亜細亜の街角
雷雨の中,メダンの空港に到着する
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メダン  (地域地図を開く)

メダンはスマトラ島西北部の中心都市であり,北スマトラ州の州都なっている。人口は約225万人であり,インドネシアではジャカルタ,スラバヤ(東ジャワ),バンドゥン(西ジャワ)に次いで4番目となっている。

19世紀後半のオランダ領東インド時代に東スマトラ一帯でタバコ,ゴム,茶などのプランテーショが開発された。メダンはそれらの商品作物の集荷地となり,スマトラ島西北部の中心地として発展した。また,プランテーション労働のため多数の中国人およびジャワ人の移民労働者が移入したため,現在でも中国系,ジャワ系の人口比率は高い。

ペナン→メダン 移動

メダン行きのフライトは19:00発で到着は18:45である。マレーシアとインドネシアには時差があるのでこのような時間の逆転が起こる。ペナンとメダン近くのブラワン港との間には週3便の国際フェリーも運航している。ところが運賃は片道で150リンギットである。

これはAir Asia の航空料金131リンギットよりも高い。そのため,飛ぶことにした。料金の131リンギットには税金等の諸掛りが含まれており,実質の運賃は74リンギットである。これで,Air Asia の利益率は20%近いのであるから驚く。さすがは世界でもっともローコストの航空会社である。

ペナン空港

15時にバススタンドに向かう。ちょうど401Eが停車していたので乗り込む。このバスはワンマンで乗るときに2リンギットを支払う。残金は1リンギットだけである。こんなきわどい出国は初めてだ。バスの運転手に空港で降ろしてくれと頼んでおいたが不要であった。いくつかのショッピングモールを通過し,バスは出発ロビーの前で止まってくれた。

ネットで予約しておいたのでチェックインの時はパスポートとブッキング・コードのプリントを添えて提出すると,パスポートだけで十分であった。座席構成はすべてエコノミーとなっており,搭乗率は50%くらいだ。

雷雲と黒雲の間

メダンが近づくと高度が下がり,上空に黒雲,下に雷雲に挟まれる高度を飛行する。ちょうど日没の時間である,雷雲の中に太陽は沈んでいった。雷雲の中に入ると稲光により照らされる雲が何回か見え,けっこう揺れた。メダン空港に着陸すると雷雨の最中で,タラップを降りてバスに乗り込む間に濡れてしまうほどであった。

空港から少し歩いたところにバス停があるが,この雨では不可能だ。おまけに空港前の道路は冠水している。タクシーの運転手と何回か交渉し35,000ルピア(約350円)で宿まで行ってもらった。予定していたTAMARA は空室があり,すんなり5万ルピアの部屋にチェックインすることができた。部屋は8畳,ダブルベッド,トイレと水浴び場が付いており,まあまあ清潔である。

早朝のアザーン

04:30にアザーンにより起こされる。アザーンとはイスラム教徒に礼拝を呼びかけるものである。イスラム教徒は1日5回の定時礼拝が義務付けられており,04:30は日の出の時刻の礼拝である。昔はミナレット(尖塔)から肉声で呼びかけがあったが,現在ではすべてスピーカーを使用している。イスラム教徒の多い国に行くとアザーンは必ず聞くことになる。

僕は5時頃には目が覚めるので音が聞こえてもほとんど実害はない。しかし,ここのアザーンは質・量ともにとんでもないものであった。まず音量がひどい。しかも,アザーンの詠唱がなんとも救いようがないほど下手である。これほど下手なものは初めてである。本来のアザーンは男性が高音で歌うように詠唱するもので,音楽的でもある。メダンのひどいアザーンが本来のものとは決して思わないでいただきたい。

マスジット・ラヤ

宿のすぐそばにはマスジット・ラヤがある。イスラムの国ではその町でもっとも大きな(伝統のある)モスクを金曜モスクとする習わしがある。金曜日はイスラム教徒にとっては特別の集団礼拝日である。そのため,金曜日の昼の礼拝では町で最も大きなモスクに大勢の人たちが集まって,集団で礼拝する。

そのため,そのようなモスクを金曜モスクと称する。マスジット・ラヤはメダンの金曜モスクに相当し,広い敷地にユニークな形状の建物がある。基本的には四角形の建物の四隅に黒いドームが配されており,中心部には大きな黒いドームを載せられている。四隅のドームを支えるのは六角形の塔であり,建物全体に比べてかなり大きいし,小ドームも大ドームに比してかなり大きい。

マスジット・ラヤのミナレット

建物の基軸は30度ほど北に傾いた東西軸であり,この軸上に二つの小ドームと大ドームがある。つまり,四角形の建物の対角線を基軸と一致させている。この基軸の西側を延長するとメッカがあるはずだ。基軸上にある東側の小ドームの塔に礼拝堂への入り口があり,その先にはアプローチロードが敷地に入る門まで続いている。

正門から見ると小ドームの塔の一つが手前になるので,大ドームはそれ隠される構図になる。礼拝堂は白を基調としており,周囲に敷かれている大理石とよく調和している。ミナレットは1本だけであり,大ドームを中心に正門から45度反時計回りの位置にある。礼拝前に手足を浄める設備は小ドームの塔と同じ構造であり,礼拝堂のすぐそばにあるため,モスク全体のバランスはよくない。

ミフラーブ

入り口から入るとそのまま礼拝のための空間となっている。正面にミフラーブがあり,床には礼拝用のじゅうたんが敷かれている。内部空間はミフラーブと入り口の中間点あたりでカーテンにより分割されている。このため大ドームを支える8本の柱とそれをつなぐアーチの写真はうまくいかない。当初の設計思想では大理石を敷き詰めた礼拝堂の外側エリアは聖域であり,履物を脱いで歩くようになっていたのであろう。

現在は入り口にシートが敷かれ,その上に履物を置くようになっている。中学生くらいの子どもがシートを指さしてテン・サウザンドなどとほざいている。僕はクツを階段のところに置き,寄進箱に2000ルピアを入れて正門から出ようとした。すると今度は大人が現れて寄附帳にサインをしろと迫ってきた。あまりに俗化したモスクにすっかり嫌気がさしてしまった。

イスターナ・マイムーン

イスターナ・マイムーン(マイムーン王宮)はこの地域を支配していたスルタンの王宮であり,マスジット・ラヤからは西に300mほどのところにある。この間に鉄道線路が走っている。スルタン(スルターン)はアラビア語で「権力」あるいは「権威」を意味し,コーラン(クルアーン)の中では「神に由来する権威」を意味する語として使用されている。

預言者ムハンマドが亡くなったあと,イスラム社会は世襲制の「ウマイヤ朝(661-750年)」,「アッバース朝(750-1258年)」が支配するようになる。アッバース朝の支配地域は中東から北アフリカに及び,最高権威者であるカリフ(神の使徒の代理人)から各地の世俗的権力者に対してスルタンの称号が与えられた。これ以降,スンニ派のイスラム世界においてはスルタンは君主の称号として広く使用されるようになった。

団体の記念写真に便乗する

マイムーン王宮は1888年にデリ王族のマクムン・アルラシッにより建造された。白壁に王権を象徴する黄色の縁取りの建物はとても趣がある。黄色は中国の歴代王朝において皇帝を象徴する色として使用されている。

正面は広い芝生になっており,ずいぶん感じのよい建物である。傍らには歴代のスルタンの名前と在位年を記したモニュメントがあり,最後の名前の後には1997年-となっている。王宮は一般に開放されているものの,現在でもスルタンの末裔が離れに住んでいるのでこのような記述になっている。

芝生の中の道を歩いていると団体の観光客が記念写真を撮っているので便乗させてもらう。この団体と一緒に入場したので,特に寄進は求められなかった。内部は土足禁止であり,入り口の階段のところで履物を脱ぐことになる。

王族の結婚式であろうか

内部の壁面には王族の写真や絵画,家具なども展示されている。結婚式のときのものだろうか,写真の中には幸せそうな美男美女が写っていた。このような写真は当時の王族の服装が分かり興味深い。玉座のある広い部屋につながった部屋では当時のアクセサリーや衣装が展示されている。

ここでは王族の衣装やアクセサリーを身につけ写真を撮ることができる。ヨーロピアンのカップルが比較的新しいタイプの衣装に身を包み,椅子に座って記念写真を撮ってもらっている。といっても,彼らのカメラを使い衣装サービス係りが写真を撮っているだけだ。僕もこれに便乗させてもらう。僕は旅行中の自分の写真はほとんど残さない。ましてや,このような貸衣装サービスを利用して写真を撮ってもらおうなどとは考えも及ばない。

玉座は4方向に向いている

ここの玉座は不思議な構造になっている。なんと四方向に玉座があるのだ。これは目的がよく分からない。ここでも黄色(気持ち的には金色かな)が多用されており,背もたれ,クッション,カーテンなどはすべて黄色になっている。

玉座までは4段の階段があり,そこまでは一般の人も触れたり,腰を下ろしたりすることができるようだ。さきほど隣の部屋で記念写真を撮っていたヨーロピアンのカップルが別の方角の玉座の前で写真を撮ってもらっている。部屋の構造から考えると,彼らの立っている方角の玉座が本来のものなのであろう。

メダンの中心部はすっかり近代化されている

インドネシアの果物

絵画店の店先で面白い題材の絵を見つけた。一つはインドネシアの果物を集めたものである。スイカの右側にあるものはサラック,その下の黄色のものはスターフルーツ,リンゴの下にはマンゴスチンとランブータンが見える。半分に切られたスイカの上はパパイヤ,左はドリアン,右はレンブ(ジャワフトモモ)である。レンブの右のものは僕の知識にはない。

こころの楽園

この絵は作者のこころの中の楽園をイメージしたものであろう。森と水の流れは砂漠の宗教であるイスラムにとっては天国の風景であり,キリスト教におけるエデンの園もこのようなものであったことことだろう。僕はなぜか「風の谷のナウシカ」に出てきた腐海深部の浄化された土地のイメージを連想した。

竹製の楽器

ムルデカ広場入り口

メダン駅の東側に「ムルデカ広場」がある。日本語にすると独立広場である。広場の大きさは250X150mほどであり,その一部は庭園になっている。入り口の建物が目についたので写真にした。広場そのものは正体不明のモニュメントと建物があるだけだ。

首都のジャカルタには本家のムルデカ広場があり,その中央には高さ137mの独立記念塔(MONAS)がランドマークとなっている。メダンにも同名の広場があるのだから,インドネシアの他の町にもあるのかもしれない。

これが鉄道駅

鉄道駅は少し探してしまった。写真のように普通のビルである。中にはちゃんと駅の機能が収まっている。「Informasi」と書かれたブースには二人の女性がひまそうにしていた。おそらく,インフォメーションのことであり,二人の女性は案内嬢なのだろう。それにしては1000Rp/orang と記された表示板がある。

横断陸橋からの眺望

少し離れたところに線路をまたぐ横断陸橋があり,そこから駅とプラットホームの位置関係を確認することができた。列車の背後にあるのが駅である。

サラック

インドネシア語,マレーシア語で「Salak」という果物である。カタカナ表記はサラク,サラッ,サラックと固定していない。僕はサラックを常用している。長い間,この果物はどのような植物になるのか疑問であったが,今回の旅行で果実がなっているところを見ることができた。

サラックはサカラヤシ(ヤシ科・サカラヤシ属)というヤシの仲間の実である。サカラヤシは茎が短く,1本の茎から1本の葉柄が出ている。葉柄の下部には長い鋭いトゲが密生しており,果実は葉柄の下のところにかたまって実る。周囲はトゲだらけであり採集は大変だ。果実の外皮は赤褐色で鱗状になっているためスネークフルーツともいわれる。この外皮は手で簡単にはがすことができ,内部には白い果肉がある。酸味や渋みがあり個人的にはさほど好きな果物ではない。

給水塔にしてはちょっとおかしい

りっぱなモスクを見つけた

駅から戻る途中で比較的りっぱなモスクを見つけた。街歩きのときは寄り道と適当に歩くことが多いので,あとから写真を見てこれはどこだったっけということはよくある。このモスクもその一つだ。広い庭をもつコンクリート造りの新しいモスクである。大きなドームは銀色に輝いており,これは金属板をそのまま張り付けたものだ。

礼拝堂の内部から見上げると,内側も金属張りになっており,光を反射している。ミフラーブは壁の窪みではなく,その奥の半畳ほどの広さの小部屋に通じる入り口となっている。ここは宗教指導者が説教をするための空間のようだ。床にはアーチ門を題材にした同じ柄が連続するじゅうたんが敷かれている。この柄の一つが礼拝時の一人分のスペースになる。

礼拝堂の周囲は広い空間となっている

インドネシアのモスクの特徴は礼拝堂の周囲に外に向かって壁のない,屋根のついた広い空間があることだ。このモスクはコンクリート造りなのでこの開放空間が特に広くできている。ここは礼拝のための空間ではなく,人々はのんびりくつろいでいる。中には寝ている人もいるが,だれからも咎められない。

集団礼拝の日ではないので礼拝している人は少ない

ミニバスのアンコタにはサイドの扉がない

ガソリンのボトル売り

インドネシアに限らず東南アジアでは庶民の足といえば125ccクラスのバイクである。人口に比例するのかインドネシアのバイク生産台数は中国,インドについで世界第3位である。どんな田舎に行ってもバイクを見ることができる。

バイクのオーナーは当然ガソリンスタンドで給油するのであるが,給油量が少ないときや,とりあえず1リットル入れたいなどというときはこのようなビンやペットボトルに入ったものでしのぐことになる。また,田舎のようにガソリンスタンドが少ない地域では重宝することだろう。このような販売所は東南アジアの各地で見られる。ガソリンは危険物であり,インドネシアでもそれなりに管理された状態で販売する法律があると思うのだが,このように堂々と出しているところ見ると黙認されているのかもしれない。

モスク付属の学校

宿の近くで小さなモスクを見つけた。このモスクもコンクリート造りであり,中央のドームは銀色に輝いている。モスクの施設内には学校があり子どもたちが勉強していたので覗いてみた。内容はもっぱらコーランの読み方である。イスラム教徒の啓典であるコーランはアラビア語で声を出して読まなければならない。

しかも,棒読みではなく一定のリズムと高低をもって謡うように読まなければならない。インドネシアの言語はインドネシア語であり,使用している文字はラテン文字(英語と同じアルファベット)なので,アラビア語は完全な外国語である。したがって,コーランを読むためにはそれなりの訓練が必要になる。そのような学習を手助けしているのがモスクに付属する寺子屋である。

教室は男女一緒であるが,列は左右に分かれている。こういうときは男子から写真を撮る方がよい。何といても先生のいないところでは僕のような外国人は不審者なのだから,子どもたちを安心させなければならない。さすがに男子は笑って写真を撮らせてくれる。画像を見て大はしゃぎである。

女子もこれを見て安心したように写真を撮らせてくれた。それでも一枚目は本やノートに視線が注がれており,二枚目でようやくカメラ目線になってくれた。教室を出るときは男子が入り口のところで見送ってくれた。

英雄墓地

インドネシアのジャカルタ,スラバヤ,メダンなどには「英雄墓地」がある。これらの墓地は国立追悼施設であり,そこにはインドネシア独立戦争中に戦死した将兵,そして戦後に亡くなった元将兵が埋葬されている。そこに埋葬されている人々はインドネシア独立戦争に参加した戦績のある者で,性別・宗教・民族は問われない。戦後生き残った元兵士も没後は国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっており,葬儀の費用やその後の管理の費用はすべて国家が負担している。独立の英雄としてこの墓地に埋葬されることはインドネシアで最高の栄誉とされている(wikipedia より抜粋)。

メダンの英雄墓地は一般に開放されておらず,外から眺めることになった。異なる宗教が混在しているので墓石もいろいろな形となっている。

英雄墓地から宿に戻る。夕食前の18:20から雨が降り出し,少ししてから雷鳴がとどろくようになった。次第に音が大きくなるので廊下のベランダから眺めていた。

雨もすごいが稲光もすごく,ひっきりなしに空が明るくなる。廂から3mも離れているのにそれでも雨が吹き込んでくる。正面の高い建物の屋上にあるペントハウスに落雷した。

200mほどのところへの落雷は迫力があった。稲光は(感覚的には)2秒間くらい光っていた。ほとんど同時に「バリバリ・・・グウァシャーン」という大音響がとどろいた。遠くの落雷とは音が異なる。

そんな中,18:50頃,上空を飛行機が空港に向かって飛んで行った。昨日と同じ状況である。今日の雨は昨日より相当ひどかったようだ。宿の1階には水が入ってきており,翌朝,スタッフが水出しに精を出していた。


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