亜細亜の街角
天候は悪かったが棚田三昧の日々を過ごす
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バナウェ(標高1000m)  (地域地図を開く)

ルソン島中央部を南北に連なるコルディレラ山脈に位置するイフガオ州は面積2518km2,人口は16万人(2000年)の小さな州である。イフガオ州には都市と呼べるものはなく,バナウェはこの州の中では大きな町(日本の感覚では村)である。

町といってもメインストリートが200mほどしかないこじんまりとしたところである。この地域の先住民であるイフガオの人々は1000年前(2000年前という説もある)から急な山の斜面に見事な棚田を造成し,独自の稲作文化を継承してきた。

「天国への階段」と称され,「八番目の世界の不思議」といわれる美しい棚田群は1973年に大統領令により国の文化的資産に指定されている。さらに,1995年に棚田の景観が優れた文化的景観として認められ,「コルディレラ棚田群」として世界遺産に登録された。

僕が初めてこの地域を訪れた1996年は世界遺産の登録からまだ日が浅いこともあり,民宿のような10軒ほどの安宿があり,広場では露店が集まるというのんびりとした村であった。

現在ではそのような木造の安宿は鉄筋コンクリートのホテルかゲストハウスに変わり,宿代もずいぶん高くなってしまった。このような観光業の世界遺産効果に比べて,棚田を守ってきた農民は低い生産性に見切りをつけ,平地の町で働く人も増えている。

世界遺産への登録が逆に遺産の核ともいうべき棚田と伝統的な農業社会を危機に陥れている。このため2001年には危機遺産リストに登録されている。

コルディエラ山脈の中央部に位置するバナウェの近郊にはいくつかの村があり,それぞれ棚田により食糧を生産している。代表的な棚田の村としてはバダッドとバンガアンがあり,バナウェからトラシクルで見に行くことになり,2泊という短い滞在時間ながら多くの棚田を見ることができた。

ボントック→バナウェ 移動

ボントックの宿もチェックアウト・タイムは08時なので朝は忙しい。一階の食堂で昨日と同じ目玉焼きと野菜炒めの朝食をとる。どちらも油の使い過ぎである。やはり,野菜の量が多く努力しても少し残してしまう。

宿の向かいにあるタウンホールの西側からバナウェ行きのバスは出ている。天気は昨日の午後からあまり良くなく,いつ雨が降ってきてもおかしくない状況だ。にもかかわらずバスには窓ガラスが入っておらず,このバスでの移動はちょっと困ったことだなと思う。しかし,他に選択肢はない。

バスは07時に出発した。案じていたほど風は入ってこないので長袖のマイクロフリースとトレーナーを重ね着した状態で耐えることはできた。また,窓の下からアクリル板を引き上げると窓ガラスの代わりになることを乗客に教えられ,これで一安心である。

町を出て30分くらいで立派な棚田を見るようになる。畦ののり面はすべて石垣で補強してあり,これはボントック地域の文化なのかもしれないなどと思うようになった。マリコンの棚田を訪ねたときは斜面の緩急による手間ひまの差であろうと推定したが,文化の違いそのものなのかもしれない。

棚田は標高の低いところから造成されることが多いのだろう。斜面が緩やかなところがまず開発され,次第に人口の増加とともにより高い,より傾斜の急なところまで面積を増やしていくのであろう。

もちろん山からの水の供給も重要な要素となる。人々は棚田の上部の水源の森を共有地として保存するので,フィリピンにありながら,山の緑は失われていない。

山の上の小さな村で一時停車をする。ここの標高は1815m,白菜やチンゲン菜に似た葉物野菜が売られており,乗客の何人かが買物のため外に出る。天気も悪く気温は15℃くらいであろう。

道路状況は全般的に悪く,イフガオ州に入るとがけ崩れが頻発していた。急斜面を削り,道路を造り,斜面をそのままにしておくので,強い雨が降ると簡単に崩れてしまう。

がけ崩れの現場では日本製の中古の重機が活躍していた。ここからバスは高度を下げ,再び棚田が見えたと思ったらバナウェのビューポイントであった。ボントックからの所要時間は3時間弱であった。

Peoples Lodge

バスの停留所は町の中心部から一段高いところにあった。町の中にはバスを停めるようなスペースはどこにもない。ここから道路を回っていくとそれなりの道のりになるが,近くの石段を下りるとショートカットできる。

バナウェの宿は15年前に比べると隔世の感がある。僕としては15年前の素朴な雰囲気の方が好きだが,世界遺産効果により大勢の観光客がやってくると,どうしても設備は良くなり,それに比例して宿代も上がっていく。

ゲストハウスだけではなく星の付きそうなホテルまである。もっともこのバナウェ・ホテルは15年前にもあったような気がする。

「Peoples Lodge」のトイレ,ホットシャワー付きの部屋は500ペソと言われ,ガイドブックを再チェックしているとオーナーのおばさんが2日間だけなら400ペソでいいよとディスカウントしてくれたのでここに泊まることにする。

僕の部屋は8畳,2ベッド,トイレ・ホットシャワー付きでとても清潔である。もっとも,3日後には予約が入っているのでこの部屋を出なければならない。3日後には他の部屋が空くだろうと考え,3日目の朝に部屋の移動をお願いするとあっさりとフルと告げられた。

確かに朝食時には大きな団体が到着しており,広い食堂がいっぱいになっていた。他のゲスト・ハウスに移るという選択肢もあったが,面倒なので3日目の夜便でマニラに移動することにした。

この宿では商店もやっており,そこのブロック状の大きなパンは1個12ペソである。味はなかなかのものでチーズを加えると半分で十分に一食になる。このパンは近郊の棚田に出かけるときの昼食として重宝した。

リチャードとの出会い

Peoples Lodge に宿泊を決めた時になにかと世話を焼いてくれたのがリチャードである。彼はトライシクルの運転手で「是非,自分にバンガアンとバダッドを案内させてもらいたい,料金は500ペソだ」と提案してきた。

二つの棚田を見ることができるのであれば500ペソは妥当な値段であう。問題は天候である,僕は「天気が回復したら君の案内で回らせてもらうよ」と答えておいた。

それだけのことで彼はもうすっかりその気になって,今日は無料でバナウェのビューポイントに案内するという。バナウェ観光の主流が団体ツアーになりつつあるので,僕のようにフリーの旅行者は彼のような運転手にとっては数少ない顧客のようだ。

バナウェの棚田のビューポイントは町から4kmほどでちょうどよいハイキングコースになる。彼はトライシクルをそこからさらに上のポイントまで移動させた。

そこにも数軒の土産物屋があり,彼はそこの顔見知りのようだ。さて,せっかくここまで来てみたものの10分ほどで下界は雲海に覆われたようになり,視界はほとんど利かなくなった。せっかくのサービスも天候には勝てない。

ソンカを習う

リチャードは土産物の中から「ソンカ(sonka)」と呼ばれるゲームを取り出し教えてくれた。このゲームは現在はそれほど遊ぶ人はいないようであるが,フィリピン,東マレーシア,インドネシアの各地で見かけた。

呼び名は地域により少しずつ異なっていた。また,穴の数は片側6個,7個,8個という種類があった。原理的には穴の数がいくつでも同じルールで遊ぶことができる。遊び方を言葉で説明するのはなかなか難しい,説明文が長くなることをお許しいただきたい。

ゲーム盤は木製で左右に大きな穴と,2列になった片側6個の穴がある。穴といっても裏まで貫通しているわけではなく,小石あるいは宝貝が15個ほど入る深さである。

説明の便宜上,それぞれの穴にはA0からA6およびB0からB6という番号を付けることにする。小石もしくは宝貝を使用するので,説明の中では優雅に宝貝を使用することにしよう。

ソンカは二人で遊ぶものでAさんとBさんの領有する場所がそれぞれA,Bの番号が付けられているところである。A0とB0はホームに相当する特別の場所で,ゲーム終了時にここに溜まった宝貝が自分のものになり,その数で勝敗が決まる。

ゲームの開始時にはA1-A6およびB1-B6の穴にはそれぞれ7個の宝貝を入れる。A0とB0には何も置かない。つまり,ゲーム開始時点ではAさん,Bさんの持分はそれぞれ42個ということになる。1ラウンドのゲームはA0もしくはB0にすべての宝貝が移動するまで行われる。

Aさんからゲームを始めることにする。Aさんは自分の領地であるA1からA6のうち,宝貝のあるどの場所からでも宝貝を動かすことができる。もちろんゲームの開始時はすべての場所に宝貝があるのでどこからでもよい。

例えばA4から開始したとしよう。A4にある全て(7個)の宝貝を取り出し,時計回りにA5,A6,A0,B6,B5,B4,B3と手に持った宝貝を1個づつ入れていく。最初手に持った宝貝は7個なのでB3で最後の1個を入れることになる。

この最後の穴に(この場合はB3)に宝貝がすでにある場合は1個を加えた8個の宝貝をB3から取り出し,同じように時計回りにB2,B1,B0,A1・・・・と1個づつ入れていく。この移動動作は最後の1個が特別の場所に納まるまで続けられる。

最後の1個が次のような特別の場所に納まった場合は特別のルールが適用される。このルールがゲームの勝敗を分けるキーになる。
(1) 自分のホーム(Aさんの場合はA0)
(2) 相手のホーム(Aさんの場合はB0)
(3) 自分の領地内の宝貝のない空の場所
(3) 相手の領地内の宝貝のない空の場所

自分のホームに最後の1個が入れられた場合は,自分の1-6番地(Aさんの場合はA1-A6)のうち宝貝のあるどの場所からでも再スタートができる。

相手のホーム(Aさんの場合はB0)および宝貝のない相手の1-6番地の(Aさんの場合はB1-B6)に最後の1個が入れられた場合は,相手に移動権が移る。相手は自分の1-6番地(Bさんの場合はB1-B6)のうち宝貝の入っているどの場所からでも移動を開始することができる。

自分の1-6番地で宝貝のない空の場所に最後の1個が入れられた場合は,その番地の向かいのある相手の番地(例えばA3で終了しなのならならばB3)の宝貝をすべて自分のホームに移動させることができる。その後,移動権は相手に移る。

宝貝のたくさん入っている相手番地の向かいに位置する自分の番地を空にしてうまく最後の宝貝を入れることができるかどうかが勝敗のカギとなる。

また小技として,例えばA6に1個,A5に2個宝貝のある状態でAさんに移動権が回ってきた場合は,まずA6の1個をA0に移動させる。

自分のホームで終了した場合は,そのままま自分の1-6番地の宝貝のある場所から移動を再開することができる。次はA5の2個をA6とA0に移動させる。この小技により,自分のホームにより多くの宝貝を集めることができる。

こうやって,移動を進めていくと1-6番地の宝貝は次第に少なくなり,すべての宝貝が双方のホームに納まったところで1ラウンドが終了する。

ときには,自分の領地の1-6番地に宝貝がまったくなく,相手の1-6番地にはまだ宝貝が残っているような事態も生じる。そのようなときは自分の1-6番地に宝貝の残っている側が連続して移動させることができる。相手は自分の領地に宝貝が来るまでお休みということになる。

バナウェ博物館

ソンカでひとしきり遊んだあと,リチャードは町の近くの「バナウェ博物館」に案内してくれた。料金は50ペソ,公立のものではなく私設の博物館のようだ。僕は博物館はきらいではない。特に地方の博物館では地域の習俗がよく分かるからだ。

しかし,写真やメモにでも残さない限り,展示物を後から思い出すのは至難の技である。特に還暦を過ぎると新しい情報を蓄積するのはかなり難しくなる。

見たり,聞いたりするだけではすぐに忘れてしまう。これでは,家のテレビで博物館の紹介番組を見ていた方がずっと記憶に残る。デジタル映像の時代に入り,録画モードを「標準的な画質」にしてもハイビジョンの美しさは十分に伝わってくる。

旅の素晴らしいところは,自分の感性で現物を眺める,自分の手で触れたり味わったりするという体験の積み重ねにある。それに対して博物館のように情報が展示されているところは映像と解説だけで十分だというのはちょっと暴論に過ぎるかな。

バナウェ博物館にはイフガオの伝統的な文化が多数展示してあった。木彫りの文化,権力者が横になるイス,戦いに使用された槍・・・,館長かその親族の人がていねいに展示物を説明してくれる。なんといっても,客は僕しかいないのだ。このような説明も情報量が多いため,記憶に残らないのはとても残念なことだ。

大変な一日

翌日はリチャードの願いが叶ったのか,天候は回復してきた。雲はとれていないが雨の心配はまずなさそうだ。この日はトライシクル移動と徒歩移動で大変な一日であった。行程を整理すると次のようになる。

07:00 :トライシクルで宿を出発
08:20 :がけ崩れのためしばらく停滞
09:00 :バンガアン・ビューポイントに到着
10:00 :ジャンクション(1050m)近くでトライシクルから下車
10:50 :峠の茶屋(1250m)に到着,一部はジープニー乗車
11:30 :バダット・ビューポイント(950m)に到着
12:15 :ビューポイントの近くの小学校訪問
12:40 :棚田の中のビューポイント
13:00 :滝に下りる休憩所(770m)
13:50 :帰路
15:00 :ビューポイント近くの休憩所
16:10 :300mを登り峠の茶屋(1250m)に到着
17:00 :ジャンクション(1050m)まで歩きトライシクル乗車
18:20 :宿(1000m)に到着

バダットの棚田は規模が大きく,かつトライシクルが入れるポイント(1050m)から1250mの峠を越え,棚田の底の770m地点までを往復することになったので老体にはかなりつらい歩きとなった。それでも,二つの棚田を見ることができたので充実した一日でもあった。

06:15に起床し,宿の食堂で朝食をいただく。メニューはごはん,目玉焼き2個,ソーセージ,コーヒーのセットで85ペソ,この地域では妥当な値段だ。案内人のリチャードはすでに宿の入り口で待っている。

07時に宿を出る。途中でガソリンを3リットル入れる。そこはガソリンスタンドではなく,商店の前にガソリンの入ったコーラのビンが並んでいる。バナウェからバダット村までは16km,トライシクルのバイクは250CCくらいのなので往復してもガソリンは1リットルくらいしか使わない計算だ。

バナウェからバダッド村近くのジャンクション・ポイントまではジープニーが走っているという情報もあるが,通常のアクセス手段はトライシクルのチャーターということになる。料金は交渉で決まるので個人差が大きい。ネットの旅行記を読むと往復で高いものは1000ペソを越えている。リチャードの言い値の500ペソはずいぶん安い部類に入るだろう。

バナウェを抜けると抜けると道路状態はかなり悪くなる。昨日の雨による水たまりが点々と続いている。トライシクルには少々つらい道である。アップダウンも多く,平均速度は15km/h といったところだ。

実際,ジャンクション・ポイントの少し手前のがけ崩れ地点まで70分ほどかかっている。ここは小規模な土砂崩れにより道がふさがれている。最前列にはJICAのロゴをつけた救急車が止まっている。

この辺りはもう棚田地域に入っており,道路から谷を見下ろすことのできるところでは狭いV字の谷あいが棚田になっている。この谷の上部はどこも豊かな森となっている。その森から供給される水により棚田が維持されていることが,地形の上からも読み取れる。

谷の向こうは急峻ではないものの,いくつもの山の連なりが続いており,傾斜の緩い斜面は谷のごく限られた周辺部しかない。バナウェのように急な山の斜面に棚田を造成するのは大変な苦労が必要であり,維持も大変なので,例外的なもののようだ。

谷あいに小規模が棚田が見られるようになる

途中にはいくつかの集落が点在している

小さな崖崩れが起きていた

ほとんど直角の崖の一部がくずれている。数人の男性が土砂をならして一応通れるようになった。目の前のがけ崩れは土砂の小さな崩落であったが,周辺は大きな岩がせり出しており,それらが崩れたら,重機無しでは復旧は難しい。

地元の人が山からの湧水をボトルに入れている

崖の岩の間からは水が滴り落ちてきており,地元の男性はペットボトルでその水を受けている。これは飲料水にするものである。

トライシクルはなんとかがけ崩れ地点を通過する

我々のトライシクルもなんとか土砂崩れの現場を越え,分岐点を右に曲がり,バンガアン村に向う。もちろん,僕はがけ崩れの向こう側まで歩き,そこでトライシクルを待つことにする。

山の中腹の斜面を削って道を通している

バンガアンの棚田

パンガアン村に向う道路から視界が開けると緩やかな斜面に広がる棚田の景色が飛び込んできた。

ここがビューポイントかどうかは分からないが,トライシクルを止めてもらう。幅150mほどの棚田が山の中腹から下の方に連なっており,さらに反対側の山の斜面にも続いている。もっとも,この位置からは反対側の斜面はまったく見えない。

見える側の棚田の最上部に数戸,中央部に15戸ほどの家屋が固まっている。集落の人口は100人ほどとされているので,この視界に入っているものが集落の全てなのだろう。この集落にも電気が来ているのか,谷のはるか上空を電線が通っている。

現在の場所はからは棚田の畦が描き出す曲線がもっとも美しく見える。棚田の周辺の山は森林になっており,このように視界が開ける地点は珍しい。集落を訪れる観光客に対するサービス用のビューポイントだったのかもしれない。

田植えが終わった直後の棚田は一面が薄い緑に染まっており,その境界を形づくる畦の曲線が美しい。規模が小さいので視界に棚田の全貌が(半分だけど)収まり,一幅の絵のようだ。

しかし,やはり自分は未熟なカメラマンであった。棚田の風景だけに目を奪われ,背後の山が欠けてしまう構図となってしまった。もう少し引いた写真にすればと反省する。

村に向う道は棚田の左上部の方に回りこんでおり,そこからの棚田の景色はまるで別物であった。見る方角,高さにより棚田の風景はかくも変わって見える。

斜面の上部にある集落に到着した。入り口にはまだ新しい看板が掲示してあった。そこには「この地域固有の稲作方法によるコメ栽培のための土地利用,コメの増産システムによりイフガオの棚田を救おう」と記されていた。この看板にはSGPとUNDP(国連開発計画)のロゴが入っていた。

貧しさゆえに保存された景観

旅行者から見ると棚田は地域の人々が営々として築いてきた自然と共存する持続可能な農業システムであり,美しい景観とともに後世に残すべき貴重な文化遺産である。しかし,このような山間地の狭い水田で稲作を行い,生計を立てることは決して楽なことではない。

この地域で優れた棚田の景観と伝統的な稲作が残されてきた背景には,近代化や開発から取り残された貧しさがある。実際にイフガオ州はフィリピンでも貧しい地域であり,コルディレラ行政地域の6州のなかでも貧しい州となっている。

この地域の貧しさの原因は農業生産性の低さであることは旅行者の僕にでも容易に理解できる。「世界遺産と地域住民(長谷川俊介氏)」には世界遺産に登録されたイフガオの棚田の抱える問題点が詳細に報告されている。それによると,農業生産性の低い理由として下記の4点が指摘されている。
(1) 狭く断片的な農地などの土地所有
(2) 生産の元手購入に必要な現金収入がないこと
(3) 貧しい社会インフラによる市場アクセスの制約
(4) 社会的支援や情報提供の不十分さ

長谷川氏はさらに平地と栽培米が異なる点についても言及している。イフガオの山間地で栽培されているのは寒さに強い熱帯ジャポニカの「ティナワン種」である。

一方,フィリピンの平地で栽培されているものはインディカ種である。インディカ種は熱帯地域に適した早生の多収量米であり,フィリピンの平地では二期作が行われている。インディカ米は収量の多さから世界のコメの80%を占めるまでになっている。

ティナワン種は収穫までに7-9ヶ月もかかる晩生のため,栽培は年一回に限定される。さらに,ティナワン種は日本でいう古代米に近い品種であり,収量は決して多くはない。このような栽培条件の差は,平地に比べて生産性の低い大きな理由であろう。

重労働とそれに見合わない収入に見切りをつけ,多くの若者や壮年の働き手は町で働くようになった。その結果,棚田は荒れるようになった。貧しさゆえに保全されてきたこの地域の棚田は,貧しさから抜け出そうとする動きにより消滅の危機を迎えている。

熱帯ジャポニカ種の遺伝子は日本の現在のコメにも受け継がれていることはご存知あろうか。野生種ではない栽培種のコメの起源は約1万年前,長江の中・下流域とされている。この地域ではイネの野生種は見つかっていないが,栽培種のイネや籾が遺跡から出土している。

稲作の起源を探すうえで稲の本体や籾が発見されればそれは確かな証拠になるわけであるが,湿潤な気候ではそう簡単には残ってくれない。近年はイネ固有のプラント・オパール(葉に含まれるガラス質の成分)を調査することにより,その土地でいつ頃,どのくらいのイネが栽培されていたかが分かるようになった。

それによると日本の稲作は6000年前まで遡れることがわかってきた(NHKスペシャル・日本人はるかな旅)。従来の定説は2000年前,弥生時代の始まりの頃とされていたので,一気に4000年前に遡ることになった。

この時代のコメが「熱帯ジャポニカ種」である。寒さに強いといっても晩生のため日本列島でこの品種が栽培できたのは温暖な西日本の一部の地域だけであり,栽培方法は粗放的な焼畑であると考えられている。稲作の起源から考えて,日本列島に「熱帯ジャポニカ種」をもたらしたのは長江下流域の農民(漁労民をかねる)だろうと番組は説明している。

そして,2000年前に水田稲作技術を携えて弥生人が渡来する。彼らの持ち込んだものが「温帯ジャポニカ種」である。縄文の末期から弥生の初期にかけては二種類のコメが併存していた考えられる。

この時期に両者の間で自然交配があった。この雑種のあるものは早生の性質をもち,暑い時期の短い東日本でも栽培できるようになった。新種のコメはわずか300年で西日本から本州の北端にまで到達したという。

現在日本で栽培されているのはその稲の末裔であり,その中には「熱帯ジャポニカ種」の遺伝子が受け継がれている。稲作を通して日本とイフガオの棚田が結びついているというのは壮大な民族移動の結果でもある。

棚田の上部の集落にはイフガオでよく見かける四角錐の屋根をもったコメの貯蔵倉がある。柱は4本で上部にはネズミ返しのため,厚さ15cm,直径50cmほどの円柱が取り付けられている。この倉は周辺の建物から距離をおいたところにあり,上に登るハシゴを取り外すとネズミといえども進入できない。形状はさまざまであるが,このような穀物倉の文化は東南アジアに広く見られる。

人類が農耕を始めてからつい最近まで,人々にとっては穀物の貯蔵と害獣,害虫からの保全は最大の関心事であった。イフガオではおそらく籾の状態で保存し,毎日食べる分だけを精米したことだろう。

この貯蔵倉の下には木製の臼が置かれており,現在でも1000年前と変わらない方法で精米作業が行われているはずだ。貯蔵倉の下には母親と子どもたちが遊んでいたので写真を撮らせてもらう。観光客が訪れるので子どもたちは素直に並んでくれた。時間はないけれど,水をもらってこの子たちへのお礼にヨーヨーを作る。

集落の周辺にはコーヒーの木が植えられており,ちょうど白い花を咲かせていた。コーヒーの木はクチナシと近い関係にあり,ここなしか花の様子も似ている。

小さい子はちょっと不安な表情である

右はバンガアン村へ,左はバダッド村に向かう

バタッド村までは歩きとなる

時間がないのでバンガアンの中心部の見学ははしょってバタッド村に向うことにする。トライシクルはジャンクション・ポイントの少し先が走行限界である。そこからは峠の茶屋まで1時間,標高差200mほどの登りとなる。

バタッド村はこの峠を越えてさらに300mほど下った標高950mのところにある。そこは棚田の上部であり,棚田の中を歩くには標高770mあたりまで降りなければならない。

我々はジャンクションから歩くことにしたが,団体観光客はバナウェでジープニーをチャーターし,峠の茶屋まで運んでもらっている。往復で1.5時間は助かる計算だ。もっとも我々も往きは途中からこのジープニーに拾われ,だいぶ助かった。

驚いたことにこの道は半分くらいコンクリートで舗装してあった。周辺の山の斜面は焼畑から回復しつつある状態のところが多い。ここでも斜面の上部は森を残し,その下で農耕を行う配慮がされている。

棚田を造成・管理するのは大変な手間がかかるので,コメ以外の作物は焼畑で栽培するという栽培地の住み分けができているのかもしれない。

峠の茶屋は電気が来ており,少し冷たい飲み物が市価の2倍くらいで売られている。峠の向こう側にはバタッド村があるが,棚田を含めここからではほとんど見えない。

バダッド・ライステラスの航空写真

急斜面を下ってビューポイントに到着する

村に向う道は急斜面でかつ狭い。往きはさほど問題にはならないが,帰りの上りはさすがにきつかった。バタッド村のビューポイントには40分ほどで到着した。入り口に環境保全の寄付依頼(入村料というわけではない)があったので100ペソを寄付する。

時刻は11:30になっていたので見晴台のイスに腰を下ろし,チーズと宿から仕入れてきたパンで昼食をとる。もちろん,リチャードの分も持参している。リチャードは本来トライシクルの運転手なのだが,ガイドを兼ねて棚田を案内してくれた。

バタッドの棚田は訪問する観光客が多いのか,このビューポイントの周辺には何軒かの宿がある。棚田の雰囲気を満喫したい人はここに宿泊するのは得がたい経験になるだろう。僕も荷物さえ持たなくてよいということであれば,泊まることにはやぶさかではない。

ビューポイントからはバタッドの棚田のほぼ半分を眺めることができる。ここには1996年にも来たことがある。さすがにこの風景は記憶にある。もっとも,そのときからはあまりにも多くの棚田を見ているので場所とイメージを頭の中でリンクさせるのは難しくなっている。

ここから見える範囲の棚田は片斜面に近い。しかし,移動してここから見えている斜面の上部から見ると集落の少し下が最も低いとこになり,そこからニ方向の斜面に向って棚田が競りあがっている。この位置から見るとガイドブックにあるように「すり鉢型に広がる」地形となる。

ここの棚田の畦はみごとな石垣になっている。バンガアンの棚田も石垣で補強されており,イフガオ=泥の畦というわけではないようだ。

僕にとってコメ作りの文化を見るのは旅の大きな楽しみなので,棚田はできるだけ訪問するようにしている。世界の多くの地域で,条件の悪い山間地で人々は棚田という手段で食糧を生産してきた。

どこの地域でも棚田を造成し維持管理するのは大変な時間と労力を必要とする。そのような苦労を知っているので,棚田については大小や美しさを比較する気にはなれない。

大きさだけならば中国・雲南にはイフガオとは比較にならないほど大きな棚田がある。しかし,それは村落の人口や斜面の適性によるもので,あちらの棚田の方が何倍も大きかったよなどと言うのはまったく意味のないことだ。

棚田を見る視点はいつも,これだけの棚田を造成し,機械力もなしに気の遠くなるような期間を通じて食糧を継続的に生産してきた人々のすごさに置いている。

棚田は集落の東側の斜面にも続いている

集落の南側の斜面も棚田になっている

集落の東側斜面

棚田の中を歩く

昼食も済んだので棚田に下りる道を下っていく。すぐに小学校が見える。この小学校も子どもたちの集合写真を撮った思い出がある。すでに夏休みに入っているのか,子どもたちの姿は見えない。

さらに下っていくと水場があった。山から湧き出る水をコンクリートの水槽に貯めている。水槽の下部から金属製のパイプが接続され,栓を抜くと水が出てくるしかけになっている。標高が高いとはいえ日中の気温は十分に暑い。男の子は水槽に入り水遊びをしている。一方,女の子は洗濯である。

道は棚田の上部に出た。ここから上の部分は元棚田の状態である。棚田は造成後も定期的にメンテナンスをしていかないとじきに畦が崩れてしまい,もとの斜面に還ってしまう。

上の斜面はそのような状態であった。もっとも,この一画は棚田全体の保全のために積極的に放棄されたとも考えられるので,なんとも言えないところだ。

棚田の中では水平方向には畦を歩くことになるが,一部の畦は観光客のためなのか幅が広く石で補強されている。上下方向には何ヶ所かの石段のような構造があり,それを利用して移動することができる。

現在の位置から上は45度を越える急斜面になっており,そこにも狭い段が続いている。少しでもたくさんの土地を確保したいという切実な要求が,こんな急斜面にも棚田を造らせたようだ。

棚田の底にある集落から少し離れたところに小さな盛り上がった地形がある。そこには樹木が生い茂り,周辺の棚田の風景とは明らかに異なった場所となっている。規模はまったく違うけれど日本でいうと鎮守の森のようにも感じられる。

さすがにこれだけの規模の棚田で農耕が行われるので集落も4ヶ所にある。もちろん底の集落がもっとも大きく,その左側の鎮守の森,右側の斜面の中腹,右の斜面の森の中に小さな家屋のまとまりがある。

ガイドブックによるとここでは二期作が行われているとのことだ。そうすると,栽培されているのは栽培期間が長いティナワン種(熱帯ジャポニカ)ではなく,平地と同じインディカ米ということになる。

鎮守の森まで降りる。標高は770m,帰りは500mほど登らなければならず,かなりしんどそうだ。リチャードはここから100mほど下ったところに滝があるので行ってみようと誘ってくれた。ガイドブックでは1時間ほどの行程となっているので,体力を考え辞退した。

彼は往復で1時間もかからないので行ってくるよと言うので,カメラを渡し,滝の写真を依頼した。彼を待っている間,僕は滝の下り口にある長いすに腰を下ろし十分に休養をとることができた。

気が向けがイスから立ち上がり,反対側から棚田を眺めるというぜいたくな時間を過ごすことができた。確かにリチャードは1時間足らずで戻ってきた(ちょっと息を切らせていたけれど)。

すり鉢型の棚田を半周して戻る

すり鉢の底のあたりを団体客が通る

特別に補強された通行用の畦道がある

南側のビューポイントに到着する

そろそろ14時近くになっていたのでのんびりとビューポイントまで戻ることにする。我々以外に二組のグループが棚田の中を歩いている。どちらも先頭はガイドが歩いている。

上に通じる石段や自然石の道を上り,水平方向に移動してビューポイントに到着する。この周辺にも集落があるが,子どもたちからは「写真はだめ」と告げられた。たまたま立ち寄った家でその理由が分かった。

観光客が子どもたちの写真を撮り,キャンディーやお金を渡すことがままあるそうだ。そうすると,子どもたちはそれに依存するようになり,観光客が少なくなるとキャンディー欲しさに泣くようになるという。

観光と依存心の問題は世界の各地で起きており,僕も子どもたちに対するささやかなプレゼントを用意している立場としては深く考えさせられることになった。

ビュー・ポイントから先は急斜面の上りが連続し,何回か休憩をとってもらうことになった。1時間あまりで峠の茶屋に到着した。ここからは下りとはいえジャンクションまでさらに1時間の行程である。

途中で道路の舗装工事の現場を通りかかった。舗装にはアスファルトではなくコンクリートが使用される。アスファルト舗装には熱で軟らかくしたアスファルトを道路に敷く専用車両,その後を踏み固めるローラーなどの重機が欠かせない。また,アスファルトを軟らかくするためにも機械が必要だ。

それに対してコンクリート舗装はセメント,ジャリ,水があればあとは人手でなんとかなる。工事のあとに残るのはセメントの袋だけなので後片付けのコストも不要である。

そのような理由からかフィリピンの山間地ではコンクリート舗装が主流となっている。ここで働いているのはおそらく近在の人々であろう。仕事が一段落したところなのか僕のカメラににこやかに納まってくれた。

この頃になると二人の間の会話は途切れ途切れになる。リチャードもそれなりに疲れているようだ。トライシクルに戻りほっとしたのも束の間,しばらく走ったところでリチャードが「ガスが無くなりそうだ」などと恐ろしいことを言い出す。

来るときに3リットル給油したのに,このバイクの燃費はどうなっているのだろう。彼は近くの家で500CCほどのガソリンを分けてもらい,ようやく宿に戻ることができた。

彼は500ペソの料金は安すぎたので追加料金をもらいたいと言い出した。彼はトラシクルの運転の他に棚田を案内してくれたし,昨日はソンカを教えてもらった。このような良いサービスに対しては約束以上の料金を支払うのにはやぶさかではない。

5割り増しの750ペソを払うと,彼はうれしそうにトライシクルを走らせていった。今日,彼の家は少しはごちそうが食べられるかな…。

我々はこの道を歩くことになる

道路をコンクリートで舗装している

バスのチケットを入手する

宿の延泊はできなかったので夜行バスでマニラに向かうことにした。昨日と同じように85ペソの朝食をとり,12ペソで昼食用のパンを買う。準備ができたので部屋をチェックアウトし,荷物は荷物室に預ける。

これで夕方まで自由時間となる。天候は再び怪しくなっている。昨日の棚田訪問の天候が比較的良かったことに感謝しなければならない。

まず,バス会社の事務所に行きチケットを買うことにする。GVフロリダの事務所はバナウェ・ホテルの近くにある。ただし,事務所ではなくただの店屋が代行をしている。20時発,マニラまでは370kmで料金は450ペソ(900円)である。

木性シダは10mくらいまで成長する

タムアン村で制作されたものであろう

バナウェ・ホテルの門を飾る一対の像

バナウェ・ホテルの門を飾る一対の像

タムアン村を訪問する

バナウェ・ホテルはこの地域の最高級ホテルである。僕はとても泊まる気にはならないが料金は2000ペソ程度である。ここの敷地内から下に降りる道があり,ちょっと下るとタムアン村に到着する。バナウェからもっとも近い観光地である。

四角錐の屋根をもった2坪ほどの小さな家屋がある。この建物は穀物倉だと思っていたら,ここでは人が住んでいる。最初のものはトタン屋根であったが,奥のものは茅葺きである。こちらの方も人が住んでいるようだ。

周辺にはトタン屋根の普通の家もたくさんあり,大部分の村人はそのような家屋に居住している。広場には英語のできるおばさんがおり,いくつかの英語と日本語の対応をたずねてきた。

メモ帳を出して彼女が英語で記入した単語の横にローマ字で日本語を書いてあげた。この家では女の子が一人で遊んでいたのでヨーヨーを作ってあげると,近所の子どもたちが集まってきて5個作ることになった。

木彫りの像を製作する

笑顔の子どもを発見

みんなが集まってくるのでヨーヨーを作ってあげる

立派な手作りのコマで遊んでいる

男の子は立派な手作りのコマで遊んでいる。遊び道具としてはこちらの方がずっと素晴らしい。遊び方は3mほど離れたところに何個かのコマを伏せておき,そのコマをめがけて自分のコマを回し投げるというものである。

うまく相手のコマに当たると,次の回も当てる役を継続することができる。使用されている無骨なコマは手作りで,鉄芯は付いていない。

女の子はヨーヨーで楽しんでいる

お姉さんと一緒に

一軒の家で大勢の人が食事をしていた

帰りがけに一軒の家で大勢の人が食事をしていた。肉が付いていたので何かのイベントがあったのだろう。このようなところにお呼ばれするのは大好きなので堂々と上がらせてもらい,チキンとごはんをごちそうになった。

ごはんは粒の短いジャポニカ米であった。この地域の栽培米は古代米に近いと聞いていたが,特に色は付いていなかった。ごはんのお礼に家にいた子どもたちにヨーヨーを作ってあげたら,入り口にさらに何人かが現れ,たくさん作ることになった。

ごはんのお礼に家にいた子どもたちにヨーヨーを作ってあげる

太平洋の島々の文化とのつながりがありそうだ

木性シダの上部はこのようになっている

バナウェの町の全景

ビューポイントに向う

バナウェの周辺にもたくさんの棚田があり,いくつかものビューポイントがある。もっとも有名なところまでは約4kmの道のりとなる。ここはバナウェを訪れた旅行者のほとんどが訪れる名所である。

僕は一昨日に別のビュー・ポイントを訪れたが,あいにくの天候のため満足な写真にはならなかった。今日は少し条件が良さそうだ。バナウェの標高は約1000m,ビューポイントまでは250mほどの上りになる。雨さえ降らなければちょうどよいハイキングである。

道路の谷側はずっと棚田の景色となっている。家屋の間からこの景観を見ることができるが,谷向こうの斜面に広がるメインの棚田は道路よりも高いところにあるため,階段のようにしか見えない。棚田の美しさである畦の緩やかな曲線は谷底の部分しか見えない。

ビューポイントは道路に沿っていくつもあり,それぞれが土産物屋とセットになっている。この辺りからは谷の両側に広がる棚田群を見ることができる。すばらしい眺望には違いないが,何か物足りないものを感じる。一つは周辺があまりにも観光地化しすぎたという事情もある。僕の感性には昨日のバンガアンやバタッド村の方が合っている。

バナウェ・ビューポイントからの眺望

バナウェ・ビューポイントからの眺望

突き出した棚田の先端まで行けそうだ

バナウェの谷全体が見渡せる

ここの子どもたちは人懐っこい

いい笑顔だね

満員御礼のジープニー

入口の両側の人柱は太平洋の島々とのつながりがありそうだ

この子たちの写真を撮ったのが運のつきとなった

道端の露店で売っていた蒸しパンのようなものを持っている

ねえ,きみたちこれが最後の写真だよ

ビュー・ポイントの周辺には民家もあり,子どもたちも多い。5-6歳の女の子につきまとわれて閉口した。カメラをもった僕は彼女たちのかっこうの遊び相手にされてしまった。

ねえ,君たちもう帰りなさいと言うと戻りかけるのだが,僕が歩き出すと後をついてくる。しかし,ぐずぐずしてはいられない。空模様が怪しくなってきたのだ。

1/3ほど戻ったところで雨につかまった。民家の軒先で雨宿りをして,運良く通りかかったトライシクル(15ペソ)に拾われて町に戻ることになった。雨の間に観光案内所の隣にあるネット屋でメールを出すことにする。ここには日本語可のPCが置かれている。


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