亜細亜の街角
感じの良い中庭を見ながら朝食をいただく
Home 亜細亜の街角 | Denpasar / Indonesia / Jun 2009

デンパサール  (地域地図を開く)

デンパサールはバリ州の州都で人口はおよそ50万人の町である。行政区画としては南西部のサヌールも含まれるが,通常デンパサールといえばププタン広場周辺を指す。

町の名前はデン(北),パサール(市場)に由来する。バリ島を訪れる観光客の多くは南のビーチリゾートを目指し,デンパサールに滞在する人は少数派であろう。

バリ島は面積5633km2,人口300万人の島であり,住民の大多数はバリ人と呼ばれる。バリ人はほとんどがヒンドゥー教を信奉している。

イスラム教がインドネシアを席巻した15世紀においても,ジャワを支配していたイスラム王朝もバリのイスラム化には執心しなかった。このあたりはインドネシアの重層的で多様な宗教観が表れている。このためバリ島ではヒンドゥー教が今日まで生き残ることができた。

クタパン(07:30)→ギリマヌッ(08:15) 移動

チェックアウトの前に宿の近くのお気に入りの食堂で朝食をいただく。ごはん,ソト・アヤム,コーヒーで9000ルピアは適正価格だ。

チェックアウトして150mほど離れたフェリー・ターミナルに向かう。入り口で5700ルピアを支払い,係員の指示にしたがい海上に突き出した桟橋を通り,その先端部に前扉を下ろしたフェリーに乗船する。

バリ海峡から見るクタパン

07:30に船は動き出した。ジャワ島最東端の景色を写真にしておく。Merapi 山は雲がかかっており,上半分は見えなくなっている。昨日,この山の全貌を見ることができたのは運が良かったのかもしれない。

町を歩いているときは気が付かなかった携帯電話とマイクロウエーブ用の鉄塔がずいぶん高く見える。

すぐにバリ島のギリマヌッ港が迫ってくる

幅の狭い海峡なのですぐにバリ島のギリマヌッ港が迫ってくる。この海域の交通量はけっこう多い。その間に三角帆の小さな舟がいくつも見える。おそらく漁船なのだろう。海の色はみごとなコバルト・ブルーだ。

08:15にギリマヌッに到着する。できればここからデンパサールまでの間の田舎の雰囲気のあるところに滞在したいところであるが,大観光地のバリ島ではそれはリゾートになってしまう。ということでガイドブックを一通りチェックして,デンパサールに直行することにした。

ギリマヌッ(08:15)→デンパサール(12:30) 移動

テロ対策の一環なのかをギリマヌッのバスターミナルに入るには身分証明書の提示が求められた。デンパサール行のバスの車掌は2.5万ルピアを要求した。クタパンで確認していた料金は1.5万ルピアである。

バリ島内での乗り物における外国人料金はひどいものであった。僕が1.5万だと主張すると車掌は2万に値下げしてきたのでそれで妥協することにした。

バスは08:30に動き出したものの,乗客の乗り降りや荷物の積み下ろしで時間がかかり,12:30にデンパサール近くのウブン長距離バスターミナルに到着した。デンパサールの周辺はツーリスト・バスを除きバス路線がなく,ベモ(乗り合いコーチ)が庶民の足となっている。

Suli Inn

このベモがまた性質が悪い。特にウブンは観光客がよく集まるところなので悪い面だけが増幅されている。乗客サービスなどはまったく眼中になく,しかも態度は横柄である。インドネシアでもっとも感じの悪いところであった。

デンパサール中心部までは3kmほどなので通常価格は3000ルピア程度のところに,4万ルピアとか2万ルピアを請求されたおいおい,ギリマヌッからここまでのバスが2万ルピアだよ,どうすればそんな値段が出てくるんだ。

あまりの不愉快さにバイクタクシー(1万ルピア)で移動した。バリ島のベモは外国人にとって利用価値のないものになってしまったようだ。20年前の素朴なバリを知っているものとしては,あまりの落差に気分が暗くなってしまう。

予定していたプリ・オカ・インは満室だったのでスリ・インまで歩くことになった。道路はバイクの流れが途切れず,横断するのは一苦労だ。

スリ・インの朝食込みで9万ルピアの部屋は8畳,ダブルベッド,トイレ・マンデー付きで清潔である。客室は中庭を囲むように配置されており,部屋の前にはイスとテーブルがあり,夕涼みもすることができる。

デンパサールには3日滞在しフローレス島のマウメレまで飛んで,その後はバスと船を乗り継いでバリに戻ってくる計画であった。バリをじっくり見るのは最後にしようと考えていた。

宿のスタッフのバイクに乗せてもらいメルパティ航空の事務所に向かう。マウメレ便の片道は178万ルピア(1.78万円)だという。フローレス島は格安航空会社が運行していないのでこの値段になるようだ。即座に購入は断念した。

マーチングバンドの練習

夕食かたがたクレネンBS(バススタンド)の近くにあるナイトマーケットに行く。途中に二つの学校があり,どちらの校庭でもマーチングバンドの練習が行われていた。小学校でも14時から夕食を挟んで19時近くまで練習は続くようであった。何か競技会のようなものがあるのかもしれない。

校庭の周辺には子どもたちの母親がゴザの上に座っており,休憩時間になると子どもたちはそちらで休むようになっている。

ナイトマーケット

デンパサールの街は街路灯が少なく暗い。歩道は下水にもなっており,ときどき落とし穴があるので要注意だ。暗くなったら車道を歩く方が安全かもしれない。ナイトマーケットはブルーシートのテント村であった。衣料品,日用品,CDなど雑多な商品が大量に並べられている。

中央部に食堂が集まっており,こちらは屋根付きの建物である。一回りしてごはんと焼き魚(1万ルピア)をいただく。インドネシアでは魚系の料理はほとんど外れは無く,今日もまあまあの夕食となった。

ナイトマーケット・衣類売り場

繊維産業はインドネシアの最重要な産業であり,非石油・ガス製品部門を除くと最大の輸出産業である。インドネシアの繊維産業を近代産業に変貌させたのは1960-70年代に進出した日系企業であり,多数の雇用を生む基幹産業に成長させた。しかし,その繊維産業も1990年代の半ばから輸出競争力に陰りがみえてきた。

繊維産業は資本・技術集約産業であり,その下流の縫製産業は労働力集約産業のため世界的な賃金競争にさらされることになる。このマーケットではジーンズがわずか2万ルピア(200円)である。これほど安くはないにせよ一定の品質をもった安価な海外製品が日本の流通にも入り込み,衣類に関してはデフレの時代となっている。

外の路上で商売するサテ屋

インドネシア,マレーシア,シンガポールなどではではサテと呼ばれる串焼きが庶民の食べ物となっている。外観が日本の焼き鳥に似ているので例えば「インドネシアのヤキトリ」などとも呼ばれている。肉の材料はチキンが多く山羊もあり,フィリピンでは豚もよく使用されている。

ジャワ島のサテのルーツはアラビアとされており,それをジャワ風にアレンジしたものである。ソースはピーナッツを使用した甘系ものが多く,たくさんつけると鳥自体のおいしさが味わえないので量を加減する必要がある。この日は夕食の魚料理に満足していたのでこの屋台のサテ屋に立ち寄ることはなかった。

マンガの貸本屋

帰り道でマンガを主体とする貸本屋があった。日本のマンガは東アジアを席巻しており,台湾,タイ,インドネシア,フィリピンではこのような貸本屋がたくさんある。日本でも紙芝居と貸本屋は戦後20年の主要な文化となっていた。マンガに関しては収入に比して相対的に高価な本を「買う」よりも「借りる」ことが普通であった。当時は著作権における貸与権については法律がなく,出版社にとっても貸本屋は主要な顧客であり,もちつもたれつの関係であった。

しかし,経済成長により中間所得者層が増加するとテレビの普及により紙芝居は淘汰され,マンガの本も買うものになっため貸本屋も次々と廃業していった。現在の日本は本そのものが電子情報となり,ダウンロードして読むものに変わりつつある。書籍の文化も曲がり角に来ている。

マーチングバンドの練習は続いていた

ナイトマーケットの帰り,学校の校庭ではやはりマーチング・バンドの練習が行われていた。競技会かイベントの日が近いとはいえ,小学生がこんな時間まで練習させられるのは気の毒なことだ。

バリ以西の行程が決まらない

06時に起床し,ベランダのイスで庭を眺めながらガイドブックを読み,今後の予定を考える。この宿の中庭はとても感じが良い。適当なタイミングでスタッフが朝食を運んできてくれる。

トースト,卵焼き,紅茶の取り合わせは満足できる内容であった。オーナーと思われる上品な老夫婦から日本語であいさつされ,思わず日本語で答えてしまった。

町を歩いてみると普通の民家の門や庭先には異形の石像が並んでおり,それらを探しながら歩くのも楽しい。また,家の前にはヤシの若葉で編んだ小さな容器に花びらなどの供物が置かれている。踏むのは失礼なので歩道を歩くにも注意は必要だ。

夜は下水の落とし穴,日中は供物とデンパサールの街歩きは注意することが多い。通りすがりの高校ではこの時間から吹奏楽の練習が行われている。

デンパサールの観光案内所に行ってガイドブックに記されているADSP社の高速フェリーの運航日時と電話番号をたずねる。しかし,職員はブノア→マウメレ間の高速フェリーについては知らないという。これはちょっといやな予感がする。しかも,電話も通じない状況である。

ここで,高速フェリーは廃止されたと思いつくべきであった。しかし,マウメレまでの直行フェリーは大きなメリットがあるので,諦め切れない気持ちが「路線廃止」という考えをこころの片隅に押し込んでしまった。

結論としてガイドブックの記載曜日にフェリー会社を訪ねるとどこにも見当たらず,最終的にはバスとフェリーを乗り継いでフローレス島に向かうことになった。

不思議な置物

歩道から見える民家の軒先に置かれたテーブルで家の人がお茶を飲んでいる。白いタイル張りのかなり広い空間は屋外の生活を楽しむバリの人たちにとって重要なものなのであろう。

その近くに二股の木の根もしくは幹をさかさまにした置物がある。側面には魔物が彫り込まれており,このイメージはスピルバーグ監督の映画のものと重なる。家の人に断って不思議な置物やベンチの両側に置かれた鬼神像を撮らせてもらう。

ジャガッナタ寺院

デンパサールには多くの寺院があり,無名の寺院にも見ごたえのあるものも少なくない。ガイドブックに頼らず,自分のお気に入りを見つけるためのんびり散策するのもお勧めである。

ともあれ,今日の第一目標はジャガッナタ(Jagat nata)寺院にする。ジャガッナタ寺院はインド的に発音するとジャガンナータ(宇宙の王)寺院ということになるだろう。インドオリッサ州のプリーという町にも同名の寺院がある。

歩道から見るとジャガッナタ寺院は低い壁に囲まれており,曲がった幹の樹木が壁の内側に並んでいる。日本的な表現では古刹のイメージがある。

この寺院にはヒンドゥーの三大神(ブラフマ,シヴァ,ヴィシュヌ)が統合されたバリ・ヒンドゥーの最高神が祀られているという格式の高いものである。

寺院内の鬼神像にも布が巻かれており,このような異形のものですら信仰の対象になっていることが分かる。左側の壁の無い建物の中には正装した人々が集まり,なにかの説明を受けている。正面のスクリーンにはプロジェクターで映像が映し出され,ここだけは現代風である。

不思議な塔と鬼神像

中央部に不思議な形の塔が立っている。この塔自体が神格をもっているのか黄色の布が巻かれ,最上部には日傘が取り付けられている。この塔は宇宙そのものをシンボライズしたものだという。

塔の周囲には濠が巡らされ,信者以外は塔に向かう橋を渡ることはできない。最高神の祀られている寺院なので,毎月の満月と新月の夜には盛大なウパチャラ(宗教行事)が催され,正装の人々でにぎわうという。

濠をまたぐ橋の向こうに鉄製の扉があり,その内側にご神体があるようだが布が巻かれているのでよく分からない。橋の脇には異形の鬼神像があり,これらの鬼神像は悪霊が入り込まないように家や建造物を守っているようだ。悪霊を近寄せないため恐ろしい姿をしていると考えれば納得がいく。

不思議な塔の周囲をヒンドゥーの作法に則って時計回りに回って写真を撮ろうとした。しかし,その前に庭掃除のおばさんにつかまり,帯を締めることになった。バリ島の正装では男性はシャツの下に,女性は上に帯を締めることになっている。

カーラ

この寺院にはあらゆるところにカーラと呼ばれる恐ろしい形相の像やレリーフが彫り込まれている。カーラはインドネシア・ヒンドゥー独自のモチーフであり,9世紀の建造物であるボロブドゥールやプランバナンにも見られる。この頃はバリ島もインド文化を取り入れているが,カーラの発祥の地は東ジャワであろう。

バリ島の王朝はしばしばジャワのヒンドゥー王朝の支配を受けており,バリ海峡を隔てたジャワ島で隆盛していたヒンドゥー教,仏教およびそれらに関連する宗教芸術はバリ島にも伝わってきたとことだろう。

さらに16世紀にジャワのマジャパヒト王国がイスラム勢力により滅亡した時,王族,貴族,技術者たちがバリ島に亡命しており,東ジャワのヒンドゥー文化が継承されることになった。

建物の壁面と周壁に挟まれた先にもう一つのブロックがある。こちらの建物はレリーフがすばらしい。なんとなく愛嬌のある鬼神像と背後のレリーフの取り合わせがおもしろい。通常は門を守るカーラがここでは壁面の飾りとなっている。

小塔

このブロックでは背の高いお堂の壁面にいくつもの鬼神像やカーラのレリーフが飾られており,このお堂に神が宿っているような感じを受ける。

インドのヒンドゥー寺院の中には凝りに凝った壁面彫刻を持つものが少なくない。ここのお堂は壁面を覆うのではなく要所に精緻なレリーフや像が配されており,バリ独特の建築となっている。

バリ・ヒンドゥーのカーラや鬼神像の造形も独特であり,インドからの輸入文化を消化し,発展させ,完全にバリ的なものに変換している。

小塔壁面のレリーフ

小塔の壁面も多くのレリーフで飾られている。ボロブドゥールやプランバナンのレリーフもすごいと思ったが,バリ島のレリーフはそれらに比してまったく見劣りはしない。その精緻さには驚くばかりだ。

境内にはたくさんのプルメリアの古木がある。インドのヒンドゥー寺院同様にバリの寺院でもプルメリアの木は多い。この花は神々のお供え物にしばしば使用される。

バリの人々は寺院だけではなく自宅の中でも複数のお供え物の場所があり,毎日,ときには日に2回お供え物が置かれる。それだけにプルメリアの花の需要は大きい。

バリ式の塔門

ジャガッナタ寺院のとなりには博物館がある。ここの敷地はけっこう広く4つの棟に分かれている。そのうちの一つの棟の入り口となっている塔門がある。バリの塔門といえば上部を欠いた特異な形状の割れ門が有名であるが,このような形式の塔門もある。

この形式の門はバリの芸能鑑賞が行われる舞台の背景にもなっている。門の両側にガムランの奏者が並び,踊り子はこの門から現れ,ここから退出するようになっている。

塔門のカーラ

博物館の塔門にも見事なカーラのレリーフがあり,ついつい写真にしてしまう。建物の入り口のところに竹製の木琴(竹琴)が置かれており,関係者の男性が弾いていた。バリには竹製の木琴が何種類かあり,鍵盤(音板)が板状のものと,筒状になったものがある。

この博物館で演奏されているものは筒状のものであり,有名なものとしては「ジュゴグ」がある。音は普通の木琴に比べて柔らかく,余韻をひきずるように感じる。木琴をたたくための道具の名前が分からなくて調べると「ばち(撥)」というらしい。太鼓をたたいたり,三味線を弾くための道具と同じ名前であった。

博物館展示物|王族の人形

博物館は4棟に分かれておりバリの王族の生活や宗教儀式,文化を見ることができる。写真は王族と思われる人物像である。これとそっくりなものはジョグジャカルタの王宮博物館で見かけた。

博物館展示物|バリ風の絵画

バリは芸術の島として有名である。絵画,木彫り,音楽,芸能と多彩な芸術が大衆的に伝えられてきており,中でも絵画は欧米の画家たちにも大きな影響を与えた。

バリ絵画はいくつかの美術館に収蔵されており,そのような絵画とこの博物館にあるものはまったく異なっている。この博物館にある古い絵画と現代のバリ絵画の間には断絶があり,それは20世紀に入ってからのバリ流の文芸復興によるものだ。

1917年の大地震や翌年のインフルエンザの流行を人々は神に対する儀礼をおざなりにしたためととらえ,かっての儀礼を新しい形で復興させている。

現在の絵画,音楽,芸能はこの時期に確立されている。オランダがこのような古典文化を保護していたことも文芸復興を後押しした。そして,それは現在の観光芸能につながっていく。

ププタン広場|戦士の像

ププタン広場はデンパサールの中心であり,ジャガッナタ寺院は通りを挟んで広場の東側にある。この東西約150m,南北約200mの広場はかってのバトゥン王国の王宮広場である。広場の呼び名になっているププタンとは「終わり」を意味し,1906年に凄惨な「死の行進」が行われた。

オランダが東インド会社を通じてインドネシアに支配に乗り出した頃,バリ島は8つの小王国に分裂していた。圧倒的なオランダ軍の武力により王国は次々と制圧あるいは懐柔されてその支配下に入った。

オランダに抵抗していたバトゥン王国も孤立無援の状況で包囲された。最後の時を迎え王宮内ではププタンのの準備が行われた。ラジャは華麗な衣装と先祖伝来のクリスという短剣を身に付ける。王族や貴族たちも同様に着飾った。

王宮の門が開かれ王族を先頭に人々が女性や子どもたちを従えてオランダ軍の方に行進して行った。オランダ軍は停止を命じたが行列は止まらず,恐怖にかられた兵士たちは発砲する。

先頭の集団が倒れても屍を乗り越えて人々は進み,次々と銃弾の中で倒れていく。撃たれても死にきれない者は後から続くものがクリスで止めを刺した。戦闘行為ではなく集団自殺とでもいうべき行為であり,名誉の死であった。

広場には華麗な衣装をまとった死骸が累々と横たわっていたという。ププタンを目の当たりにしたオランダ人はバリ人の気性を恐れ,ジャワ島に比べて統治形態ははるかに緩やかであったという。

バトゥン王国の人々の勇気をたたえる戦士の像が立っている現在のププタン広場は市民の憩いの場になっており,子どもたちが大きなチェスに興じていた。

パサールバトゥン

ププタン広場を横切りパサール・バトゥンをめざす。途中で「Western Union」の表示のある銀行で両替所があったので1万円を両替する。レートは1$=10,000ルピア,100円=10,200ルピアであった。バリ島ではやはり円のレートが良い。

ついでに水性のボールペンを探してみた。今回の旅行は筆箱の盗難に会い,現地で筆記用具を買うことになった。残念ながら良いものは見つからず,かなり太めのものになった。日記帳を開くと翌日からはずいぶん太い文字が並んでいる。これではインクの減りが早いだろう。

パサール・バトゥンの周辺にはたくさんの露店がひしめいており,いい雰囲気だ。お供え物の花を扱う店が道端に並んでいる。プルメリア,ブーゲンビリア,マリーゴールドなどの花びらが商われている。名前の分からない薄い黄色の花も艶めかしい。

このような花が大きなカゴいっぱいに入っており,お店の人にお願いして拡大写真にする。画像一面のお花畑はぼくの好きな題材の一つだ。

花はこのようにバラで売られているだけではなく,ヤシの若葉を編んだ小さな容器に何種類かが入れられ,そのままお供え物として使用できる形態にしたものもある。

女の子がなにやらヤシの若葉で編んでおり,それは容器ではなく竹ざおなどに取り付ける飾りのようだ。この子は友達と一緒に写真に収まってくれた。バリではこのような飾り物を作ることが女性の必須アイテムとなっている。

発酵食品

スマトラ島でいただいたことのある小魚をバナナの葉でくるんで焼いたものはこの市場にも出ている。ところが包みが開いているものを見ると,小魚を唐辛子ペーストで固めたようになっており,これはとても手が出ない。もしかしてペーストと一緒に発酵させているのかもしれない。

魚の保存食としての発酵文化は日本でも長い歴史をもっているが,フナ寿司のような独特の風味をもつものは日本人でも簡単には手が出ない。

僕も東南アジアのたんぱく質系の発酵食品は食べなければ失礼にあたるという状況に追い込まれない限り手を出せない。それに対して,野菜系の発酵食品は気楽に市場で味見をさせてもらっている。

おこわ

この市場には「おこわ」も売られていた。おこわはもち米を蒸したもので,現在の日本では豆を入れた赤飯もおこわの仲間に入れられている。ここにある「おこわ」は日本の稲作の起源にもつながっていると考えられる。

日本列島にコメが持ち込まれたのはおよそ6000年前であり,熱帯ジャポニカ種であった。この品種は古代米と呼ばれており,焼畑で栽培するのに適しており,西日本で小規模に栽培されていた。

そのようなコメは表皮部分が赤あるいは黒っぽい色をしており,それを蒸すと色つきのおこわとなる。この文化は焼畑農耕とともに広く東南アジアや中国南部に残されている。現在の日本のコメは熱帯ジャポニカと渡来人の持ち込んだ温帯ジャポニカが自然交配したものであり,古代米の遺伝子は現在に受け継がれていることになる。

バリでは豚肉が解禁されている

バリ島ならではの食べ物もある。インドネシアの他の地域ではまず見かけることのない豚の丸焼きであった。広州風に毛を剃った皮に甘いたれをつけて焼き上げたものである。

インドネシアは「味の素」の製造工程で豚に起源をもつ材料が使用されたというだけで国民的な非難が沸き上がるお国柄である。こんなものを食べているのを見たらどのような反応を示すことだろう

。バリ島にはムスリムの人も大勢居住しており,食文化と宗教の大きな隔たりのため,二つのコミュニュティが交流することは難しいのではと考える。


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