亜細亜の街角
こころに残る LEST WE FORGET
Home 亜細亜の街角 | Sandakan / Malaysia / Feb 2009

サンダカン・クロコダイル・ファーム  (地域地図を開く)

セピロック保護区からサンダカンに向かうバスは11:30発である。セピロックに到着した時,運転手に帰りの時間を確認しておいた。バスは給餌の時間に合わせて運行されており,それを逃すと次は午後の便になりそうだ。

運転手に「クロコダイル・ファームで下ろして下さい」とお願いすると,ちょうど施設の前で下ろしてくれた。ここではワニの養殖が行われており,入場料は5リンギットである。この入場料ではとてもこれだけの施設を運営することはできないので,一部は皮革製品用に出荷されるのであろう

2.3億年前から体型が変化しないワニ

ワニは現存する最大級の爬虫類であり,2.3億年前の三畳紀に出現したといわれている。その少し前の2.5億年前に「ベルム期の大量絶滅」が起きている。これは,地球史を通して最大の生物大量絶滅であり,当時の全生物種の90%が絶滅したとされている。

この大絶滅はそのまま古生代と中生代の境界になっており,その原因として最有力視されている学説が「シベリアにおける大量のマグマ噴出説」である。

スーパー・ホットプルーム(マントル内部から地球表層に湧き上がってくる高温の物質)が地殻を突き破り,シベリア地域にマグマを噴出させたというものである。この巨大な噴火の痕跡は西シベリアから中央シベリア高原にかけて広く分布する溶岩(シベリア洪水玄武岩)として残されている。

この大噴火は大気中にぼう大な二酸化炭素を放出し,地球は超温暖化していく。同時に大気中の酸素濃度が10%程度にまで低下した。酸素が減少した原因についてはメタンハイドレードの分解によるものとする学説(注)がある。

注)海水温の上昇により,海底に閉じ込められていたメタンハイドレードが融解し,大量のメタンガスが大気中に放出された。メタンは強力な温暖化ガスであり,酸素と結合することにより大気中の酸素を大幅に減少させることになった。

超温暖化,低酸素という環境の激変が多くの生物種を絶滅させたというのがマグマ噴出説の骨子である。この低酸素の時代にもっともよく適応したのが恐竜である。多くの恐竜は現在の鳥類と同様の気嚢システム(注)をもつことにより,低酸素環境で他の生物を圧倒して繁栄することができた。

注)鳥類の呼吸器は大ざっぱに後気嚢,肺,前気嚢に分かれている。外気はまず後気嚢に吸気され,後気嚢から肺に流れ,肺から出た空気は前気嚢を経由して排気される。空気の流れが一方向であるため,肺にはいつも新鮮な空気が供給される。この仕組みは吸気と排気を同じ気管を通じて行っている哺乳類のものに比べてずっと効率が良い。

ワニの祖先はこの厳しい環境の時代に出現し,6500年前に恐竜が絶滅した後も最大の爬虫類として一定の繁栄を遂げてきた。ワニ目はガビアル,アリゲータ,クロコダイルの3つの科に分かれ,23種に分類されている。

2.3億年前に出現しながら23種にしか分化できなかったのは生物としては負け組みに属するという論文をUCLA大学の研究者マイケル・アルファロ氏が発表した。彼はDNA配列と化石からたどれる脊椎動物の進化の系統を分析し,「進化の多様性」を数値化しようと試みた。「進化の多様性」の速度が理論上の速度に比べ大きな生物種は勝ち組,小さな生物種は負け組みとしている。

勝ち組は哺乳類と鳥類,サンゴ礁の魚類だそうである。生物は環境に適応して異なる種に分化していくので,分化の速度が速いということは種として繁栄しているという解釈である。

うん,なるほどねとうなづける面もあるが,分化の速度だけで判断してよいものかという疑問も出てくる。恐竜が繁栄したジュラ紀,白亜紀にワニの仲間も陸棲種,海棲種,植物食種,濾過摂食(プランクトン食)種,超大型種など多様な環境に適応した種に分化している。

2009年11月のニュースでは「1億年前の地球はイノシシやイヌ,アヒルなどに似た風変わりなワニが歩き回る世界だった。それを示す化石5種を米シカゴ大の古生物学者ポール・セリーノ教授らのチームがアフリカのサハラ砂漠で発見した」と報じられている。

6500万年前の生物種の大量絶滅(ここが中生代と新生代の境界となる)により大小を問わず恐竜は絶滅したが,ワニ類は種類を減らしながらも生き延びることができた。現在のワニは爬虫類としては淡水(一部は海岸近くの海域)環境に非常にによく適応した成功種であり,そのため新生代に入ってからも,たいして変化せずに種を維持できたという考え方もありそうだ。

ショー・タイム

現在,ワニは世界中の熱帯・亜熱帯の淡水および海水域に生息している。このワニ園で飼育されているものはボルネオ島に生息するクロコダイルということであればイリエワニかシャムワニであろう。最大のものには体長5mという説明書きがあり,これはイリエワニであろう。

ワニ園に入るとちょうどショーが行われていたのでまずそちらを見学する。水が一部に張られた広いプールの中で二人のスタッフが巨大なワニとともにいる。ワニの体長は5mほどもあり,ここで飼育されているものの中では最大級である。

広げた口は大人の頭がらくらく入ってしまう大きさがある。ワニの口は真っすぐかと思っていたら,かみ合わせの部分には山と谷があり,上あごの山と下あごの谷が合わさるようにできている。あごの両側にはするどい歯がびっしりとならんでおり,そのうち何本かはひときわ大きなものになっている。う〜ん,このあごに噛まれたらひとたまりもないだろう。

もっともワニの歯は,例えばライオンの牙のように獲物を噛み切るようにはなっていない。上下の歯は互い違いに合わさるようになっており,強いあごの力で噛み砕くようになっている。この構造は噛み付いた獲物を逃がさないようにするためにも有効である。

成長したイリエワニの場合,アゴの力は1トンを超えるという。この力と丈夫な歯があれば,獲物を噛み砕いて飲み込むのに適した大きさにすることは容易であろう。

もっともその前に獲物の息の根を止めなければならない。そのためワニは噛み付くと同時に体全体を回転させ,獲物を水の中に引きずり込み窒息死させる。この技は獲物の大きな部位を噛みきちぎるのにも役に立つ。

ワニの噛む力はとても強いが,反対に口を開ける力はさほど強くない。口を押さえつけられると開くことができないので,強力な武器を使用できなくなる。ワニを生け捕りにするときはこの方法を用いる。しかし,体長5mのイリエワニの口をどうやって封じるかは想像できない。

二人のスタッフは交代でワニのあごを持ち上げたり,背中で寝そべるというパフォーマンスを見せてくれた。いくら慣れているからといっても相手は巨大で強力なあごと鋭い歯をもっている。こちらの方がもういいよという気分になる。

飼育場

ここにはたくさんの飼育場がある。ワニの習性から半分は浅いプールで,半分はコンクリートのたたきになっている。ここには1m程度から3mあるいは5mほどにまで成長したワニが飼育されている。一つの飼育場には数匹から十数匹のワニが同居しており,共食いのようなことは起こらないようだ。

爬虫類は変温動物に分類されているが,ワニのような大型のものは「慣性恒温性」をもつため体温変化は少ない。「慣性恒温性」は体温調節能力がなくても(変温動物であっても)体が大きくなると比較的安定した高い体温を保つことができることを意味する。

ただし,イリエワニはその巨大な体格にもかかわらず体温はあまり安定していないとされている。一般的に変温動物は恒温動物に比べて代謝率が低い。つまり,少ないエネルギーで生きていけるということであり,食料の乏しい環境でも生きていけるという利点になっている。

成長したワニがどのくらいの食料を必要としているかはネットを探しても見つからなかった。上野動物園では馬肉,コイ,ラットを週に一回程度与えているとのことだが,一回の量がどの程度かは分からない。

ワニの成長速度は平均して年間10cm程度とされている。当然,若い時点の成長速度は年をとってからのそれよりも大きい。しかし,成長は止まることがなく,長生きした個体は(餌が十分に捕れる環境ならば)どんどん大きくなる。

このワニ園で「TAKO」と名付けられている個体は推定60歳,体長が17フィート(約5m)で,自然界では仲間を4匹も食べてしまったそうだ。そのため独房に入っており,現在は毎日ニワトリを一羽しか食べていないと記載されている。

ピラルクー

施設の入り口近くに大きな水槽があり,二匹のピラルクーが飼育されていた。ピラルクー(アロナワ目・アロワナ科・ヘテロティス亜科)はアマゾン川流域の流れのゆるい水域に生息している。

成魚の最大体長は3mほどであるが,言い伝えでは4mの個体が捕獲されたともいわれている。ピラルクーは1億年前からほとんど変化しておらず,生きた化石,淡水のシーラカンスともいうべき貴重な魚である。

世界最大の淡水魚という形容詞がつくことが多いが,これについてはいくつかの異論がある。世界の淡水域は巨大な魚が生息しており,どれが世界最大であるかはつまらない論争の種になりそうである。それを避けるため,「世界最大級の淡水魚」と形容するのが良さそうだ。

ピラルクーの名前の由来は「赤い魚」である。その名の通り成長した個体は体の後半部分が赤くなる。頭部は上下に平たく,尾部は横方向に平たいという珍しい形をしている。頭部は硬い骨で,胴体は大きな硬いうろこで守られており,成魚には天敵はいない。

最大の天敵は人である。クセの無い白身の肉がおいしいのでアマゾンのタラと呼ばれ高値で取引されている。現地の人々はカヌーを使い,ピラルクーが20分に一回くらいに息継ぎのため(酸素の少ない環境ではえら呼吸と空気呼吸を併用する),水面に顔を出したところを銛で突いて捕獲する。

ピラルクーはアマゾン川流域の人々にとっては貴重なタンパク源であった。1960年代には年間2000トンの水揚げがあったものが,1970年代に入ると300トンを切り,大きな個体も激減している。

ピラルクーは寿命が15-20年,成熟するまで5-6年もかかる。乱獲当時に主として捕獲された物は3-4歳魚で体重が50-60kgのものであった。子孫を残す前の若い固体を乱獲すると次世代の個体は急減する。

先住民はピラルクーを捕獲はするが,産卵から稚魚が巣立つ前の2-3ヶ月間は漁を控えていた。それは,ピラルクーがつがいで協力して稚魚を守っており,近づいてくるカヌーに体当たりして,簡単にひっくり返してしまうという事情にもよる。

ところが,漁船と網による漁は,子育て中の個体をも(この時期がもっとも捕獲しやすいため)見境無く捕獲していた。親がいなくなると稚魚の生存率は低くなる。稚魚が育たず,若い個体が乱獲されたため,個体数が激減するのは当然である。現在ではワシントン条約の保護動物に指定されているが,それでもアマゾン川流域の市場にはピラルクーの肉が売られているという。

サンダカン戦争記念公園

ワニ園から幹線道路をサンダカン市街地に少し戻ったところに戦争記念公園がある。ここは太平洋戦争時に英国とオーストラリア兵士の捕虜収容所があったところである。

太平洋戦争時に日本軍は東南アジアの各地に捕虜収容所を設けており,それらの収容所における平均死亡率は27%となっている。第二次世界大戦においてドイツ軍の捕虜となった米兵の死亡率が1.1%であったことと比較しても,日本軍による捕虜の扱いは相当ひどいものであったと考えられる。

日本軍による戦争捕虜の扱い

捕虜国名 捕虜総数 死亡者数 死亡率
イギリス
オランダ
オーストラリア
米国
50,016
37,000
21,726
21,580
12,433
8,500
7,412
7,107
24.8 %
22.9 %
34.1 %
32.9 %
出所: Horyo Saishu Ronkoku Fuzoku-sho B, Feb.19,1948

日本軍による捕虜の虐待としては泰緬鉄道,バターン死の行進がよく知られているが,サンダカンの捕虜収容所では2500名のうち生還できたのは脱走した6名に過ぎない。

1943年の時点でボルネオ捕虜収容所の分所として設置されたサンダカン捕虜収容所にはオーストラリア兵1800人,イギリス兵700人,合計約2500人が収容されており,飛行場建設に使役させられていた。このため収容所は(おそらく現在の)飛行場に隣接したところにあった。

当初,サンダカン収容所における捕虜の扱いはかなり人道的であった。しかし,捕虜の逃亡および現地協力者とともに連合軍の上陸時に反乱を起こす計画が露見したことにより懲罰的措置がとられるようになった。

戦局の悪化ともに食糧,医薬品が不足するようになり,さらに捕虜虐待,強制労働が加わり,1944年末には1850人に減っていた。連合軍の反撃が激化した1945年1月,日本軍は飛行場の修復を断念し,捕虜を260km離れたラナウ(キナバル山の南にある集落)に移送することを決定した。

比較的健康状態の良い捕虜たちは3つの集団(第一団が470名,第二団が536名,第三団が75名)に分かれ,密林を切り開いたぬかるんだ道を30kgもの荷物を背負って徒歩で移動することになった。

移動時に多くの捕虜が落伍し,動けないと判断されたものは射殺された。ラナウに到着できたものは400名に満たなかった。サンダカンに残された捕虜は餓死もしくは殺害された。

同じようにラナウに到着した捕虜も栄養不良,疾病,強制労働により数を減らし,最後は全員が処分された。生き残ったのは脱走した6人のみであった。

サンダカンからラナウへの捕虜移送は「サンダカン死の行進」とされているが,実際は日本軍によるよる組織的な捕虜の処分であった。オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により,収容所の管理責任をもつ6名の日本軍将校が死刑,銃殺刑に処せられている。

「サンダカン八番娼館」のことを知っている日本人はさほど多くはない。さらに,太平洋戦争中にサンダカンの捕虜収容所で起きた悲劇について知る人はほとんどいないと思う。僕もサンダカンを訪れることがなければこの歴史的事実について知らないままで人生を過ごすことになったことだろう。

日本人はこの地で起きた事件を忘れ去っても,収容所で亡くなった人々の肉親や知人は忘れることがない。国家としても不当に虐殺された自国の将兵について,日本軍の現地指揮官を処刑しただけでよしとすることもなかった。

施設の入り口付近にある案内板には「サバ州政府はこの地,死の行進およびラナウで虐待され亡くなった捕虜,さらに地元民の犠牲を追悼するためにここを記念公園とする」と記されていた。施設内にある追悼パビリオンにはオーストラリア政府発行のパンフレットが無料で配布されている。

施設は飛行場に隣接した森の一部にあり,ワニ園から幹線道路をサンダカン方向に歩いていくと「War Memorial Park」の標識がある。しかし,標識は車のためのもので500mほど先にようやく交差点があった。ここを北に曲がると新興住宅地の中を通る道になり,ようやく施設のゲートを見つけた。

中に入ると小さな公園のようになっており,「Sandakan Memorial Park」の石碑が置かれている。そこにはボルネオの地図とサンダカンからラナウまでの死の行進のルートが図示されており,2500名の捕虜のたどった悲惨な運命について記されている。

小公園の先は池を巡る散策路になっており,この散策路は斜面を上って公園内を一周するようになっている。道の脇には日本軍が遺棄した建設用重機がそれほど錆もせず残っている。この近くにはヘリコニアの植え込みがあり,赤い花序が印象的だった。

周辺はちょっとした森になっており,そこにはかっての収容所に関連する建物があると冊子には記されているが確認はできなかった。丘の上には高さ4mほどもある記念碑がある。

この石碑には「Sandakan Memorial Park」の文字といくつかの植物を組み合わせた絵柄が彫られている。その中にはオーストラリアを象徴するテロペア(ワラタ),イングランドの国花のバラ,マレーシアの国花のハイビスカスが含まれている。

この石碑のデザインは追悼パビリオンでいただいた冊子の表紙になっていた。収容施設(バラック小屋)はオーストラリア兵と英国兵のブロックに分かれており,この記念碑はオーストリア兵の収容施設の近くにある。しかし,往時を偲ぶものは何も残されていない。

散策路の終わり近くのところに追悼パビリオンがある。入り口の上部にはきれいなステンドグラスのある近代的な建物であるが,その内部にはサンダカン収容所,死の行進,ラナウ収容所の様子を写真と文章で説明してあった。

死の行進の途中およびラナウ収容所から脱走して生き延びたオーストラリア兵士の写真も展示されていた。ここに展示されていた収容所の模型と冊子の地図を合わせてみると,収容所にあった「大きな木」はちょうど現在の追悼記念碑のあたりであることが分かる。

模型の写真の上部が英国兵,下がオーストラリア兵の収容施設である。パビリオンの扉には透かし彫りで「LEST WE FORGET(我々が忘れてしまわないように)」と記されていた。

宿と同じ階に小学校があった

06時に起床,安い宿代で気の毒なくらい立派な朝食をいただく。今朝はさらにパイナップル・ジュースが付いている。旅行中には数は少ないものの,とても居心地のよい安宿にめぐり合えることがある。

この宿はおばさんの親切がストレートに伝わってくる。彼女の娘(義理の娘かもしれない)が日本人と結婚しているので特に日本人には親近感があるようだ。この宿に泊まったことで,サンダカンは僕にとってとても思いで深い町となった。

僕の宿泊している時に何人かの客を見かけたが,その宿代だけで生計を立てるのは難しいだろう。おばさんは今日も朝から洗濯に精を出していた。

街の散策に出かけようと集合住宅の下に降りると,2階に子どもたちの姿が見える。下で待っていても降りてくる気配はない。上がってみると学校がある。おやおや,宿と同じ階に学校があるとはちょっとした驚きである。

ここは2区画を使用して午前・午後の二部制で授業が行われている。午前中の人数は50人,全員が集まって朝礼が行われている。女生徒の中には数人がスカーフを被っていないので全ての子どもたちがムスリムの子弟というわけではないようだ。

コーランを斉唱する場面では彼女たちは反応していなかった。「みんなの誓い」と判断した場面では全員が手を上げて口をそろえていた。

宿のおばさんに「同じ階の小学校を見てきました」と報告すると,「あの小学校は公立学校に通えないフィリピン人の子どもたちの私立学校で,政府はまったく関与していない」と説明してくれた。

フィリピンからの新移民の人々は,政府の行政サービスの対象とはならない二級市民的な扱いを受けているようだ。実際,サバ州ではマレーシアに参加してからインドネシアやフィリピンからの人口流入が続き,現在の人口を半数を占めるようになっており,政府としても何らかの対応が必要なのだろう。

こちらは公立学校かな

ラマイ・ラマイ地区から市街地の方向に歩き,コミュニティ・センターの前の歩道橋を渡り,そのまま屋根付きの斜面の歩道を登って行くと「政民学校」と「政民幼稚園」があった。ここは公立学校か私立学校かは分からない。中国系の学校であることだけは確かだ。

入り口には「国家原則」の4か条が漢字で記されていた。おおよその意味は分かるが,いくつかのキーとなる文字は日本では使用されていないものだ。

掲示板もすべて漢字で記されており,中には浦島太郎を思わせるような物語の絵もあった。漢字を追ってみるとさすがに内容は異なっていた。

このくらいの学校になると簡単には中に入るわけにいかない。そのうち先生か職員が通りかかったので一緒に教室を見せてもらう。

窓から日が入る明るく広い教室で子どもたちは授業を受けていた。少し前に見たフィリピン人の子どもたちの学校とは比べようも無い。男女とも洋風化た制服であり,女生徒はスカートである。

マレーシア人口の25%を占める中国系社会では標準中国語(北京語)が共通語となっており,マレーシアの公用語であるマレー語と共通語の英語はいちおう学校の必須科目となっている。

これはなかなか難儀なことだ。それは,インド系やマレー語を母語としないボルネオ島の先住民族についても同じことがいえる。このような事情から,マレーシアではどこでもかなり英語が通じることになる。もっとも新移民の人々についてはこの限りではない。

この敷地内にある「政民幼稚園」は入り口の門が施錠されており,周囲も塀で囲われており,中に入ることも覗くこともできない。園児の安全を考えるとこれが当然の姿である。

聖マリア教会と聖ミカエル教会

学校からもとの屋根付き道に戻りさらに坂を上っていくと高台に二つの教会がある。近くには案内板があり左の敷地にあるものが「聖マリア教会」,右が「聖ミカエル教会」となっていた。

「聖マリア教会」はギリシャ・カトリック,「聖ミカエル教会」は聖公会と記されており,どちらも礼拝は日曜日だけということで開いてはいなかった。

「聖マリア教会」は比較的新しいもので切妻屋根の体育館のようだ。入り口は閉まっていたので窓から覗くと,ギリシャ・カトリックには珍しい質素な聖壇であり,正面の壁には十字架のキリスト像が掲げられていた。マリア像は教会の外にある垂直に削られた岩壁に置かれている。

「聖ミカエル教会」が属する聖公会はローマ・カソリックから(政治的な理由で)分離したイングランド国教会(英国国教会)を母体とするものでアングリカン・コミュニオンとも呼ばれる。

英国教会がカトリックから分離したことにより大陸からプロテスタントが入り,広まっていった。英国はカトリックに近い国教会とプロテスタントが混在することになった。

この教会分裂は英国が支配していたアイルランドが自治権を獲得する過程で深刻な宗教問題を引き起こした。15世紀にカソリックが多数を占めるアイルランドに移民した英国入植者の多くはプロテスタントであった。

英国人入植者が宗教的な少数派になることを恐れ,1920年に英国政府はアイルランドを北と南に分離して自治権を与えた。アイルランド全島からなるアイルランド自由国が成立すると,北アイルランドは自由国から離脱しプロテスタントの国としてイギリス連合王国の構成国の1つとなった。

その結果,北アイルランドではカトリック系住民とプロテスタント系住民の対立が激化し,治安維持のために派遣された英国軍もその中に巻き込まれていく。これが北アイルランド紛争である。

英国国教会から生まれた聖公会は英国が海外に植民地を持つことにより,多くの国や地域に広まっていった。古くは北ボルネオと呼ばれていたサバ州もその一つである。

聖ミカエル教会は1880年に 創建された石造りの建物である。太平洋戦争の末期にサンダカンは連合軍の爆撃により完全に破壊されたが,唯一この建物だけが破壊を免れた。十字架プランの建物は鐘楼をもたないので,屋根に掲げられた小さな十字架がなければ,コロニアル風の邸宅にも見える。

この教会の敷地には「St. Michael Secondary School」がある。鉄筋コンクリートの新しい建物である。英国統治時代を経験しているマレーシアでは教育システムは英国に類似している。

「Secondary School」は中学と高校の一部が一緒になったようなもので7-11年生が在籍している。7年生とは小学校の6年生に続く学年ということになる。入り口には守衛所があるので,守衛のおじさんに断って一枚撮らせてもらった。

三聖宮

聖ミカエル教会の周辺には聖マリア教会付属の学校もあり,キリスト教系の学校が集まる一画となっている。聖マリア教会付属学校の横の階段を降りると三聖宮に通じる道路に出る。三聖宮のあたりはまだ斜面になっており,サンダカンでは海岸近くの平地は本当に狭い。

三聖宮はサンダカンで最古の道教寺院である。1880年代に小さなお堂が建てられ,現在の建物はその後に増築されたものだ。道路から階段を上ったところにある三聖宮は森を背後にした静かな寺のイメージであるが,すぐ右側にはコンクリートの建物が隣接している。

平地の少ないサンダカンでは寺院といえども広い土地を確保するのは難しいようだ。道教は中国三大宗教(儒教,仏教,道教)の一つであり,古来から広く中国の民衆に信仰されてきた。しかし,その宗教的な教義はどのような文献を読んでも理解・納得できるものはない。

道教は中国古来の巫術および鬼道,不老長生を求める神仙思想を基盤としている(wikipedia)。道教はその基盤の上に儒教や仏教の教義の一部を取り入れた複合的な宗教となっており,道教の寺院には古代の神仙や聖人に混じって観音菩薩や釈迦牟尼仏が祀られている。

西遊記に出てくる「孫悟空」も「斉天大聖」の称号を贈られ,道教寺院の壁画にもときどき描かれている。コミックスの「西遊妖猿伝(諸星大二郎)」は悟空と斉天大聖の関係を軸に,隋・唐時代の戦乱や民衆の様子がよく描かれている。

道教は中国古来の巫術および鬼道を基盤としているため,文化革命時には迷信の巣窟として壊滅的な打撃を受けている。しかし,華僑の居住する東南アジアでは広く信仰されており,これらの地域では中国寺院=道教寺院の関係にある。

三聖宮には「正義の聖人」,「海の守り神」,「学問の神」が祀られており,そのため三聖宮となったと推測する。もっとも祭壇を見せていただいても祀られている像がたくさんあり,誰が誰やらさっぱり分からない。さほど広くない室内には線香の煙が充満し,暗さも手伝って写真写りはいまいちである。

お参りする人たちは日本と同じ棒状の線香を使用するが,お堂の内部には釣鐘型の渦巻き線香がくすぶっている。渦巻き形の蚊取り線香を立体的にしたもので,燃え尽きるまでには半日くらいはかかりそうだ。

向って左側の建物にはぼう大な数の位牌が並んでおり,その一つ一つに故人の名前が記されている。墓地と位牌の文化は中国人社会に広く浸透している。

敷地内にはプルメリアの木があり,階段の上からはちょうど近くで花が見られる。いつも高いところにある花を下から見上げる写真になることが多いけれど,今日は上からきれいに撮ることができた。白い花弁の根元の部分が黄色になっており,とても艶かしい。

殉難華僑記念碑と中国人墓地

三聖宮から裁判所の横の石段を登り,先に進むと小さな通りに出る。おそらくこれがイスタナ通りであろう。イスタナ通りを東に行くといくつかの政府系の建物があり,それを過ぎると周辺は急に寂しいところに変わる。

この道は尾根に沿っており,周辺の樹木が途切れるとスールー海が眺望できるはずだ,右手に海を背にして「1945年5月27日殉難華僑記念碑」がある。記念碑のとなりにある碑文には1945年5月27日に日本軍に惨殺された華僑のリーダーの追悼のための記念碑であると記され,その下には20数名の名前が列記されていた。

石碑の背後は生い茂る樹木に遮られているが,少し横からはスールー海を見ることができる。あいにく低い雨雲が垂れ込めており,南国の明るい海のイメージからはほど遠い。

記念碑から少し歩くと左側に中国人墓地が広がっている。一つの丘の斜面全体が墓地となっており,さらにイスタナ通りからは見えない丘の北側にも墓地は続いている。ざっと5haほどの広さである。

道路からは丘の尾根筋に連絡用の道があり,お葬式かお参りを終えた白い服の一段がこちらに向って歩いてくる。この墓地に対する中国人の執念には頭が下がる思いだ。

道路の横には中国語とマレー語の警告看板があり,そこには「この墓地は湖州人のためのものである。非湖州人が利用した場合は法律により罰せられる」と記してあった。中国人は地縁,血縁を重視するとは聞いていたが,このくらい狭い地縁に限定するとは驚きである。

同じ湖州人でも道教とキリスト教では墓地を分けなければならないのか,道路わきにはいくつかの十字架が立っていた。イスタナ通りは中国人墓地に通じる道のところで終わりになり,車返しのため小さな広場がある。その先は日本人墓地に通じる細い道が連なっている。

日本人墓地とからゆきさん

20世紀の初頭から太平洋戦争開始までの40年間に多くの日本人が東南アジアに移住している。英領ボルネオへの移住者数は2700人程度と見積もられている。

この中には新天地で新しい事業を興した人もいれば,水稲生産の入植に応募した人もいる。さらに多数の「からゆきさん」も含まれていた。「からゆきさん」が生まれた背景には,太平洋戦争の終わりまで封建的公娼制度を残した日本の社会事情によるところが大きい。

前渡し金と引き換えに女性を遊郭に拘束するという江戸時代から続く人身売買と同様の制度は,明治時代にも廃止されることなく,その供給システムを海外にも拡大することになった。

彼女たちは家庭の経済的事情により,遠く離れた東南アジアに出稼ぎに来るようになった。過酷な労働の中から彼女たちは実家の両親や兄弟姉妹のもとに送金している。

東南アジア全体では約5000人が「からゆきさん」として海を渡った。望郷の念に苛まれながらも,異境の地で命を落とした人も多数いたであろう。しかし,彼女たちにとって最大の不幸は当時の日本政府が国家の恥として無視あるいは棄民の扱いをしていることだ。

そのような体質は太平洋戦争中に日本軍が犯した数々の蛮行(その中には朝鮮人婦女子の慰安婦問題なども含まれる)を歴史的な事実として認めることを自虐的史観とする考え方につながっている。

サンダカンにおける「からゆきさん」の境遇がどのようなものであったかについては,サンダカン八番娼館(山崎朋子作)に詳しく述べられている。著者は戦後にサンダカンから日本に送還された天草出身のサキから聞き取りを行い,貧困と時代に翻弄された女性の姿を描いている。

日本人墓地に向う道はかなり寂しい。先の方に「日本人墓地」と記されたゲートがあり,そこをくぐって坂道を登ると墓地に出る。墓地は斜面に平行に4段か5段になっており,藪や草はきれいに刈り込まれていた。

最上段の列でもっとも背の高いものには「無縁法界之霊」と彫り込まれている。長い年月が経過すると墨の色も褪せるものであるが,草刈と同様に手入れが行われているのか,文字は黒々としている。この供養塔は木下クニさんが「からゆきさん」としてこの地で没した女性のために建てたものである。

斜面の上はわずかな平の土地となっており,そこからはサンダカンの街とスールー海を眺めることができる。海は日本につながっており,ここで亡くなった人々の祖国に対する望郷の念が凝縮されているように感じる。

帰り道で赤いハイビスカスの咲いている小藪があった。熱帯のボルネオではどこにでもある珍しくもない花であるが,墓地を見てきたせいか,鮮やかな赤が生を満喫している色に思えて一枚撮ることになった。

結婚式

街に戻り食堂で昼食をいただく。カツオと野菜の煮物は期待通りの味であった。インドネシアからフィリピンにかけての島嶼部の料理の中で魚のスープや煮物はかなり共通的な味付けとなっており,ほとんど外れたことはなかった。

サンダカンの食事は中華とローカル・フード,ときにはハンバーガーと多様で,値段も90-150円とありがたいものであった。宿に戻る途中,コミュニティ・センターからにぎやかな音楽が聞こえてくるので立ち寄ってみた。

結婚披露宴が行われている。中央にレースをふんだんに使用したひな壇が設けられ,新郎新婦がにこやかに坐っていた。広い室内には丸テーブルとイスが並べられ,来賓の人たちは食事を楽しんでいた。

新郎新婦の服装はマレー風である。来賓の女性の多くはスカーフを着用している。なんとなくイスラム・コミュニティの結婚式のようだが,男女が同席しており,少し違和感が感じられた。

一般的にイスラム社会では(家族・親族を除き)女性は男性のいる場所には顔を出さない。結婚式も男女別に部屋を分けて行うのが通例である。ここでは広い室内に全員が顔をそろえており,西アジアのイスラム社会との違いがはっきりと出ている。

来賓の人たちはテーブルに坐って「食事をしていきなさい」と誘ってくれたが,少し前に昼食をいただいてしまったので,飲み物だけをいただくことにする。

レイラ通りを西に歩く

宿からレイラ通りを西に歩いてみる。このあたりも平地は狭く,道路近くまで斜面が迫っている。海側もさほど平地は無く,住民の多くは水上集落に居住している。ところどころに集落に通じる木道があり,その中の一つを歩いてみる。

少し潮が満ちてきた干潟で子どもたちが小さな網を使って魚すくいをしている。このあたりはわずかばかりのマングローブが生えた干潟の空間になっており,水上集落はもう少し先にある。

子どもたちにカメラを向けると笑顔とピースサインで応えてくれた。服装もこざっぱりとしており,経済的にはラマ・イラマイ地区の東側より恵まれているようだ。

車がすれちがえるくらい幅が広い木道もあった。その先には水上集落はないので桟橋のような役割を果たしているのかもしれない。近所の人たちが水遊びに来ている。水深は60cmほどで小学生の腰あたりである。午後の暑さをしのぐにはかっこうの遊び場である。

木道から西側を見るとゆるやかな弧を描く湾のような地形の向こうに先日訪問した港湾施設が見える。ずいぶん近くに見えるが,道路では6kmほどある。

小さな水上集落がいくつかある

レイラ通りに戻り,さらに西に歩くと小さな水上集落がいくつかあり,写真写りの良いものを撮る。道路に面して二階建てのロングハウスがある。といっても,内陸部のダヤクの人々のようなロングハウスではない。漢字の看板が出ているので中国系住民の家であろう。

サンダカンではあまり見かけなかったが,中国系住民の多いところでは一階が商店,二階が居住区という連なった家が多い。ここのものはその木造版である。

子どもたちはゴム飛びに興じている

その先は埋め立てがあったのかコンクリートの護岸になっている。普通の陸上家屋が立ち並び,子どもたちは道路でゴム飛びに興じている。夕方の時間帯なので動いている子どもたちの写真はちょっと難しい。

集合写真になるとみんなすまし顔になってしまう。護岸には何隻もの漁船が係留されている。おそらく,この子どもたちの家族はその船に乗り込んでいるのだろう。


サンダカン 1   亜細亜の街角   スールー海の船旅