Home 亜細亜の街角 | Nepalganj / Nepal / Sep 1998

ネパールガンジ  (参照地図を開く)

カトマンドゥから西に直線で約300km,西ネパールの中心都市でインドとの国境が開かれている。カトマンドゥから空路では1.5時間,陸路ではほぼ1日の移動となる。これといった見どころはなく,北部のヒマラヤあるいは西部のロイヤル・バルディア国立公園への中継地となっている。


恐怖のフライト

カトマンドゥの国内線空港はのんびりしたものだった。空港の待合室の展望台には猿が遊んでいる。体型は日本猿であるが尻尾は長い。かなり餌付けが進んでいるようで,人間を恐れるそぶりは見せない。ネパールガンジ行きの飛行機は20人乗りの小さな双発機である。飛ぶ前から空模様が怪しい。

出発してしばらくすると,飛行機は乱気流の中に入り激しく揺さぶられた。エアポケットにも何回か落ち込んだ。乗客の中からときどき悲鳴が聞こえる。さすがに無理と判断したのか,目的地の半分くらいで引き返すことになった。飛行機に乗ってこれほど恐怖を感じたのは初めてである。結局,この日のフライトはキャンセルになり,宿に引き返すことになった。翌日,夕方の便でようやくネパールガンジに降り立つことができた。


国境の街

ネパールガンジの標高はせいぜい200mである。ネパールはヒマラヤ山中の国というイメージが強いが,国土の1/4はタライ平原と呼ばれる低地である。ネパールの国土は東西に800km,南北には約200kmのほぼ長方形をしている。この南北200kmの高度差が8000mを超える。

緯度的には亜熱帯に属するが,標高により気候は異なる。人々はせり上がっていくヒマラヤの斜面に,段々畑を作って暮らしている。タライ平原はマラリヤが蔓延しているため,一部の民族以外は居住しておらず,亜熱帯林と豊かな生態系が残っていた。しかし,巨大な人口圧力により,タライ平原にも開発の波が押し寄せ,地域の森林はもう2割程度しか残っていない。

ネパールガンジの町から馬車にゴトゴト揺られて国境に着いた。ゲートの向こうはインドである。土地の人々は国境を自由に行き来している。彼らには入出国の手続きは適用されないようだ。暑い午後の日差しの中で,平和な国境ゲートをしばらく眺めていた。

この一見のどかな国境から,大勢のネパール少女がインドの娼館に売られていくという。少女人身売買の問題に取り組んでいるネパールのNGO「ラリグラス・マイティ・ネパール」の調査によると,ネパールから年間7000-8000人もの少女がインドへ売られて,売春を強要されている。

ネパールは世界でも識字率の低さが群を抜いている。文字を読めるのは国民の4人に1人程度である。さらにこの種の情報が農村まで伝わっていないため,「カトマンドゥの工場への就職を手配してあげよう。給料もいいから,家族への仕送りもできるよ」という言葉に簡単にだまされ,親が娘を手放したり,親思いの子どもが自分からついて行ったりしてしまう。

インドの大都市の娼館から救出された少女の多くはAIDSに感染しており,彼女たちの故郷の村で受け入れを拒否されることも多い。「マイティ・ネパール」では売春被害にあった少女の保護施設と自立のためのリハビリセンター,職業訓練施設,さらにはHIVや結核,肝炎に感染している少女たちのためのホスピス(死までの時間を心安らかに生活するための医療ケアとメンタルケアを行う)までを運営している。

町はドゥルガ・プージャの最中であった。紅白の幕に囲まれた祭壇があちこちにある。ドゥルガはヒンドゥーの最高神シヴァの神妃で,ライオンに乗り,10本の腕に強力な武器を持つ。世界を支配した不死の魔人マヒシャを引き裂き,世界に平和をもたらしたという。その正義の勝利を祝うのがドゥルガ・プージャである。素晴らしい像は祭りが終わると川に流され,ドゥルガは天界に戻るという。


グラリヤの町

今回の旅行の目的は「タルー」の人々に会うことなので,ジープをチャーターして西を目指す。道路状態はひどく悪い。行程はゆっくりしたものになり,グラリヤという町で1泊することになった。町に1軒しかないと思われる宿はまあまあ清潔なベッドがあり,泊まるには問題ない。問題は停電である。ローソクが少ないので共同のシャワーは半暗闇の中で手探りで使用する。夕食はごはん,マトンカリー,ダルとネパールの定番である。食堂に2本のローソクの光で食べるのは,それなりに趣がある。


タルーの人々

ネパールとインドの国境地帯に位置するタライ平原は,マラリアが蔓延していたため開発が進まず,豊かな森林と動物の宝庫となっていた。タライの先住民に相当する人々は「タルー」と呼ばれ,自らはラジャスターンの王族とつながりがあるとしている。しかし,子どもたちのお尻には「蒙古斑」があり,彼らが東からやってきた民族であることを物語っている。

彼らは一族でロングハウスという一種の長屋に住み,伝統的な共同生活をしているという。女性の民族衣装は背中で止める短いブラウスと巻きスカートである。このような人々に会うため,あちこち郊外を訪ねてみた。確かにこの辺りも多くのタルーの人々が暮らしているが,インドの農村と変わらない暮らしになっていた。それでも,家の壁はタルー伝統の土壁であり,家の中には粘土製の大きな穀物貯蔵用の壺が置かれている。壺の表面には彼らのシンボルの一つクジャクが描かれていた。

旅行者が珍しいのか村の人々が集まってくる。いくつか面白い道具があるので触らせてもらう。石臼は麦などをひいて粉を作る道具だ。上下2枚の石の円盤からできており,上の円盤の中心に穴があいており,そこから穀物を入れ,取っ手を持って回転させると,上下の円盤の隙間から粉が出てくる。楽しい作業だがけっこうな重労働である。


まきを運ぶ

幹線道路をジープで移動しているとき,森から薪を運んでいる女性たちを見かけた。ジープを止めてもらうと彼女たちは薪を放り出して逃げていった。どうやら警察か森林保護官と間違えたらしい。タライのうっそうたる森林も,開発によりどんどん小さくなり,人々は薪炭材にもこと欠くようになっているようだ。僕たちが政府の役人でないと分かると,彼女たちは薪のところに戻ってきた。10-12才の少女も何人か含まれている。子どもたちの写真を撮り,お礼にキャンディーを1個ずつあげると,うれしそうに村に戻っていった。


カルナリ川の岸辺

タライを横断する幹線道路は,カルナリ川の手前で途切れていた。橋は無く渡し船が唯一の交通機関のようだ。人々は所在なげに渡し船を待っている。こんなところにも小さな家があり,人々の生活があった。ごはんをいただいた後,ここで車をあきらめ,船と徒歩で奥地のタルーの村に向かう。



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