亜細亜の街角
■シッキムの州都はけっこうな都会
Home 亜細亜の街角 | Gantok / Sikkim / India/Apr 2005

ガントク  (地域地図を開く)

インド22番目の州シッキムは面積7096km2,人口54万人の小さなものであり,ガントクはその州都である。住民の多くはこの地に古くから住む「レプチャ」と呼ばれるチベット系の人々と,紅茶農園の労働力として19世紀以降に移住してきたネパール系の人々である。

チベット,ネパール,ブータンに挟まれたシッキムには1642年にシッキム王国が成立している。それにはチベット仏教の宗派争いがからんでいる。チベット仏教にはニンマ派,カギュ派,サキャ派,ゲルク派の四大宗派が並存しており,時には対立抗争を繰り広げていた。

1642年にモンゴルのグシ汗の支援を受けたゲルク派のダライ・ラマ5世がチベットの最高権力者として政教一体の権力を有する法王として君臨するようになった。これにより,チベット仏教の中でゲルク派が主導権を握ることになった。

ゲルク派との抗争に敗れたニンマ派の3人の高僧がシッキムに逃れ,王を推戴したのがシッキム王国の始まりである。シッキム王国はチベットの属国のような存在であり,チベットを属国扱いしていた清朝にとっても支配地域の一部と考えられていた。

英国がインドを植民地とした時期にチベット軍はシッキムに侵入し,英国の反撃を受けている。その結果,1890年にチベットと英国の間でシッキム条約が締結され,シッキムは英国の保護国となった。

1947年にインドが独立すると,インドがシッキムに対する英国の権益を継承した。1975年に王政が廃止されたのを機に22番目の州としてインドに編入された。

ガントクはインドに併合されるまでは,シッキム王国の首都であった。シッキムは文化的にもチベットとネパールの影響を強く受けており,チベット仏教が根付いている。中国との国境が近いため外国人の入域は限定されており,現在でも許可証が必要である。

ダージリン→ガントク移動

ダージリン(11:20)→州境(14:05)→ガントク(15:30)と95kmを乗り合いジープ(120Rp)で移動する。Hotel Prestiege でガントク行きの乗り合いジープを手配してくれた。チェックアウトを済ませ受付でジープを待つ。

20分ほど遅れてジープがやってきたと従業員が教えてくれる。階段の上の道路に出る。運転手は陽気なインド人だ。ジープは背後の山を越えて行く。風が冷たい。山頂では広葉樹が優勢で,高度が下がると杉林,さらに下がると竹が現れる。

ニホンザルと同じ猿が道路わきに何かを期待するように坐っている。たきぎを背負った女性たちの集団をいくつか見かけた。やはり,山の暮らしは大変である。下りになると運転手はエンジンブレーキを使って速度を落とす。Lopshu の集落で昼食休憩となる。調理用のゆでたジャガイモ2皿,モモ4個,チャーイで7Rpであった。田舎の物価水準は驚きである。

ジープはジスタ川の谷に入り,標高250-350mのあたりを走り続ける。ティエスタ橋の向こうに州境のチェックポストがある。ここで外国人はパスポートとシッキムのパーミッションをチェックされ,双方の書類にスタンプを押され日付を記入される。

このチェックポストにはシッキム各地への道路情報が掲示されていた。道路状態はいつも通行可能というわけではないので,通行の可否も重要な情報として表示してある。ジープはジスタ川の支流に沿って高度を上げていく。谷から山頂まで立派な棚田ができている。ジープは4時間でガントクのジープ・スタンドに到着する。

ホテル・オーキッド

ガントクはシッキム州の州都で標高は1500mを越える。インド人の避暑地として発展しており,ホテルが林立している。オン・シーズンに入ったらしく,満員のため2軒のホテルで断られた。ホテルの料金も高く,200Rp以下の部屋を見つけるのはちょっと難しい。ホテル・オーキッドの一番安い部屋(100Rp)は4.5畳,1ベッド,T/S共同でなんとか泊まれるレベルである。

シッキムの人々の顔立ちをチェックする

肉屋はとても忙しそうだった

ガントクの町

中心部の歩道橋の南側には大きなショッピング・センターがある。中にはネットカフェもあり,日本語メール環境をインストールしてもらった。ガントクでは観光案内所を訪れることをお勧めする。シッキムの観光ガイドと移動地図がもらえる。その後の移動のとき,この地図はとても役に立った

観光案内所でもっらったシッキム・ガイドは大いに役に立った。ガントクの市内地図も入っていたので市場を目指す。直線距離はたいしたことはないが,斜面構造のため東西方向の道がないのでずいぶん歩くことになる。

市場は大きな建物の中に小さな店がたくさん入っている。シッキムは小さいけれど豊かな州である。食料品,日用品はなんでもここで揃いそうである。内部は混雑しているうえ暗いので写真には適さない。

ネパール人が多い

名前の分からない僧院か寺院

わずかな斜面で農業をする

チベット学研究所への道

町の南にあるチベット学研究所を見に行く。途中で西側の斜面がよく見えるポイントがある。残念ながら,ここでももやがかかったような状態である。谷を挟んで対岸にあるルンテックの斜面はかすんでいる。ましてや,遠くのヒマラヤなどは望むべくもない。

ロープウエイの下の駅から林の中の道に入る。なかなか気持ちのいい道だ。チベット寺のような造りのチベット学研究所の建物にはカギがかかっていた。のんびりと周囲の植物を見て回る。木性シダの若芽が,クサソテツのように巨大な渦巻状の突起を伸ばしている

庭の上のほうにタルチョが取り付けてあった。チベット文化圏では頻繁にタルチョを見かける。タルチョとはお祈りの呪文,仏教の経文などが刷られた旗のことだ。タルチョ用の版木にインクをつけ布に印刷する。

竿に取り付けられた細長い旗のようなもの,あるいは万国旗のようにひもに取り付けられた小さなものがある。寺院の近く,屋根の上,巡礼路,峠,橋などどこにでも掲げられる。風になびく度に書かれている経文が世界に広がっていくという。また,旅人の安全も祈願するありがたいものでもある。

チベット学研究所

市内ロープウェイがある

小学校を見つける

ガントクも斜面の町で坂道が多い。メインの通りから,石段を降りていったところに小学校がある。まだ午前中なのに帰宅する子どもたちが出てきた。学校の中庭では生徒たちが(朝礼のため)整列している。

校門前の小さな店の前で

校門前の小さな店の前に保護者を待っている子どもたちがいる。写真を撮ろうとすると,店の女主人が子どもたちを並ばせてくれた。これはありがたい。画像を見せてあげると母親たちが自分の子どももとってと売り込んでくる。

ネワール人担ぎ屋

シッキムはネパールとブータンに挟まれた小さな州だ。東西の幅は80kmしかなく,昔から両国との交流があった。そのためか,町にはネパール帽を被ったネワール(ネパール)人の移民あるいは出稼ぎ労働者が多い。

彼らの仕事は荷物の担ぎ屋である。坂が多く,細い道の多いこの町では繁盛している。しかし,1日中仕事があるわけではない。仕事の無い時間帯,彼らは通りに坐ってひたすら仕事を待つ。

顔立ちが異なるのでお隣さんかな

視界が開けると町が見える

東南アジアやインドでは竹は大きな株をつくる

中心部の立体駐車場

しゃれたテラスになっている

■調査中

市場は込み合っている

学校は午前中でお終いなの

いい笑顔に巡り合えた

ネパール人の担ぎ屋が待機している

この子たちも学校帰りである

上級生も午前中で終わりなのかなあ

ガントクの町にも常設の「Flower Show」がある

ヒマラヤの南山麓はランの宝庫として知られている。ネパールからブータンにかけては「ランの回廊」とも呼ばれている。ガントクの町にも常設の「Flower Show」がある。ただし,蘭の花が見られるのは日本の春の時期だけのようだ。僕がシッキムを訪れたのは4月中旬だったので運がよかった。

入口で10Rpを払い温室の中に入る。色とりどりのランが目に入る,地域の固有種も展示されている。ちょうど見ごろであり,ごく近くから花をみられるのもよい。とりあえず一回りしてから,ゆっくりお気に入りのものの写真をとる。

エンチェイ僧院

「Flower Show」でランの花を満喫してからエンチェイ僧院に向かう。地図ではすぐのようになっていたが,町の北東にある電波塔の近くで,ずいぶん歩くことになった。

途中で日本人旅行者と一緒になった。ダージリンに1月近く滞在して,カンチェンジュンガが見えたのはたった5日だけだったという。シッキムでヒマラヤが見られるのか不安になる。僧院は立派なもので,内部のすばらしい壁画は写真禁止であった。

エンチェイ僧院は観光名所である。ヨーロピアンの団体がバスで乗りつけ,さかんに写真を撮っている。彼らがいなくなるまで別の施設を見学する。少年僧が灯明の番をしている。

ギーという水牛の乳から作ったバターが燃料になる。少年僧は蜀台をみがき,火を入れている。僧院からの帰りは雲行きが怪しくなる。宿の手前で降り出し,宿に着いたらじきに本降りになる。

アセロラかな


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