抱えるようになった。そのためインドの他の大都市に比べ,旅行者にとってはもっともインド的なものを感じる,あるいは感じさせられる都市となっている。

今回の旅行ではヤンゴン→コルカタ→バングラデシュ→コルカタ→オシッサ→コルカタ→シッキム→ガンガー中流域→コルカタ→バンコクと移動したので,コルカタには4回立ち寄ることになった。そのため,掲載写真の撮影時期もいろいろであることをあらかじめお断りしておく。

ダッカのトランジット事情

ヤンゴンからコルカタに移動するとき,トランジットでダッカに宿泊することになる。ダッカ空港に到着してトランジット・カウンターに向かう。荷物は機内持ち込みにしているので問題ない。

カウンター周辺にはずいぶん大勢の旅行者が押しかけている。しばらく待たされてから係員があらわれ,行き先別にグループに分けられる。航空券は取り上げれら,代わりに引換証に相当するメダルをもらう。

さらにしばらく待たされてから係員と一緒にイミグレに行き,そこでパスポートを預け,番号入りのホテル・トークンをもらう。パスポートの引換証はない。係員は空港の前に停まっているワゴン車まで案内してくれた。

車は我々を乗せて一路トランジット・ホテルに向かう。部屋は10畳,3ベッド,T/Sは共同で清潔である。ホテルのマネジャーから相部屋をお願いされ,空港で知り合いになった60代前半のドイツ人と一緒に泊まることになった。

彼は英語,仏語,スペイン語,中国語,日本語,朝鮮語を話す。若い頃から世界各地を歩いており,かつ正確な記憶の持ち主である。話し好きで始まると1時間くらい続く。分かりやすい英語なのでこちらも退屈することはない。彼とはコルカタの宿でも同宿することになった。

ホテルに到着したのは21:30,それからしばらくして食堂で遅い夕食をみんなと一緒にいただく。ごはん,魚のから揚げ,チキンの煮込み,サラダと質量ともに十分であった。バンコク→ヤンゴン→(ダッカ)→コルカタ→(ダッカ)→バンコクの航空運賃は400$である。この格安の運賃でこれほどのサービスをして儲かるのかといらざる心配する。

翌日は朝食の後に車が迎えに来た。コルカタ行きの3人が乗り込む。空港に到着すると係員はいない。どこで航空券とボーディング・パスを手に入れるのか勝手が分からない。

アイルランド人の女性が近くのブリティッシュ・エアウェイのカウンターでたずねると,そこが引き渡し場所であった。BAのスタッフの指示でイミグレーションに向かう。そこのトランジット用のカウンターにトランジット乗客全員のパスポートが保管されている。僕とドイツ人のパスポートはすぐ出てきたが,アイルランド人女性のものは15分ほど待たされた。

コルカタの空港に到着し,入国手続きを済ませ外に出ようとすると,係員が何かを出しなさいと要求する。どうやら「tag」と言っているようだがそんなものは持っていない。何のことかわからず両手を広げて「分かりません」と言うと,EDカードを要求され,その下に付いているカスタム用の書類を切り取った。

どうもインドの仕組みは面食らうことが多い。ドイツ人の提案で空港から市内まではバスで行くことにする。ヨーロピアンのバックパッカーらしく無駄な出費は極力しない姿勢である。

空港の前の広場を横切り,幹線道路に出てバス・ストップを探す。残念ながら市内まで行くバスは見つからず,地下鉄のダム・ダム駅まで行って,そこから安宿の集まっているサダルまで行くルートになった。交通費は11Rpと格安となったが,けっこう疲れた。

結局,安宿でも彼と部屋をシェアすることにした。ドミ以外で部屋をシェアするのは僕にとって珍しいことだ。

バーナラス→コルカタ 移動 

バーナラス(12:00)→ムガールサライ(13:30)(20:45)→コルカタ(12:15)と750kmを列車(291Rp)で移動する。バラナシ→コルカタは列車の本数が少ないと聞いていたので,ボーダガヤの予約センターではムガールサライ→コルカタのチケットを買っておいた。

バーナラスからけっこう苦労してムガールサラーまで出て,予約していた列車に乗ることになる。しかし,その列車はバラナシを経由してくるとは,悲しい喜劇であった。

チェックアウトタイムの12時に宿を出る。ベニヤまでのリキシャーは10Rp,少し高いけれど荷物を持っているので抵抗できない。ベニヤにはBSがなく乗り合いのオートリキシャーしかない。料金は50と2人分を要求される。しばらく交渉して25になる。

毎度のことながらインドの乗り物の交渉は疲れる。オートリキシャーの前の席はとても危険だ。体の一部が車体の外に出るし,自分の体を支えるのも大変だ。この体勢で30分以上も悪路に耐えなければならない。あ〜,しんど...

ムガール・サライ駅はデリーとコルカタを結ぶ幹線上にあり,多くの列車が通る。駅の設備も一通りそろっている。クロークに荷物を預け町を歩いてみる。列車は定刻になっても入線しない。駅員は1番か2番ホームに入ると言うので,荷物を持って2つのホームをウロウロする。

ホームには列車の表示がないし,列車自体にも番号や名称表示がない。唯一,始発と終着駅の表示があるのでそれを頼りに自分の列車を見つけなければならない。列車が到着すると車両探しが大変だ。車両番号の表示もないので3回他の乗客に聞いてようやく席を探し当てた。

前回の経験からフリースを着て上段の寝台に横になる。すぐ横に扇風機が回っているが直接体に当たる風はわずかだ。いい気持ちで寝ていたら,4時に頭上の蛍光灯が付いて目をさました。下段で起きている人に合図をして消してもらった。

5時になると外が明るくなる。人々は三々五々に起き出す。お茶屋が通路を通ってやってくる。早朝の涼しさは強い日差しによって追い払われようとしている。

僕のブースではヒンドゥー対イスラムの宗教談義が交わされている。ムスリムの人がイスラムの教義を熱心に説明しているようだ。彼らは知人同士のようで朝食のチャパティをみんなで囲んでいる。僕は非常食のビスケットと水で朝食を済ませる。列車は昼過ぎにハウラー駅に到着した。

カーリー寺院

一休みをして,僕は地下鉄に乗ってカーリーガートに向かう。昔を懐かしみながらカーリーガート周辺を歩いてみるつもりだった。しかし,寺院の近くの路地裏学校で遊んでしまい夕方になってしまった。

別の日にカーリー寺院を再訪することになり,この路地裏学校ももう一度訪問することになった。参拝者が多い寺院なので周辺には供物やカーリー女神の写真や絵画を売る店がひしめいている。

カーリー寺院で異教徒が見ることができるのは黒い石に描かれた女神の恐ろしい顔である。それとても,供物の花輪などで囲まれてよく見えない。前回来た時は生贄のヤギの首を切り落とすところを目撃したが,あまり何回も見るようなものではない。参拝者は本堂の回りを時計回りに回り,カーリー女神のパワーにあやかろうとしているように感じられる。

路地裏の学校

二度目の訪問の時,子どもたちが路地裏にゴザを敷いて,小さな石板を使って勉強している。インドでは都市部においても,貧しさのため学校に通えない子どもたちは多い。ボランティアの人々がそのような子どもたちのために活動している。

別の日にここを再訪してみた。この日は顔ぶれの異なる子どもたちはが同じように勉強していた。子どもたちは自分の描いた絵を僕に見せに来る。はいはい,う〜ん,上手に描けたね。日本語でそのように感想を伝える。もちろん正確な意味は分かるはずもないが,やはり言葉のもつ雰囲気は伝わるようだ。こんなときは慣れない英語よりも,感情を込めた日本語の方がよい。

この路地にマンゴー売りがやってきた。先生が子どもたちのためにマンゴーを買う。この状況ではこのボランティア会の貧しい資金を使わせるわけにはいかない。マンゴー屋から値段を聞き,僕が支払うことにした。15人ほどの子どもたちが手にした30個ほどの小ぶりのマンゴーの値段は30Rpであった。あまりの安さに驚く。

神の愛の宣教師会

日が傾く頃,路地裏学校は終わり,カーリー寺院に向かう。目的はその隣にある「神の愛の宣教師会」の建物である。ムガール風の建物の入口にマザー・テレサの写真が飾られている。中に入ると大きな部屋に50ほどのベッドが並んでおり,老人,けが人が横になっている。

ボランティアの青年が彼らの看護のため働いている。僕も一人の老人の横に坐り,彼の話を聞くことにする。もちろん,彼の話す内容が分かるわけではない,ただ聞いてあげるだけで彼はとても嬉しそうだ。

「この世の最大の不幸は,貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていないと感じることです」とマザー・テレサは語っている。

彼女は旧ユーゴスラビアに生まれ,18歳で自らの希望で修道院に入った。インドの修道院に派遣され教師を務めるが,38歳のときカルカッタにおいて,彼女の言う神の招きに従って,貧しい人々の中のいちばん貧しい人々のために活動を始めることになった。

その原点となるものがこの建物である。マザーテレサは貧しい人々,病んだ人々を生涯にわたって愛し,助け続けた。彼女はイエス・キリストの「この小さい者たちにしてくれたのは,私にしてくれたのである」という言葉を大切にし続け,そのような人々の中に常にイエスを見ていた。

マザーは1997年にコルカタのマザーハウス(神の愛の宣教者会本部)にて87歳で死去したが,彼女の志はその後継者たちに引き継がれ,世界中で活動ししている。

人力車はそろそろ引退の時期であろう

カーリー寺院西側地域の子どもたち

早朝のマイダイン公園

バングラデシュ領事館

ヤンゴンではどのような理由なのかバングラデシュビザが取れなかった。そのためコルカタに来て,バングラビザを取ることになった。7時に宿を出て,マイダン公園を縦断する。芝生にシートを敷いてヨーギをしている一団がいる。

緑地の一部が囲われており,何かイベントがあるようだ。盛装し,馬にまたがった人々がたくさんいる。きっと彼らの行進があるのだろう。カメラを向けるとかれらは快くポーズを取ってくれた。

公園が終わると目の前にビクトリア記念堂がある。あまりにも白いので写真写りは良くない。中に入るには高い入場料が必要なので外からの写真にとどめる。僕は2回目なのであえて中に入らなかったが,やはり初めての場合は大きなホールや展示物を見ておいたほうがよい。

大通りに出て少し行ったところで左に折れ,あとはひたすら歩く。ガイドブックの示すところには領事館は無い。何回か地元の人に聞いて,1ブロック先でようやく目的の建物を見つける。

しかし,ここが領事館とはちょっと信じられない。9時過ぎにゲートが開き,受付が開始された。外国人とインド人の窓口が別れているのはありがたい。まず申請用紙をもらい記入する。近くの店でパスポートのコピーをとり,写真3枚と一緒に提出する。引換証をもらい17時に来るように告げられる。ネパール情勢が不透明なため,バングラに行く日本人が多いようだ。

パパイヤの切り売り

3月の初旬でもコルカタはとても暑かった。サダルからバングラデシュ領事館までを往復するのは大変だった。帰りには(往きもそうだったが)何回か水分を補給した。その中で,露店のパパイアの切り身はなかなかである。スイカや他の果物と一緒のこともある。お皿は木の葉で作られており環境奨励賞をあげたくなる。

路上で体を洗う

通りの横にはところどころに水が噴出しており,人々はそこで身体を洗っている,水道にしてはちょっと濁っている。蛇口などは無いので,川の水をそのまま出しているようにも見える。

路面電車は現役でいくつもの路線をもっている

お食事中に失礼します

肉屋の子どもたち

回転遊具に群がる子どもたち

サダル・ストリート周辺

大量の生ごみを積み込む

本当に撮りたかったものは・・・

サリーの細かいところを手直しする

ムスリムの子どもたちも多い

中央の4人は雰囲気が似ている

おねむになった・・・

最後世代のリキシャワラーであろう

部品を磨く

路面電車はいろんな形と色彩がある

中央郵便局

インドの国民車ともいうべきアンバサダー

端正な姿のイスラム寺院

バングラデシュから戻ってきてすぐに鉄道予約オフィスに向かう。ブバネシュワール行きのチケットを購入するためである。エスプラネードの交差点から西方向に大きな交差点があり,その近くにモスク(と思う)がある。

特異な形状の建物なので全景を撮ろうと努力したが,交通量が多くて果たせなかった。外国人専用の鉄道予約オフィスの対応は親切だ。日にちと,目的地,およその時間を告げると列車を探してくれる。06:00発の急行,2等で131Rpである。

マイダン公園のバスターミナル周辺

子どもたちが木から落ちた白い花を集めている

フーグリー川の近くを歩いていたら雨に遭ってしまった。貨物列車の線路脇にあるシートの下で雨宿りをする。近くにはいくつかのシートが張られ,人々が居住している。

子どもたちが木から落ちた白い花を集めている。一つもらって食べてみると甘みがある。これは,ワインが作れるという花なのかもしれない。

西岡直樹の著書に「インドの樹,ベンガルの大地」というインドの植物を題材にした秀逸なエッセイがある。その中で「モフワの酒」について記されている。

インド東北部の少数民族のサルタン人はモフワの花の季節になると,木の下を清掃し,翌朝こぼれおちた花を集め天日で乾燥させる。干した花は干しぶどうのようにおいしいが,サルタン人は干したモフワの花を必要なときにとりだして「花のお酒」をつくるのである。

西岡氏とくいのイラストはなかったのでどのようなものなのかは見当がつかないけれど白い花らしい。彼の記述と,この花はかなり類似性が高いので僕なりの「モフワの花」だとしておこう。

子どもを祝福する

歩き出すと再び雨が降り出し,今度は巡礼宿に逃げ込む。たたみ2/3くらいのベッドにゴザが敷いてある。奥ではバラモンが母親とその子どもに祝福を与えている。

渡し船でフーグリー河を渡る

鉄道予約オフィスに来たついでにハウラー駅を見に行く。船着場から対岸に渡るともうハウラー駅である。この渡し船はフーグリー河はハウラー橋を眺めるにはもってこいであり,しばしば利用している。今日はガスのためすぐ近くにあるハウラー橋はかすんでいる。

ハウラー駅

ハウラー駅では明日の列車が出るプラットホームを運行表で確認する。18番線である,しかし…18番線はどこにも無い。実は18番線以降は新駅にあるのだ。外から回ると簡単だが,中から行こうとすると大変である。あらかじめチェックしておいてよかった。

ハウラー橋

帰りはハウラー橋を歩いてみる,立派な鉄橋である。写真を撮っていると「ここは写真禁止」と注意された。

インドでは写真撮影禁止となっているものがいくつかある。軍隊関連の施設はもちろんのことであるが,空港,鉄道,鉄道駅,バスターミナル,橋など公共交通に関わる大半の施設も撮影禁止となっている。コルカタでは州政府の建物も禁止になっている。

記念に一枚などと気軽に写真を撮っていると,どこからともなく警察官があらわれ,撮影禁止だと告げられる。運が悪いと画像の消去を命じられるかもしれない。ということで,このような施設をとるときはトラブルにならないようにするため,周囲をよく確かめてからカメラを向けたほうがよい。

雰囲気はムスリムの女の子であるが・・・

二階建ての露店,下はきゅうくつそうだ

1週間後に戻って来た時のハウラー橋

端正な姿の教会

間口2間,奥行き1間の床屋

この暑さでは犬は大変だろう

マンゴーの季節である

街角の水場

ちょっとおもいろい色彩のヒンドゥー寺院

ドッキネショル寺院を見に行く

コルカタからローカル線でドッキネショル寺院に行く。シアルダー駅のローカル線窓口でキップを買う。しかし,プラットホームが分からない。出発案内には列車名が表示されていても行き先は分からない。運行掲示板で発車時刻を調べ,出発案内と照合するしかない。

30分ほどで駅に着き,みんなと一緒に歩いていくと寺院に到着する。履物を脱いで中に入る,これがヒンドゥーの寺院とは...,あまりにもきれい過ぎるのである。

ドッキネショル(ダキネシュワル)寺院

ヒンドゥー寺院特有の雑踏とおどろおどろしい神々がまったく見当たらないし,建物もまるでハウラー駅のように近代的かつ重厚である。しかも,この寺院はあのカーリー神に捧げられたものだというので二重の驚きである。

う〜む,こんなヒンドゥー寺院もあるんだと写真を撮っていると,ここも写真禁止であった。ゴメンナサイ。寺院内では(バラモン)僧が一列に坐り,人々から供物を受け取り,祝福を与えている。一部の僧は供物を食べており,この一角だけはヒンドゥー寺院らしい生々しさが漂っている。

寺院の裏側はフーグリー河になっており,そこのガートでも多くの人々が沐浴している。ドッキネショル寺院もまたガンガーのガートを意識した寺院であった。


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