亜細亜の街角
古都の宿代はずいぶん高くなっていた
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ジョグジャカルタ  (地域地図を開く)

ジョグジャカルタは人口320万人,ジャワ島東部に位置する古都でありジョグジャカルタ特別州という特別の行政組織をもっている。歴史を通じてジャワ島の中心的な位置を占め,仏教,ヒンドゥー教の盛衰,イスラム勢力の台頭,オランダによる植民地支配などの歴史を見続けてきた。現在はバリ島と並んでインドネシア最大の観光地となっている。

独立戦争時にジョグジャカルタはインドネシア共和国の臨時首都となった。独立達成後,オランダに協力的であった土侯国は廃止されたが,ジョグジャカルタのスルタンは開明的な人物で独立運動にも協力したので,特別行政地域の知事としてスルタン領の存続を認められた。1998年にインドネシアの旧体制が崩壊するとジョグジャカルタ知事も選挙制が導入され,スルタンの息子が直接選挙で知事に当選した。

バンドゥン(08:00)→ジョグジャカルタ(16:30) 移動

06時に起床し,荷物をまとめて駅の中にあるホカ弁に朝食を食べに行く。駅中だけあってここは早朝から営業している。今日は忘れずに料理の写真を撮っておく。

それを見て女性店員が笑い出し,それが縁で彼女らの写真を撮ることにした。彼女たちの中には色白,小顔で明らかにジャワ人とは異なる顔立ちの人がいる。バンドゥンは美人の里として知られており,それは彼女のような少数民族に負うところが大きい。

荷物を取りに戻り,歩いて3分の駅に戻る。列車はすでに入線していた。僕の3号車はホームからはみ出しており,列車の中を通り座席に着く。窓は上部の1/3が開くようになっており,窓を開けてガイドブックを読んでいた。すると,突然水が飛んできた。窓ふきサービスなのであわてて窓を閉める。モップと洗剤で洗い流すもののさほどきれいにはならない。

高原地帯に水田が広がる

08時に列車は動き出した。少し走ると600mの高原地帯には水田が広がっている。一枚当たりの面積は広く4枚で1haほどもある。日本では機械化を推進するため圃場整備が行われ,小さな水田を大きな水田に切り替えている。

インドネシアでは稲作の機械化は進んでいない。水田風景の中には機械はなく草取りの人々が働いているだけだ。この機械化されていない水田風景のもつ意味は大きい。農業(稲作)はインドネシアでは最大の就労人口を抱える産業である。その大半は小規模な家族経営の形態である。

この稲作を機械化したらどうなるか想像していただきたい。農村人口の多くは機械化により過剰となる。農村では食べることができないので,若年層は都市に職を求めめることになる。

しかし,インドネシアの場合は都市が新たな就労人口の受け皿になるには力不足であり,新たな都市の貧困層を生み出すことになる。農村から若者を都市に送り込む政策は社会の不安定化をもたらす。農業が機械化により効率化あるいは省力化することは,農業を基盤とする第3世界の国々にとっては必ずしも好ましいことではない。

面積12.7万km2のジャワ島には1.2億人の人々が居住している。平地は優先的に農地となっており,みごとな田園風景となっている。日本人の一人当たり年間米消費量はこの50年間で半減し,60kgを切るようになった。

それに対してジャワ島では年に3400万トンのコメが生産され,人口当たりは280kgほどにもなる。成人のカロリー摂取量をコメだけでまかなうとすれば200kgが必要であり,ジャワ島は十分にカロリー的に自給することができる。

高原地帯に水田が広がる

インドネシアで人口密度の高いのはジャワ島とバリ島という小さな島である。この2つの島は火山島のためミネラルに富んだ豊かな土壌が多くの人口を支えてきた。また,人々が水を管理し,持続的な農業を営んできたことも大きな要因である。

列車が高原地帯を抜け,ジャワ島南部の標高50mほどの地域に入っても同じような田園風景が続いている。16:30にトゥグ駅(ジョグジャカルタ駅)に到着する。大観光地とは思えないほど小さな駅である。駅前にはベチャが並び,地方都市のたたずまいである。

Hotel Metro

マリオボロ通りに出てもミニバスは見つからないので1万ルピアの約束でベチャ(三輪自転車)に乗る。たしかに,のんびり町を眺めるには良い乗り物だ。予定していたデルタは7.5万ルピアとガイドブックの3倍になっていた。再びベチャに乗りウィスマ・アリスに行ってもらった。ここは改装されて立派な宿になっており,ドミトリーはなく,個室も満室であった。

結局,メトロに泊まることになった。ここは僕にとっては安宿ではなくちゃんとしたホテルである。僕の部屋は10畳,2ベッド,トイレ・バスタブ付きでとても清潔である。床も大ぶりの白いタイルとなっており,裸足で暮らしていた。朝食がついて宿代は10万ルピアである。観光客が増えるにつれ,宿の設備は良くなり,それに合わせて料金も高騰している。物価の安いジョグジャカルタはもう過去のものになっている。

朝食

しばらくメールから遠ざかっていたので宿でメールを作成していると,外が騒がしくなる。何事かと外に出ると,表にあったバイクが燃えている。どうやら事故のようだ。従業員が消火器を使用したので火は消えたものの,すでに可燃部は燃えてしまっている。バイクの持ち主には気の毒なことだ。

宿の朝食はトースト,ジャム,紅茶,スイカとまあまあであった。僕は母屋の居間のようなところにある立派な机で日記を書いており,食堂に移動するのかと思っていたら,その机に食事を運んでくれた。

この机は食事をするにはもったいないくらい立派であり,ちょっと緊張しながらいただく。このホテルは大きな家を改装して二階部分と建て増しした一階部分の一部を客室にしている。僕が日記を書いている部屋には立派な調度品が並んでおり,往時は居間であったようだ。

市場

ジョグジャカルタの町は鉄道により南北に分断されており,旅行者が立ち寄るのはその南側だけである。南側は中心部に高い塀で囲われた1km四方ほどの王宮区域がある。王宮の北側に鉄道駅があり,その間の1kmをマリオボロ通りが結んでいる。僕の宿は王宮エリアの南東側500mほどのところにある。

06:30に朝食を終えて王宮の南門に向かって歩き出す。途中でかなり大きな生鮮食品の市場があったので立ち寄ってみた。肉屋には羽をむしられた丸ごとのチキンが積まれており,おばさんが包丁をふるって解体していた。朝食の食材を求める人たちでずいぶん混雑していた。この市場で見かけたのは売り手も買い手もすべて女性であった。

早朝から店を開いているのであるから売り手の女性は暗いうちから準備をしてきたことだろう。07時になってようやく朝ごはんを食べている人たちもいる。

インドネシアではごはんとおかずを紙にくるんで持ち歩くお弁当スタイルが一般的だ。油分の多い焼きそばなどはプラスチックのコーティングがされている紙に入れることになる。多くの場合,食事は右手を使用して食べる。商売のときは手が汚れるので,ビニール袋に右手を入れてご飯をつまんでいる。

街角の風景

王宮南門

町の中央部に塀で囲われた1km四方ほどの王宮区域がある。この城壁の内側には王宮だけではなく,一般の家屋がたくさんあり,中国の都市のような感じを受ける。

王宮エリアは周辺の道路とつながっている道が数ケ所に限られており,これを外すと随所に行き止まりがある。王宮の建物の周辺はさらに複雑になっており,方向感覚の弱い僕にとってはまさしく迷路であった。

南側にある唯一の門はバイクでも通行できる。この門は内側に階段があり,上ることができる。城壁は2mほどの厚みをもっており,城壁の内側は1.5mほど低くなった通路になっている。この通路から場外の敵を攻撃する構造になっている。ここは子どもたちの遊び場となっており,壁の窪みに入っている5人の子どもたちのおもしろい姿を一枚いただく。

南側の王宮前広場

王宮エリアの北と南には広場がある。南側の広場ではおそろいのTシャツを着た数百人の人々がエアロビで汗を流していた。このイベントはバイクメーカーが主催するものであった。ここから北に向かう道はないので,東側に迂回して北広場に出ることにする。この間はまったく普通の町であり,食べ物屋などを撮りながらのんびり歩いて行く。

マリオボロ通り

王宮南門からコの字の形で歩きマリオボロ通りに出る。この通りは王宮北側広場と鉄道駅を結んでおり,観光都市ジョグジャカルタの目抜き通りになっている。マリオボロ通りは南に下る一方通行なのに中央分離帯がある。片側はエンジンの付いた車両のための一方通行路である。片側は馬車道となっており,観光用の馬車やベチャのためのレーンとなっている。こちらは双方向の通行が可能だ。

昨日,駅前からベチャに乗ったとき,運転手は車道を走った。ベチャの場合は南行きは車道,北行きは馬車道というのがこの街のルールらしい。歩道にはベチャやバイクタクシーが並び,歩いているとひっきりなしに声がかかる。歩道に敷いたゴザの上で,あるいは観光客用のコンクリートのイスに座って食事をしている。食事は近くの屋台から調達したものである。

籐細工のフラフープ

歩道にはたくさんの物売りが店を出している。持てるだけの商品を持ち歩く行商のようなスタイルも多い。男性が籐でできたフラフープを売り歩いている。フラフープの起源は不明であり,3000年前のエジプトではブドウの蔓で作られた輪を棒を使って地面を転がす遊びがあった。このスタイルは道具だけは変わってもアジアの各地で見られる。輪を腰の回転により落とさないように回す遊びも起源が分からないくらい古い。

一般名詞は「フープ」であり,フープを回す動作がハワイのフラダンスの腰の動きに似ていたため「フラフープ」という言葉が生まれた。1958年に米国で大流行し,その年に日本にも上陸し大流行した。当時の値段は200円であった。しかし,因果関係は不明ではあるが,千葉県で少年3人が腸捻転となったことから警告が出され,流行は40日足らずで終息した。

笛とコマ

笛とコマを売っている行商のおじさんもいる。この種の商品はどこにでもあり,明らかに供給過多のため商売としては難しいことだろう。1990年に訪問した時はこのコマをお土産に買った。竹筒に芯を通しひもを取り付けてある。紡錘形ではないことと軽いため回転はそう長続きはしない。竹筒の一部に切欠きがあり,これが笛のように機能して回転中に音を出す仕掛けになっている。

ガジュマルはヒンドゥーの聖木である

ホテル・ナトゥール・ガルーダ

ジョグジャカルタ到着時の所持金は約30万ルピア(3000円)であった。インドネシアでも日本円の両替レートが良いのは,日本人観光客やビジネスマンの多いジャカルタ,ジョグジャカルタ,バリだけなので,ここまで両替を持ち越してきた。

この街の高級ホテルであるナトゥール・ガルーダの門をくぐり,右側の両替店で円のレートをチェックする。宿の近くの両替屋よりも1.25%ほどレートは良い。

それでも1万円が約100万ルピアである。1月末にジャカルタで両替した時は123万ルピアだったのでずいぶんルピアが高くなっている。4万円を両替して90万ルピアの差は大きい。とはいえこれでルピアの心配はなくなったのでのんびりと王宮を見学できる。

屋台は繁盛している

貯金箱

これは貯金箱である。竹筒の上下に布や植物繊維を巻き,中央部は焦がしたり着色したりして模様を描いている。上部のふたは簡単に取れるようだ。貯金箱というよりは小銭入れに近い。

■調査中

北側の王宮前広場には露店が多い

王宮の北側には250m四方ほどもある大きな広場があり,周囲は立派な道路となっており,中央にも南北方向の道路が通っている。この広場には休日ともなるとツアー客を乗せたバスが100台以上並び,駐車場のようになる。観光客の流れはここから王宮馬車博物館に向かうので,その周辺には土産物屋が並ぶことになる。

馬車博物館とジャワ建築

馬車博物館は王族の人々の等身大の人形をガラスケースの外から眺めるだけだ。女性の肌の色は青白くなっており,いかに色白が美人の条件であったとしてもちょっと不気味な感じを受ける。見学者が見ることができる建物は各種行事に使用されるものなのであろう。建物はそれぞれ独立しており,その間には通路のような構造物がない。建物の平面図は正方形か長方形,柱と屋根だけで構成されており,壁はない。

屋根は四面構造の寄棟であり,中央部の梁と外側の梁で支えられている。廂に相当する部分がとても長く,その分屋根の先端部の高さは低くなっている。これは壁の無い建造物でありながら,雨が内部に吹き込んでくるのを防ぐ機能をもっていると考えられる。暑い気候なので王室行事や芸能鑑賞を風通しのよい空間で行おうという考えなのだろう。

屋根は中央部の梁と外側の梁で支えられている。つまり,屋根は2段構造になっており,和風建築の棟木に相当するものが中央部の梁であり,小屋梁や軒桁に相当するものが外側の梁ということになる。外側の梁は四辺形に組まれており,長さに応じた数の柱で支えられている。中央部の梁は棟木のように一本の場合と,四本の柱で支えられた四辺形の場合がある。

どちらの場合も中央部の梁から外側の梁に向かって多数の垂木を取り付け,その上に屋根を葺いている。日本の寺社建築にもこのような手法はよくみられる。日本の場合は複雑な木組みにより屋根の四隅を少し持ち上げる構造となっているが,ジョグジャカルタの場合は反りは無い。

王宮南側の門かな

屋根付きの王座が博物館の建物の中に展示されているのはちょっと奇妙な感じを受ける。この王座の置かれている建物の周囲はロープが張られており,建物の外から眺めるようになっている。それでも観光客は子どもを含め,ロープの外にたくさん集まっている。

公開されている王宮の建物は北側と南側に分かれている。その間にもたくさんの建物があり方向感覚の乏しい僕は人の流れについて行くしかない。立派な門があり,ここが南側ブロックの入り口となっている。ここの博物館にも王族の人々の等身大の人形が展示されている。背景の調度類は本物なので北側よりは程度は良い。南側では10:30-12:00までの間,伝統舞踊の公演がある。

伝統舞踊の公演

この建物も梁と垂木により支えられた正方形の寄棟屋根となっている。屋根までの高さは10mほどもあり,天井と壁はない。屋根を支える梁は中央と外側,さらに屋根の端と三重になっている。二番目の梁までが建物内に相当する。この空間の床は石材で葺かれており,内と外が完全に分離されている。内部空間は楽師と踊り子のためのもので,観客は外側から鑑賞するようになっている。

すでに建物の一つの辺には音楽隊が座っており,ガムランの演奏が始まっている。楽師の正面のイス席には埋まっており,一般の観客は左右の辺に敷かれたゴザの上に座る。僕は写真のため最前列に座ることにする。ガムランはバリのものに比べるとゆったりとしてしている。その分,女性たちの足の運びや指先の動きがよく分かる。

スープのないおでん

王宮区域を出るのにけっこう苦労した。「ガスン市場」の横を通るJalan Ngasem の食堂で昼食をいただく。店の前に大きな蒸し器があり,中にはおでんの具のようなものが何種類も入っている。これを注文すると皿に盛ってくれる。スープのないおでんの感覚であり,具が9個とコーラで1.2万ルピアであった。味も期待通りであり,満足のいく昼食であった。

この食堂は床に座って食べる

クツを脱いで一段高くなった床に置かれている食卓に座る。室内は清潔で明るい雰囲気であるが,座卓で食事をする伝統文化を踏襲している。とはいうものの,インドネシアの一般家庭ではお皿にはごはんとおかずが一緒に盛られるスタイルである。ちゃぶ台のようなものは使用せず,床に座って左手にお皿を持ち,右手で食べるのが一般的である。それでも外食のときはスプーンやフォークが使用される。

Ngasem(ガスン)市場

ガスン市場は王宮区画内にある市場で食料品や雑貨も売られているが,ペット・ショップが集まったところとして有名である。メインは鳥であるが,犬,猫,爬虫類も並んでいる。昔は捕獲や飼育が禁止されていたオランウータンの子どもも堂々と売られていたようだが,さすがに今ではそのような違法行為は見られなくなった。

ここはけっこうお気に入りの場所であるが,なんといっても2009年のインドネシアでは強毒性の鳥インフルエンザで死者が多数出ている状態であったので,のんびりと鳥かごの間をすり抜けて見学するといういうわけにはいかない。

これはなんだ

おそらく「トッケイヤモリ」であろう。wikipedia によると「全長25-35cm,頭部は上から見ると三角形で大型,背面は細かい鱗で被われやや大型の鱗が混じる。体色は淡青色で橙色の斑点が入る個体が大きいが,個体や地域によって変異がある。また斑点が尾では帯状になる」と紹介されている。

生息範囲はインドから東南アジアの全域に広がっており,民家に生息するものも多い。安宿で夜間に「トッケイ・・トッケイ・・」と大きな声が聞こえたら,そこにもトッケイが暮らしていることが分かる。しかし,多くの場合,このように大きくてグロテスクなものではなく,体長は10-15cmくらいであり,体色も毒々しくはない。姿を見かけても,ああ,ヤモリだなと思う程度の(糞を落とされること以外は)無害の動物である。

地下道でタマン・サリとつながっている

ガスン市場の南側にはタマン・サリ(水の宮殿)があり,両者は地下道でつながっている。ガスン市場側から石段を降りたところに三人組のバンドが演奏していた。さすがにインドネシアのポップスは馴染みがないのでちょっと聞いてから2000ルピアを箱の中に入れて先に進む。

タマン・サリの地下には迷路のような入り組んだ通路があり,王宮に危機が迫ったときには兵士の移動通路あるいは王族の避難通路として機能していたされている。また,そのような通路の一部は王族の瞑想の場所としても使用されていた。

タマン・サリ入り口

タマン・サリ(水の宮殿)は王宮から少し離れたところにある西洋風の建築物である。中庭の池を囲むように壁と建物が配置されており,外からは中庭がまったく見えない構造になっている。手前にチケット売り場があり,日記には1000ルピアと記されているがそんなに安かったかなぁ。入り口にあたる門はテラスになっており,ここから前庭を見渡すことができる。

小塔から沐浴場を眺める

沐浴場のプールは長方形で長手方向の片側には3階建ての小さな塔があり,ここからスルタンは水浴びに興じる王妃や女官を眺めていたとされている。その反対側の建物は脱衣所であったようだ。観光客は小塔の最上部まで登り,往時のスルタンのように沐浴場を眼下に眺めることができる。しかし,ここからの沐浴場の眺めは下層階の屋根にジャマされてあまり良くない。

代わりに,僕の後に登ってきたインドネシアの美少女の写真を撮ることにする。それにしても,ここの壁面は落書きだらけである。誰も見ていないということで文化財に気楽に落書きするのはインドネシア人も同じだ。

池の水は少なく藻が発生しており,きれいな沐浴場の面影はない。少しエッキブラシで掃除をして水を入れるとずいぶん雰囲気は変わると思うのだが,王宮の管理部門にはその気はないようだ。水もときにはまったくない状態のこともあり,その状態では訪れた人は気の毒だ。池全体の写真を撮るならば,3階建ての小塔の反対側からがよい。僕が写真を撮ったときは手前に二人の女性が座っており,とても良いアクセントになってくれた。

バリ絵画が展示されている

ワヤン・クリッの舞台裏

ソノブドヨ博物館のワヤンは毎日19:30頃から開演される。ワヤンは東南アジア,特にインドネシアで盛んな伝統芸能であり,日本語では「影絵芝居」と訳されている。その名の通り,電球が灯され白いスクリーンの内側でダランと呼ばれる一人の演者が影絵の人形を操作し,観客はスクリーンの反対側から影になった人形劇を楽しむ構造になっている。

ダランの背後にはガムランの奏者と歌い手が控えており,物語の進行に合わせて演奏が行われる。ダランは人形の操作と紙芝居の語りの役を兼務しており,ワヤンの良し悪しはひとえにダランの技能にかかっている。正面の観客席からはガムランの演奏も人形の操作をしているダランも見ることはできないが,横からあるいは背後から見ても問題はない。

正面からはこのような影絵となる

歴史の長いワヤンはいくつかの形態に分かれており,ジャワ東部で行われているのはワヤン・クリッといって水牛の革で作った平面的な人形を使用する。世界的にも珍しいこの芸能は2009年には世界無形遺産として登録される運びとなった。とはいえ,ワヤンは物語が全く分からないので外国人観光客の人気が低く,開演時間に席についているのは僕一人であった。

しばらくして水の宮殿で会った日本人の団体数人がやってきたのでなんとか観客側の体裁は整った。夜まで観光に忙しいのは日本人くらいのようだ。僕も開演直後は写真で忙しかったが,30分を過ぎると退屈となる。なんといっても劇の内容がわからないので,音と影の世界である。09:15頃に添乗員の女性が回ってきたのを機に退出する。

キャッサバとデンプン

市場でキャッサバが無造作に置かれているのを目にした。キャッサバ(学名:Manihot esculenta)はキントラノオ目トウダイグサ科イモノキ属の熱帯低木である。マニオク,マンジョカ,カサーバとも呼ばれ,世界中の熱帯にて栽培されている。(wikipedia)

茎は垂直に立ち上ががり,葉は同心円状の5〜10小葉からなる。葉が美しいので室内用の観葉植物にもなっている。茎の根元には同心円状に数本の両端がとがった細長い形状の芋が形成される。この塊根はデンプン質を多く含み,デンプンの原料として重要な作物である。ただし,シアン化合物を含むため食用とするためには毒抜きが必要である。

キャッサバは地面に茎を挿しておくとそのまま根付くほど栽培は容易であり,他の作物が育たない荒れ地でも栽培することができる。そのため2010年の世界生産量は2.3億トンであり,同年におけるジャガイモ3.2億トン,サツマイモ1.1億トン,ヤムイモ4870万トン,タロイモは901万トンと比較しても世界的に重要な作物である。

キャッサバは日本ではなじみは薄いものの,一頃,日本でも流行ったタピオカの原料はといえばそうなんだと言われる方も多いことだろう。ジャカルタで甘味種のキャッサバの皮をむき,芯をくりぬて油で揚げたものを食べたことがある。味は甘味のちょっと少ないサツマイモに似ており,揚げてあるため喉につまる感じがなくサツマイモより食べやすい。

キャッサバはデンプンの原料作物であるが,インドネシアにはもう一つ珍しいデンプンの原料がる。サゴヤシ(ヤシ科・サゴヤシ属)は生涯に一度しか開花しない。果実を付ける代わりに,光合成で作り出したでんぷんを幹のズイの部分に貯蔵する性質をもっている。10年くらいで十分な量のでんぷんが蓄積されるようになり,必要に応じて切り倒される。

切り倒されたサゴヤシの樹皮を半周分だけはがし,ずいの部分を細かく砕く。これを水にさらすとでんぷん質が溶け出す。それを大きな容器に貯めてでんぷんを沈殿させる。1本のサゴヤシからはおよそ100kgのでんぷんがとれるという。

この市場で売られているバナナの葉にくるまれたデンプンはサグかキャッサバかは分からないが,ていねいな包装からするとサグでんぷんであろうと考える。

保育園にて

宿から東の方にあるバスターミナルに歩いて行く途中に保育園兼幼稚園があった。施設の前に箱型のブランコがあり,子どもたちが遊んでいたのでそれと分かった。施設内に入り写真を撮ると,子どもたちはお遊戯で歓迎してくれた。中にはそのような団体行動がとれない子どももおり,先生も大変である。

午後にもう一度訪問した時はちょうどお昼寝から覚めた頃であった。なぜか,人数は半分に減っていた。今度は時間があったのでヨーヨーを作ってあげることにした。

ムスリムの墓石

ランドリー

ソノブドヨ博物館中庭

この日はソノブドヨ博物館は休館日であった。中庭に通じる木戸が開いていたので中に入る。中庭は屋外博物館となっており,多くの石像が展示されていた。それらはこの地域がイスラム化する以前に造られた仏教かヒンドゥー教のものである。

イスラム教が優勢になったため東部地域のヒンドゥー教徒はバリ島に逃れ,イスラムのジャワ島とヒンドゥーのバリ島が狭い海峡を挟んで共存することになった。そのようないきさつから,この博物館の石像の中にはバリを想起させるものがいくつもある。

アクセサリーを選ぶ

王宮北広場の西には大モスクがある。正式名称はマスジッド・アグンであり,アグンは「偉大な,大きな」という意味なので直訳して大モスクということになったようだ。このような場合は現地語の表記を優先させた方が分かりやすい。バリ島の「Gunung Agung」はやはりアグン山であり,大山では意味が通じない。

このマスジッド・アグンの敷地の前は広場になっており,近くには小学校があるようだ。学校帰りの子どもたちがアクセサリーの品定めをしている。女の子のアクセサリー好きはイスラムの国でも変わりはない。

マスジッド・アグン

マスジッド・アグン(大モスク)は王宮の区画内にあり,王家の人々のモスクでもあり,王宮の生活と深く結びついている。モスクはイスラムの礼拝堂であるが,この建物はイスラムの祝日を祝う宗教的な公式行事にも使用される。

建物はジャワの伝統的建築物であり,礼拝堂の屋根は三重塔のような構造になっている。これは,宗教関連の建物に見られる構造だという。建物の基軸は東西方向となっている。

しかし,赤道を越えた南半球にあるジョグジャカルタから見ると,聖地メッカは西北西方向にある。つまり,このモスクの西側の壁面はメッカの方角に対してずれていることに留意していただきたい。

東側の正門から入ると,礼拝堂の手前に広い空間が用意されている。この空間はおそらく宗教的な行事のためのものであろう。そのため,王宮内のイベントが行われる空間ととてもよく似ている。床も大理石でふかれた立派なものであり,この手前で履物は脱がなければならない。

礼拝堂の内部は三層の屋根を支えるため,柱の多い空間となっている。柱は木製で太さは揃えられている。屋根と屋根の間は窓になっており,礼拝堂としては珍しく明るい空間となっている。

床には礼拝用のじゅうたんが敷かれており,この並びと壁面が一致していないことが分かる。建物の壁面は正確にメッカの方角になっていないため,じゅうたんの角度だけはメッカに合わせているいるのだ。これだけの建物でも天井はなく,屋根を支える垂木がそのまま見えている。やはり,ジャワの伝統建築には天井は不要なようだ。

北門近くのキリスト教系の小学校

王宮の北門の近くには小学校があり,ガムランが聞こえてくるので中に入れてもらう。この学校はインドネシアでは珍しいキリスト教系のものであった。女の子がいくつかのグループに分かれて踊りの練習をしている。

別の校舎の2階では子どもたちがガムランの練習をしている。カメラを向けるとにこやかに応えてくれた。ここから宿に戻ることになったが,ベチャの値段はおもしろかった。北門から遠くなると値段が2万,1万,5000ルピアと下がっていくのだ。5000ルピアは最低値段なので乗ることにした。この日の午後はバティック工房を回ったが眺めるばかりで写真は撮らなかった(撮れなかった)。

黄金の繭

ジョグジャカルタでは「黄金の繭」をぜひ見たかったが,お金をかけない個人旅行では情報が集められず残念なことをした。金色の繭をつくる二種類の蛾(野蚕)はヤママユガの仲間の「Cricula Trifenestrata」と「Attacus Atlas」である。どちらも東南アジアに広く分布しており,ジャワの固有種というわけではない。アカタスは日本では「ヨナグニサン」と呼ばれている。

本命のクリキュラは地元では「ドンドン」と呼ばれており,幼虫はカシューナッツの木などの葉を食い荒らす害虫とされてきた。しかし,その繭が高い価値がもつことになり,環境保全と雇用を生み出すプロジェクトが立ち上げられた。このプロジェクトは前スルタンの王妃と王女が尽力している。左の写真(クリキュラの繭)は「Kepompong - Medini 3」から引用した。


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