亜細亜の街角
中国文化が色濃く残るサラワク州の州都
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クチン  (地域地図を開く)

クチンは人口58万人,サラワク州の州都でありボルネオ島最大の町である。町はサラワク川の河口近くに位置しており,サラワク川により南と北に分断されている。

北側は緑の多いマレー人の居住区となっており,地名もKampon ○○というマレー風の名前になっている。南側は華人の町となっており,近代的な街並みと中国的な街並みが混在している。また,白人王時代のコロニアル風の建築物も多数,残されている。

サラワク川には中心部の西と東に二本の橋が架けられているが,多くの人々は町の中心部で両岸を結ぶ渡し船を利用して行き来している。サラワク川は町の東側でもう1本のサラワク川に合流し,その近くにある「Sim Kheng Hong Port」からはシブやビントゥルに向かう高速船が出ている。

カピット→シブ移動

07時にはまだ間があるのに船着き場からは何回も汽笛の音が聞こえてくる。船着き場に行くとシブ行の高速船が出るところであった。

この高速船は走行中は室内から出られない構造になっており,しかも窓にはフィルムがラミネートされているので写真は撮れない。エコノミーの座席に座り,ぼーつとしながらつまらないビデオを見て2.5時間を過ごす。エアコンは強く長袖を着ていても体が冷えてしまう。

今日もシブにはツバメが多い

09:30にシブの船着き場に到着し,そこで11:30発のクチン行のチケット(45リンギット)を購入する。チケット売り場で荷物を預かってもらおうとすると,船に行けと言われた。

船はすでに船着き場で停泊しており,甲板に乗客の荷物が積まれていた。船員にチケットを見せてまちがいのないことを確認してメインザックを置く。船着き場の外に出て,カフェでコーヒー(1.5リンギット)をのんびりいただく。

公共のトイレで腹具合を確認すると問題はなさそうなので,近くの食堂でチキンライス(3リンギット)をいただく。ここでいうチキンライスとはお皿に盛られた白いご飯の上に蒸した,もしくは照り焼きのチキンを乗せたものである。チキンもさることながらソースが重要な要素となっており,ミリで食べたシンガポール・チキン以上のものには出会っていない。

シブ→クチンを結ぶ高速船

シブ→クチンを結ぶ船は海上を航行するため,大きなものであり,上層がファーストクラス(1列6人X10),下層がエコノミー(1列7人X12)となっている。

一部は屋根のない甲板となっており,写真を撮ることができるので,僕にとってはとてもありがたい。実際,船室ではなく甲板で過ごす人はずいぶん多い。強い日差しから守るため,キャンバス地で覆われた一画もあり,快適である。

川から見るシブの中心部

船が岸から離れるとシブの町の中心部の写真が撮れる。七層観音が高層ビルを背後に従えている構図はほんの一瞬で終わってしまう。その数分後には早くも製材所が視界に入ってくる。

製材所と石炭の積み出し場

船が動き出して30分ほどは川岸に多くの製材所が見える。上流から運ばれてきた木材がここで製材される。しかし,大きな木はもう無くなっており,その大半は直径50cmほどのものである。河口が近くなるとマングローブとニッパヤシが川岸を支配するようになる。

ラジャン川の河口が近づく

30分ほどでラジャン川の河口に近づいたようだ。もっともシブの先でラジャン川は多数の支流に分流しているのでどこの河口に出てのかはよく分からない。川岸はほぼゼロメートル地帯となっており,そこから樹木の分だけの高さをもった緑の壁となっている。

どれほどの量の丸太が運ばれてくるのだろうか

シブの下流域にはたくさんの製材所があり,それぞれ大量の木材を積み上げている。どこからこれほどの木材が運ばれてくるのか疑問に思う。

そういえば,マレーシアは8割以上が違法伐採といわれるインドネシア木材の最大の密貿易先であり,インドネシア政府がマレーシア政府に違法丸太を密輸している貿易業者に断固とした具体的行動を取るように圧力をかけているという記事を読んだことがある。現在ではこの丸太密輸の最大の相手国は中国になっているのかもしれない。

<ラジャン川の色は泥が溶け込んでいるため茶色である

海に出ても海岸の近くを航行する

ニッパヤシの大群落

川岸にはニッパヤシの大群落が見られる。ニッパヤシ(ヤシ目・ヤシ科・ニパパヤシ属)は熱帯から亜熱帯の干潟などの潮間帯(汽水域)に生育するマングローブ植物の一つである。ヤシの仲間ではこのように特異な生態をもつものは他になく,一属一種となっている。

干潟あるいは湿地の泥の中に根茎を伸ばし,その先端から太い葉柄と羽状の複葉を持つ数枚の葉を束生する。つまり,地上茎をもたず泥の中から葉柄を伸ばしている。葉の形はココヤシのものと類似しており,複数のココヤシの葉を泥の中に刺したような形態となっている。葉柄の高さは5-10mにもなる。葉は軽く繊維質で丈夫であるため,東南アジア島嶼部では屋根材・壁材として利用されている。

海岸近くにもロングハウスがある

海岸の近くにもロングハウスがり,ちょっと驚いた。ロングハウスがあるということはここに農業生産の基盤があるということであろう。しかし,このような海岸に近い低湿地では稲作は無理であろう。誰がどのようにして食料を生産しているか知りたいものだ。一つの可能性は「サゴヤシ」である。

サゴヤシはヤシ科の植物である。花は生涯に一度しか咲かせず,その代り,幹に多量のデンプンを蓄積する。10年ほどで樹高は10mを越え,直径は50cmにもなる。このようなサゴヤシには100kgものでんぷんが含まれている。

サゴヤシは年間を通して冠水することのない乾燥地域でも十分成長するが,泥炭地のような貧栄養の低湿地でも栽培が可能である。クチンからビントゥルにかけての沿岸は低湿地となっており,そこではサゴヤシを主食とする先住民族もいる。

海に出る

12:45 ロングハウスがある
12:50 新しい町の立派な船着き場に立ち寄る
13:15 ニッパヤシの大群落が川岸を埋めている
13:30 少し大きな町の立派な船着き場に立ち寄る
14:05 このあたりがラジャン川の河口のように見える
16:10 サラワク川の河口に近づく

ラジャン川沿いのいくつかの船着き場に立ち寄り,14時過ぎには海に出たようだ。川と海の境界が河口であり,通常は河口の両岸を結んだ線が川と海の境界となる。しかし,これほど川幅が広くなると境界線ははっきりとは分からないので,おそらくこの辺りだということになる。

クチンが近い

海に出ても海岸からそれほど離れていないところを航行するので,左側は川の景色と変わらない。石炭を積んだ巨大な台船をいくつか見かける。16時少し前に前方に岬のような地形があり,船はその陸側に向かって進んでいく。そろそろクチンが近いようだ。進行方向の両側に岸辺の景色が見えるようになり,船はサラワク川に入ったようだ。

コンベンション・センターの近くに船着き場がある

船着き場に到着し,乗客の荷物が積まれている一画のシートが外される。荷物を持って船を下りても勝手が分からない。タクシーはすぐに乗客を乗せていなくなってしまった。

ミニバスのような乗り物はない。遠くにビルが見えており,少し歩くとバスの走っているとこに出るだろうと歩き出す。すると,乗客を迎えにきた車が横に止まり,街まで行ってあげると声をかけてきた。恐縮して乗ることにした。

B&B Inn の南側は中国人の町となっている

日本を代表する某ガイドブックには船着き場の情報がまったくなく,移動情報の扱いがずいぶんぞんざいである。帰国後にチェックすると,二つのことが分かった。一つはクチンを南北に分断しているのは「サラワク川」である。町の東側にもサラワク川が流れており,両者は町の東側で合流する。流れており,この合流点に近い「Sim Kheng Hong Port」に船着き場がある。町の中心部からは5-6km離れている。

親切なマレー人の車に乗せてもらいヒルトンのあたりで降ろしてもらった。B&B Inn はボルネオホテルの隣りなので場所は分かりやすい。

シングルは空きがなく,ドミトリーに泊まることにする。部屋は12畳,2段ベッドが5個並んでいる。ベッドはひどいものであり,なんとなく肌の露出しているところがかゆいような気がする。それでもベッドと朝食がついて16リンギットの安さには抵抗できない。

B&B Inn はバックパッカーが多く,情報交換には重宝する。同室のイタリア人から,インドネシアの2ヵ月ビザが取れるという情報はありがたかった。この宿の門限は22時となっている。この時刻を過ぎると人の出入りはあるものの静かになるので,早寝早起きの僕としてはありがたい。

ここは自炊の設備と食堂があり,その気になれば食事を作ることができる。朝食は食パンとコーヒーもしくは紅茶が用意されている。トーストに塗るものはビンの中に入っている。色からしてピーナツバターかと思ったら,なにやら得体のしれないジャムであった。なぜかこれを食べて胃腸薬を飲まないと腹具合が悪くなる。薬を飲むと大丈夫なのでなにか僕の腹と相性が悪いようだ。

クチンの南側は華人の多い地区となっており,1階が商店,2階が住居という中国風の建物が並ぶ一画もある。一部はひさし付きの歩道となっており,急な雨の時には重宝した。

宿の近くのスーパーマーケットは華やかな色彩である

地域で最も古い中国寺院

宿から北側のウオターフロントに向かう途中にクチンで最も古い中国寺院がある。大伯公寺院(Tua Pek Kong Temple)と呼ばれており,シブの七層観音と同じ大伯公が祀られている。大伯公はおそらく福建省ゆかりの神仙であり,遠く海を渡った移民の人々にとってはこころの拠り所であり,守護神のような存在なのだろう。

サワワク川を見下ろすヒルトンホテル

近代的なビルの横に特異な形状の建物がある

ヒルトンホテルあたりからサラワク川を望む

サラワク川の対岸に渡る

カピットの町でメガネの鼻筋で支える部分が壊れてしまったので予備のものに替えた。しかし,そのメガネも同じところが壊れてしまった。幸いこちらの方はプラスチック部品の一部が欠けただけだったのでなんとか使用できた。

クチンに到着して商店街でメガネ屋を見つけたので修理をお願いした。この部品の交換は1つ1リンギットだったのでメガネ2つで4か所の部品を交換してもらった。これでメガネに関しては一安心である。

ヒルトンの先を歩いていると広い水路に出た。対岸には巨大な州議会の建物があり,その右側にはマルガリータ砦があるはずだ。渡し船の乗り場があったので乗せてもらう。対岸に着いてみると道がさっぱり分からない。近くの案内板で大まかな地理を確認する。

この地域の竹は大きな株を形成する

サラワク州議会議事堂

マルガリータ砦の西側にある州議会の建物は完成間近である。建物の周囲は一段高くなっており,道路が囲んでいる。ここは対岸の風景を眺めるのに適したところだ。左側には巨大なホテル群が並び,その右側には2階建ての中国商店が連なっている。

少し茶色がかった水面を渡し船が行き来している。戻りの船の船頭は中国式の前押し式の2丁櫓を優雅に扱っている。と思ったら,岸から離れると小さなエンジンを動かして対岸に向かう。地元の地図ではこのような船着き場が「jetty」と記載されていた。この言葉はインドやバングラデシュでより大きな船着き場として使用されている。

ブルック家が建造したマルガリータ砦

19世紀半ばの西ボルネオはブルネイ王国が支配していた。領国内の反乱に手を焼いたスルターンは1839年にクチンにやって来た英国人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼した。ブルックは英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し,褒賞としてサラワクのラジャ(藩王)に任じられた。じきにサラワクは英国の後ろ盾により白人王を頂くサラワク王国として独立して,ブルネイ王国を南から浸食していった。

道なき道を歩いて行くとマルガリータ砦にたどりついた。この砦は海賊などの侵入に備えて1879年に造営された。すでに,ジェームズ・ブルックは亡くなり息子チャールズの時代となっており,彼は新しい砦に母の名前をつけた。今日は月曜日のため付属の博物館は休みであり,建物も午前中の光では逆光となりうまくいかない。

セイヨウアサガオであろう

マルガリータ砦あたりからサラワク川を望む

州議会議事堂あたりからクチンの中心部を望む

Astana もしくはIstana と呼ばれる総督邸

サラワク州は「ホーンビルの国」呼ばれており,州章にもサイチョウ(英名:hornbill)がデザインされている。サイチョウがつかんでいる帯にはマレー語で「Bersatu, Berusaha, Berbakti」と記されている。これは州の標語で団結・努力・勤勉というこになるだろう。

サイチョウ(ブッポウソウ目・サイチョウ科)は全長でオスが110-160cm,メスが90cmほどもある大きな鳥で機関車のような音を立てながら空を飛ぶという。頭部にある角質の鶏冠がサイの角に似ていることからサイチョウとなっている。

サイチョウは先住民族,とくにイバン人にとっては神聖な鳥であり,その尾羽は戦士の頭飾りに使用されていた。また,重要な儀式においては木彫りのサイチョウは欠かせない要素であった。そのような関係から州章のモチーフに使用されている。

ヒルトンホテルの対岸の船着き場からサラワク川を望む

サラワク川の北岸のカンポン

ニッパヤシ

変電所

急峻な山並み?

マレー人のカンポンを歩いてみた。川の南側は自然を生かした人工都市となっているが,北側には自然に間借りするように家屋が点在している。川岸に比較的大きな道路があり,そこから少し離れると森になっており,小さな樹木とツル性の植物がからみあって空間を埋め尽くしており,とても入っていくことはできない。

工事が行われており植生が除去された土地があった。粘土質の土地は雨により削られ,高さ20cmほどのミニチュアの山脈かピナクルスのような造形となっていた。粘土の少し固い部分は水で削られづらく,周囲から切り立った地形となっている。このような地形はスケールはまったく異なるものの,カッパドキアやモニュメント・バレーの特異な地形がどのように形成されたかというヒントを与えてくれる。

民家を囲む金網にウツボカヅラが群生していた

民家を囲む金網にウツボカヅラが群生していた。ウツボカズラはツル性植物なので金網は取りつくのに最適な環境である。緑色の壺の大きさは20cmほどで,中に消化液の含まれた水が1/3くらいのところまで入っている。壺の縁は滑りやすくなっており,昆虫が落ちるともう這い上がれない。

消化液で時間をかけて溶かされ,ミネラルが吸収される。ウツボカズラは葉のような器官で光合成を行うが,土壌に不足するミネラルを補うため昆虫を捕捉するように進化したと考えられる。大きな壺をもつものになると,内容積は2リットルにもなり,ネズミなどの小動物も捕えてしまう。

マレーシア風の幼稚園

南岸のウオターフロントからの眺望

大きく枝を広げる樹木

ウオターフロントの遊歩道の西端近くにあるVIC(Visitors' Inforamtion Center)を見つけ最新の観光地図をもらう。この地図には交通情報も含まれており,とても役に立つ。川の対岸はイスタナ(王宮)となっている。王宮というよりはより実用的な総督邸という感じの建物である。

VICから南に向かう大きな通り沿いは州立博物館を中心とするツーリスト・エリアとなっている。まず布地博物館(Textile Museum)に向かう。布地博物館にはボルネオ・マレーシアに居住する各民族の衣類や織物の歴史が分かり,とても興味深い。

クチン・モスク

クチンは多くの民族と宗教が共存している町である。サラワク州全体の民族構成はマレー系約22%,中国系約26%,少数民族約49%となっているが,クチンにはさらにインド系もある割合を占めている。そのため,人口58万人の町にイスラム教,道教,キリスト教,ヒンドゥー教,シーク教の宗教施設が混在している。

クチン・モスクは中央広場から西に向かう通りの突き当たりの丘の上にある。建物の四隅にミナレット,中央に先端の細くなったタマネギ型のドームを置いている。鉄筋コンクリート造りとなっており,建物としての美しさは感じられない。建物の近くまで車で行けるようになっており,スロープが伸びている。礼拝堂には大きな門の中に小さな門をあしらったミフラーブがあり,床は全面に絨毯が敷かれている。

モスク周辺の丘の斜面の一部はムスリムの人々の墓地となっている。キリスト教と同様に最後の審判を教義の中にもっているイスラム教では原則として土葬となる。新しいもの,あるいはお金持ちの墓は石棺がそれと分かるようになっているが,多くのものは地面に石柱が立てられただけのものである。斜面の土地はこのようなお墓で埋め尽くされている。

シク(シーク)教寺院

シク教は16世紀にインドで始まった宗教で,総本山はパンジャーブ州のアムリトサルにある黄金寺院である。インドのシク教徒は総人口の1.5%,約16000万人しかおらず,それもパンジャーブ州に集中している。このボルネオの町でシク寺院を見られるとはちょっと驚きである。中に入れてもらい英語の話せる男性とお茶を飲みながら,アムリトサルの話をした。

大多数のシク教徒の男性は髪の毛と髭を切らず,頭に特別の様式の布を着用する。イスラム圏やインドの男性は宗教的あるいは実用的な意味合いから帯状あるいは一枚の布を頭に巻くことが多い。様式も扁平な帽子の上からしっかり巻くものから,日よけのため軽く頭頂を覆うようなものまである。それらを総称して「ターバン」というが,地域や宗教により多くの呼び名がある。

雰囲気のある建物

キリスト教の教会

はどこにあったか思い出せない

町の南側は華人の多い地域であり,全体がチャイナタウンのようなものだ。それでも,ここから中華街だと宣言するように門がある。

高等裁判所のポーチに付設された時計塔

ウオター・フロントの西端に高等裁判所があり,そのポーチのところには時計塔がある。近くに案内板がありそれぞれの歴史が記されている。高等裁判所は1874年に建てられた一群の建物の一つであり,時計塔は1883年に付加されている。本体の建物が比較的地味なのに対して,白塗りの時計塔はずいぶん目立っており,どちらが主体なのか分からないほどだ。

チャールズ・ブルックスのレリーフ

近くには「チャールズ・ブルック」のレリーフが飾られており,下のプレートには「サラワクの二番目のラジャ」と記されていた。当時の状況から考えるとブルネイのスルターンはサラワクを統治するため名代としてのラジャを任じていたようだ。ブルックはラジャとして任じられると,すぐに独立したので白人王国の初代国王とされている。

土産物屋の店頭を飾る

たくさんのお面を扱う土産物屋があった。普通に人と分かるものから,ディフォルメの強いものまで多彩である。このうち,特異なものはインドネシアからパプアニューギニアにかけて見られる共通の文化のようだ。

キリスト教やイスラム教が浸透する以前,これらの地域の根底には精霊信仰があり,仮面は特別の儀式に使用される神聖なものであった。ボルネオもその例外ではなく,それぞれの村で多くの仮面が使用されていた。しかし,一神教の浸透とともにそれらの仮面は散逸しまっており,現在は博物館に飾られるか,模造品が土産物屋に並ぶだけである。

クチンは猫の彫像が多い町だ

クチンはマレー語で猫を意味し,市内のあちらこちらに猫の彫像があり,猫の博物館もある。しかし,この町と猫を結びつける物語はどこにもない。

wikipedia にはクチンの語源は南インドの港を表すコーチン(Cochin)かもしれないという情報があった。たまたまそれから派生したクチンがマレー語の猫と同じであったというあたりが正解なのかもしれない。物語はともかく,現在のクチンにはたくさんの彩色された猫の彫像があり,観光客を楽しませている。

クチンの食事あれこれ

ボルネオホテルの周辺は華人地区となっており,中華料理には不自由しない(と思う)。一人旅ではいわゆる中華料理はなかなか注文できないので,どうしてもチキンライスや麺類になってしまう。今日の昼食は近くの青山角でチキンライスとライムジュースで5.4リンギットである。

中華風のチキンライスはお皿に盛った白いご飯と蒸したもしくはローストしたチキンの組み合わせである。ごはんの上に最初から乗っていることもある。特製のソースを使用することもあるが,通常はしょうゆと唐辛子ペーストで味をつける。こんな簡単な料理でも店により味の差は出てくる。ここのものは僕が今まで食べた中では最上級にランクされるものであった。

夜はやはり青山角の海鮮ラーメンにした。これは5リンギットと昼のチキン・ライス(4リンギット)より高い。ライムジュースと合わせると6.4リンギットになる。マレーシアでの食事はめったに6リンギットを超えることはなかったのでもっとも高い部類に入る。海鮮ラーメンの味は値段相応に素晴らしいものであった。中華と日本食では旨味のベースが同じなので,このように感じるのだろう。

ライムジュースは僕のお気に入りの飲み物である。ライムはミャンマーからマレー半島にかけての地域が原産地のかんきつ類であり,大きさはレモンとスダチの中間である。レモンと同じようなさわやかな酸味があり暑い気候とよく合う。東南アジアでもフィリピン・ルソン島のコルディエラ地域のような標高の高いところではホット・ライムにしている。

宿のすぐ近くにある聖マリア学園

インドネシアの60日ビザが取れる

クチンからは陸路でインドネシアのポンティアナッに向かう予定であった。アライバル・ビザの心配もあったので宿で同室のイタリア人に相談すると,アライバル・ビザの取得はどの国境でも問題ない。クチンの領事館では60日間のビザを発給してくれるという耳よりの情報を教えてくれた。実際,彼のパスポートには60日間のビザが3枚貼ってあった。

インドネシアの観光ビザは30日間であり,延長ができないので,いつも行程の中で出国のプランを持っていなければならない。これは旅程を考えるうえで大きな制約となる。60日のビザがもらえると旅程の自由度はずいぶん大きくなる。航空券はバリ・イン,バリ・アウトなので,今後の行程はスマトラ→ジャワ→ヌサラ・トンガラ→バリにすると時間と費用の大きな節約になる。

ボルネオホテルの前を通る「Jalan Ban Hock」を西に行くと,「Jalan Padungan」と交差する。一帯は大きなロータリーになっている。この北側にインドネシア領事館の入っている高層ビルがある。1階にはHSBC銀行,6階には領事館がある。ビザ申請は09時に開始され,係りの女性から説明を受ける。

必要なものは下記の通りである。
(1)申請書2通,写真2枚,パスポート,出国チケット
(2)クレジットカードもしくは1000リンギットの所持金
(3)2ヶ月が必要かを記した領事への手紙,大まかな旅程

領事への手紙はちょっと難物である。それでも書類は受領され,1階のHSBCの1番窓口で170リンギットを支払い,受領書類をもって領事館に戻り窓口に提出すると,「受け取りは明日の15時」と告げられる。

夕暮れのサラワク川


カビット   亜細亜の街角   クチン 2