亜細亜の街角
インドネシアと接する国境の町
Home 亜細亜の街角 | Tawau / Malaysia / Feb 2009

タワウ  (地域地図を開く)

ボルネオ島はインドネシア,マレーシア,ブルネイの三カ国により領有されている。島の中央部をゆるやかな弧を描いて走る中央山脈が東西の分水嶺となっており,それがインドネシアとマレーシアの国境となっている。この国境線は英国とオランダがボルネオ島を植民地化したときの名残である。国境を越えたからといって民族や文化が異なるわけではない。

マレーシアは英国の統治下にあったマレー人が多数を占める地域の連邦国家として成立した経緯がある。1957年に現在の半島マレーシアが「マラヤ連邦」として独立し,1963年にシンガポール,北ボルネオ,サラワクが加わりマレーシアが成立した。

ただし,シンガポールは1965年に連邦から離脱して独立している。このような経緯からボルネオ島にあるサバ州,サラワク州は自治意識が強い。特にサラワク州は同じマレーシアの半島部やサバ州から入国するときにもパスポートを提示し,入国審査を受け,入国スタンプをもらわなければならない。

もちろん,出発地では出国スタンプは押されないので,マレーシアとサラワクという二つの入国スタンプが並ぶことになる。不思議なことにサラワクから半島部に国内線で移動するときにはサラワクの出国スタンプは押されない。そのため入国と出国のスタンプの数が合わなくなる。

タワウはインドネシアとの国境から10km足らずのところにあり,対岸の島を二分するように国境線が引かれている。通常,このような地形のところに国境線を引く場合は水路のように分かりやすいものを選ぶものであるが,ここでは緯度線に平行に国境線が引かれている。

タワウは戦前から日本とも深いつながりのあるところで,日本企業の農園ではマニラ麻やゴムが栽培されていた。そのため,日本人墓地も近くにある。現在のタワウの人口は37万人,サバ州で三番目に大きな都市になっている。インドネシアからの移民が多いせいか,タワウからはインドネシアのヌヌカン(国境の町)やタラカンに高速船が運航されている。

また,サバ州の東海岸には「海のジプシー」とも呼ばれている,漂海民バジャウの人々が定住している水上集落も多い。しかし,開発によりこのような水上集落は次々と取り壊されており,水上集落が見られなくなるのもそう遠くはないだろう。

タワウの近郊にはタワウヒル公園がある。2.8万haの広大な土地にフタバガキ科を中心とする原生林が広がっているということである。この情報を帰国後に見つけ,残念なことをしたと思っている。

タラカン→タワウ 移動

05時に起床,ほとんどすることがないのでベッドの上でマレーシアのガイドブックを読むことにする。某国民的ガイドブックのマレーシア編(2001-2002版)はずいぶん見づらい。この編集者は旅行者の読みやすさをほとんど念頭においていないようだ。

カラーページが多くきれいなのだが,読んでいると疲れる。地域ガイドの最初にあるイラスト地図ページのイラストは地図をジャマしているだけである。広域の交通地図は役に立つので,ちゃんとした地図と交通地図を入れてもらえるとそれで十分だ。ついでに,地図に情報の掲載ページを入れてもらえるとありがたい。

町の地図は大きさに合わせて情報を取捨選択すべきであろう。最初の訪問地のタワウなどは小さな地図にあらゆる建物を詰め込み,しかも多色版なので非常に分かりづらい。総じてガイドブックとというよりは雑誌に近い感覚で編集されたようだ。

経済発展の著しいマレーシアであるが,物価はそれほど高くないので旅行費用はホテルしだいといったところだ。安宿さえ見つかればインドネシアとそれほど差はない。とりあえず,タワウには安宿はあるようだ。

宿の前からアンコタ(乗り合いワゴン)に乗って中心部の交差点から5kmほど南にある船着場に向う。今にも雨が降り出しそうな空模様である。雨の中を300-400mほどもある長い突堤を歩くのはかんべんしてほしい。

港のゲートに詰めている守衛は僕を覚えており,笑顔で迎えてくれた。ゲートのすぐ先にタワウ行き高速船のチケット売り場がある。窓口には先客がおり,その人にならってパスポートを窓口に出すと,3分ほど経ってから船のチケットとマレーシアの入国カードが挟まれて戻ってくる。

料金は30万ルピア(3000円),これは高い。バリッパパン→タラカンの航空券が32万ルピアなので,距離に換算すると5倍くらいに相当する。タワウ行きの高速船は週3便,火・木・土に運航されている。タワウからタラカンも週3便なのだろう。

チケット窓口の横はイミグレーションに通じており,09時から出国手続きが始まる。パスポートに押された出国スタンプを確認し,長い突堤を歩いて船着場に向う。

一昨日見かけた黄色の高速船の外側にもう一隻が加わっており,それがタワウ行きの船である。船着場からは2隻の船を渡って行くことになる。船と船の間隔は40cmほど離れており,荷物をかついだまま渡るのはちょっとドキドキものである。

船はマレーシアでよくみかける細長い高速船である。座席の配列は航空機と類似しており,一列7人X19列=120人乗りである。今日の乗客は40人ほどだ。出発は10:30,到着は15時なので4.5時間の船旅である。

船はタラカン島の西側から南端を回り込み島の東側を北上する。速度は時速60kmくらいであるが,細長いタラカン島の北端まではかなりの時間を要した。船室内は冷房が効き過ぎているうえに,窓にシールが貼ってあるため写真は撮れない。

船室の上部に屋根の付いたデッキがあるので,そこで風景を眺め写真を撮る。東側から見るタラカン島は多少の起伏はあるものの,ほとんど平坦といってよい。青みががかった薄い灰色の島と航路の間に木製のやぐらが林立している。中には航路からすぐ近くに立っているものがあり,竹を組み合わせたやぐらの上には小さな小屋が置かれていた。

おそらく漁師のための設備であろうと推測される。それにしても島からかなり離れているのに,やぐらを立てることができるとはずいぶん遠浅の海のようだ。このやぐらはタワウの少し手前まで続いていた。

タワウはボルネオ島と小さな島に挟まれた湾のような海域にあり,船は左に島を右に山の連なりを見ながら港に到着する。緑色のドームをもつモスクと整然とした印象の建物とあいまって,インドネシアからマレーシアに入ったんだなと実感させる。

Hotel Soon Yee(順意酒店)

他の乗客についてイミグレーションを済ませ街に出る。マレーシアの通貨リンギットは持ち合わせていないので宿と銀行が急務である。15時を回っているので急いで用事を済ませなければならない。

事前にチェックしておいた「Hotel Soon Yee」はすぐに見つかった。近くにモスクがあり,これがよいランドマークとなってくれた。安宿といっても建物はしっかりしているし,二階に上がるところの階段の踊り場には「No prosititution (売春禁止)」という張り紙がでていた。

中国系の旅社にはつれこみ宿となっているところも多い中で,この宿はまっとうな経営をしている。部屋は8畳,ダブルベッド,トイレ・シャワーは共同,洗面台は部屋に付いており,全般的にとても清潔である。料金は25Rm(リンギット),これは750円くらいに相当する。

部屋には机とイスが置かれており,これは毎日の日記を書くのにとてもありがたかった。しかし,こんなふうに,手書きの日記を書くのも今回限りであろう。次回の旅行からはネットPCを持参し,日記と写真の整理をすることになるだろう。

HSBC(香港上海銀行)

シャワーも浴びずに銀行に行くことにする。宿の東側にはATMを備えた銀行がたくさんある。3つの銀行でクレジット・カードのキャッシングを試したが受け付けてはくれない。4つめのHSBCでようやく1000Rmを引き出すことができた。ATMの操作ガイダンスは英語を選択することができる。

HSBCは東南アジアに支店網の多い銀行で今回の旅行ではマレーシアとブルネイで4回のキャッシュ・アドバンスでお世話になった。海外旅行の費用をどのような形で持っていくかは訪問国の事情に合わせる必要がある。

インドネシアのジャカルタやバリでは日本円の両替レートが良いので,日本円の現金を持っていくのがもっとも得である。マレーシアは日本円の両替手数料が高いし,ドルのT/Cを扱う銀行も少ないので,ドルの現金かクレジットカードのキャッシングが便利である。

ただし,ドルキャッシュの場合,日本でドルを買う時に2%程度の手数料がかかり,さらに銀地通貨に両替する時も1%程度の手数料がかかる。シティ・バンクのクレジットカードでキャッシングした場合,毎月の15日に債務が確定し,翌月の8日が決済日となる。最短で23日,最長では53日間の利息を支払うことになり,それはおよそ1.2%-2.5%程度となる。

自分の口座内での両替手数料1%を加算すると実質は2.2%-3.5%になるが,円が高いときにまとめてドルに両替してドル口座に預けておくことができるので,もっとも有利である。フィリピンは円の現金とドルのT/Cが適正な両替レートで使用することができる。多くの場合,現金は有利であるが盗難や紛失という危険性が高いので,現金に頼り切るのはリスクが高すぎる。

今回および中央・西アジアの旅行ではドル建てでもT/Cは使い勝手が非常に悪かった。クレジットカードのキャッシングが普及しているので,T/Cはもう役目を終えたような気がする。

国際キャッシュカードは手数料が3%程度かかるので,これもクレジットカードのキャッシングに比べて有利とはいえない。個人的には今後の旅行費用はクレジットカードでまかない,ドルの現金を補完的に使用するスタイルになるだろう。

常設屋台

タワウの街は東西方向と南北方向の道路で整然と区画されているので歩きやすい。中国系が多いため家屋は中国式商店(一階が商店で二階が居住区)のスタイルが多い。屋根の上には大きな貯水タンクをもつものもあり,水道が不安定なのかなと思わせるような光景である。

目に入った食堂に入り,値段表を確認する。ミーゴレン(ヤキソバ)が5Rm(150円)とけっこう高い。ナシゴレン(チャーハン),ナシアヤム(チキンごはん)なども4.5Rmと半島部に比して30%ほど高い。

南に向かうとじきに海に出る。海岸近くには大きな道路があり,交通量が多いので,ここを横断するのはちょっとした冒険となる。道路と防波堤の間は狭いながらも公園となっており,市民の憩いの場となっている。

このあたりの海岸線はほとんど直線であり,おそらく埋め立てにより造成されたものであろう。海上には多くの漁船が停泊している。少し西側に大きな魚市場があり,そこに水揚げを終えたものが,次の漁の準備をしているのであろう。魚市場の裏手には船着場があるが,これだけの数の漁船を係留するわけにはいかない。

海岸は南に面しているのであと1時間ほどで夕日が期待できる。その時間を使って夕食をとることにする。海岸通りの陸側は細長い常設屋台街となっており,巨大なビーチパラソル様の傘がすき間なく立てられており,その下にテーブルとイスが並べられている。

近くの屋台で注文し,このテーブルでいただくというシステムになっている。今日の夕食はナシゴレンにスープが付いて3.5Rm,これはおいしかった。住民に中国系が多いこと,それに屋台の数がとても多いのでまずい屋台は速やかに淘汰されるのであろう。この時間帯は冷たい飲み物を楽しむ家族連れの客が多く,テーブルの7割くらいは埋まっている。

屋台が東側で途切れると広場になっており,高さ50cmほどのテーブルを並べた野菜や果物の屋台がある。販売されている野菜は日本でも見かけるものが多い。その中で黄色に色付き始めたバナナがなんだか艶かしく感じられた。

夕日見物

タワウでは18時過ぎに夕日の時間帯となる。埠頭につながる突堤の向こうに太陽は沈みかけている。ボルネオ島東側の海岸線はほぼ南北方向であるが,タワウの西側は小さな湾のような構造になっており,そこに注ぐカラバカン川が大小の島を造り出している。

この地形のおかげで遠くの島々の背後に沈む夕日を見ることができる。しかし,雲行きが怪しくなってきた。夕日の写真をそこそこに宿に戻ろうとしたが,雨に追いつかれた。近くの雑貨屋の軒先で1時間あまり雨宿りをすることになった。雨は断続的に21時頃まで降り続いた。

中国系の食堂

昨日は冷たい飲み物の誘惑に負けて屋台の氷入りの水を飲んでしまった。幸い腹具合には異常はない。まあ,マレーシアくらいの衛生状態なら,たいがいの場合は問題ないということだ。

とはいうものの,腹をこわしただけでも旅行の大きな支障になる。できるだけ,生水は飲まないに越したことはない。僕はインド,パキスタンでよくひどい下痢になることがある。感染によるものではなく,単に食べ物の油が強すぎるというように,現地食と体の不整合が原因である。

こんなときは無理に下痢を止めるのではなく,整腸に良いものを食べて静養するのがよい。このような下痢から回復すると体が現地食に適応できるようになり,その後は腹具合で苦労することは少なくなる。長期旅行に対する一種の通過儀礼のようなものだと理解している。

下痢と一緒に発熱あるいは強い腹痛が出る場合は感染症の可能性があるので医者に行く方がよい。多くの場合,抗生物質が投与され,点滴により下痢で失われた水分の補給が図られる。

今朝は07時前に朝食に出かける。中国系の人々が集まっている食堂がこの時間にもう開いている。丸いテーブルの周囲にプラスチック製のイスを4脚並べたセットがかなり高密度で配置されている。壁に取り付けられているメニューは中国語とマレー語が併記されている。

マレーシアではマレー,中国,インドの料理を楽しむことができるので食事には苦労しない。日本人にはやはり中国料理がいちばんなじみ易い。今日の朝食のメニューは点心とマントウである。

大きな蒸篭の中で各種の点心が蒸されており,ちょうど何種類かが取り出されるところであった。メニューからある程度判断することもできるが,やはり現物を指で指し示す方法が手っ取り早く,まちがいもない。

点心を2皿,マントウ(肉まん)1個,中国茶を並べて飲茶の気分である。久しぶりの中華はとても満足する味だった。東南アジアには広く中国系の社会があり,どこでも水準以上の中華料理を味わうことができる。もっとも,一人旅の僕は旅行仲間と出会うことがない限り,単品しか注文できない。

朝食代は5.8Rm(170円)と僕の食事代としては高い部類に入る。もしかしたら,お茶代も含まれているのかもしれない。ともあれ,久しぶりの飲茶は大満足であった。

小学校がこんなところに

二つの細長い建物が並ぶ商業施設がある。間の通路部分は屋根が取り付けてあり,アーケードのようになっている。子どもたちがそこの階段を上がっていくので一緒に上ってみた。商業施設の二階に学校がある。これだけ広い土地のあるところでどうして窮屈な場所に小学校や中学校を詰め込まないといけないのかかなり疑問に思う。ここは教室がいくつかあるだけだで校庭に相当するものはない。

授業開始時間になっているのか,子どもたちは教室で着席している。僕は教室の入り口から何枚かの写真を撮らせてもらう。ほとんどの女子はゆったりとしたマレー風の上着と白い大きなスカーフを着用している。インドネシア人が多い土地柄ということもあり,教室の風景はインドネシアのそれと大差ない。

魚市場

タワウは漁業が盛んだ。大きな魚市場があり,その背後には漁船が水揚げをする船着場が控えている。市場の中はコンクリート床になっており,テーブルの上には多くの種類の魚介類が並んでいる。

大きな巻貝

殻の大きさが20cmほどもある大きな巻貝が無造作にころがされている。貝殻はほとんど巻いておらず,少し縦長の半円形の片側が少し内側に巻き込んだような形をしている。

日本の巻貝の代表ともいえるサザエは蓋が付いているので,あまり気持ちの良いものとはいえない本体は見えないようになっている。ここのものは貝の本体がそのままむき出しになっており,かなりグロテスクな姿をさらしている。

シュモクザメ

まだヒレの付いたままのサメ(下から三匹目)も並べられている。1匹は特徴のある頭部からシュモクザメ(メジロザメ目・シュモクザメ科)の仲間であろう。頭部が左右に張り出しており,その先端に目と鼻孔がある。目と鼻が左右に離れているため,視覚や嗅覚により獲物の方向や距離をより正確に把握できると考えられている。

この特異なT字形の頭部形状は和楽器の鐘や鉦を打ち鳴らす撞木(しゅもく)に似ているため,シュモクザメとなっている。英語ではこの頭部をカナヅチに見立ててハンマーヘッド・シャークと呼ばれている。

サメやエイの仲間は軟骨魚類に分類されており,骨格が軟骨で形成されている。この分類群は約4億年前の古生代デボン紀に出現したとされている。現在の魚類の大半は硬骨魚類に属しており,カルシウムを主成分とする硬い骨をもつように進化したにもかかわらず,軟骨魚類は初期の魚類の形質を残したまま4億年を生き抜いてきた。

軟骨は多くの糖鎖が結合した糖タンパク質の一種であり,ほとんどの脊椎動物がもっている。硬い骨では難しい部位の構造を保つ結合組織となっており,弾力性があるので関節の表面,椎間板など重要な役割を担っている。

この市場のサメはまだヒレが付いたままの状態である。乾燥させたサメのヒレは中華料理の高級食材として珍重されており,ヒレだけを切り取る乱暴な漁業も行われている。サメやエイの仲間は生理的な必要性から体内に尿素を蓄積している。そのため,捕獲後は尿素がアンモニアに変わるため,魚食文化が盛んな日本でも魚肉練り製品に加工される以外は食用としては敬遠されてきた。しかし,ここではちゃんと食用となっているようだ。

トビエイの眷族

市場には薄茶色の肌に青い水玉を散らしたエイも置かれていた。形状がひし形なのでトビエイ(トビエイ目・トビエイ科)の仲間だと推測した。エイの中には尻尾の先端に毒針をもつものがあるせいか,あるいは商品としてはじゃまなせいか尻尾は根本から切り取られており,白っぽい肉が覗いている。

エイはサメから進化して海底の暮らしに適応した種であるが,トビエイの仲間は水中を泳ぐ生活に戻っている。体の両側にあるヒレを羽のように動かして泳ぐ姿は優美である。トビエイは泳ぐ姿から英語では「Eagle ray」とされている。トビエイの中でマダラトビエイは茶色の地肌に白い水玉があるので「White-spoted eagle ray」というらしい。この市場のものはさしずめ「Blue-spoted eagle ray」ということになりそうだ。

ハリセンボン

商品台の上にたくさんのハリセンボン(フグ目・ハリセンボン科・ハリセンボン属)が並べられている。ヤマアラシのように体中に鋭いトゲを生やしているので一度見たら忘れることはない。身の危険を感じるとフグと同じように体を膨らませ,針を立てることができる。体はトゲだらけで危険な感じを受けるが,ちょっと突き出た口と青い目はなかなか愛嬌がある。

世界の熱帯から温帯の海に生息しており,日本でも食用にされる。しかし,この魚の調理は大変らしい。トゲに注意しながら皮を剥ぐことになるらしいが,食用になる部分はごく少ないという。面倒くさがりのマレーシア人やインドネシア人が果たしてこの魚をちゃんと食料にできるかは,はなはだ疑問だ。

シイラ

大型魚の中でシイラ(スズキ亜目・シイラ科・シイラ属)を見つけた。全世界の暖かい海に分布する大型肉食魚である。この市場のものは体長が1mを超えており,大きなものは2mにもなる。暖流に乗って北上するため,日本近海でも捕獲される。マンビキ(宮城,九州),マンサク(中国地方)など地域により多くの呼び名がある。

肉質について評価が低いため関東ではほとんど流通しておらず,僕も今まで食べたことはない。ところがハワイや台湾では高級魚として扱われる。台湾の東側に位置する蘭嶼島の先住民族であるヤミ族の漁師はアラヨ(シイラ)を神の魚として敬い,チヌリクランと呼ばれる装飾された小舟に乗り込み,黒潮に乗ってやってくるシイラ釣りに命がけで挑む。僕の記憶に残る映像はもう20年以上も前に放送されたものだ。

オニカマス

体長1mを超える細長い魚もある。鋭い歯をもっており,その大きさからオニカマス(スズキ目・ボラ亜目・カマス科・カマス属)と判定した。英語名はバラクーダ,世界中の暖かい海域に生息しており,大きなものは2mにも達する。

食用として漁獲されるが地域によってはシガテラ毒を持つので注意が必要である。この毒素はオニカマスが産生するものではなく,熱帯地域に生息するプランクトンが産生する毒素を食物連鎖を通じてオニカマスが体内に蓄積したものである。

このように生体濃縮により毒素を体内に蓄積する魚の代表がフグである。経口摂取では青酸カリの850倍の毒性を持つフグ毒のテトロドトキシンは細菌が産生したものを,食物を通してフグが体内に蓄積したものである。

フグ自身はこの毒に対して高い耐性をもっているので中毒は起こさない。中毒を起こさないまでもなぜ排出しないで体内に蓄積するのかは長い間謎であった。最近の研究でフグは毒素を利用して捕食者から身を守ることが分かってきた。フグは大型魚が近よってくるとフグ毒を放出し,大型魚はそれを感知してフグを避けると考えられる。

コミックスの国立博物館物語(岡崎二郎)にフグ毒の仕組みを逆手にとった短編が掲載されている。第2巻にある「フグの毒」である。フグの毒は主として内臓(卵巣,肝臓などに特に多い)に蓄積されているので,危険部位を免許をもった調理人が除去することにより食べることができるようになる。

しかし,毒素を産生する細菌から隔離された場所で飼育したものはフグ毒をもつことはない。この特殊環境で飼育したフグを,博物館の研究員の前で堂々と食べて,みんなを驚かすという話である。

実際,2005年には養殖業者がフグ毒の発生しない養殖法を開発し,フグの肝を食用として提供出来るよう特許申請をしたが,現時点では100%の安全性が保証が出来ないと判断され却下されている。

この他にも市場にはギンカガミ,カツオ,サヨリ,オニカマスなどなんとか僕にも名前の手がかりがつかめる魚が並んでいる。値段は魚種によりそれほど差異はなく,1kgで2-5リンギット(60-150円)というところだ。ただし,カマスの仲間だけは12リンギットと突出して高い値札が付いていた。

魚の水揚げ

魚市場の裏手(海側)には桟橋があり,10数隻の漁船が係留されている。すぐ近くにはタラカンと結ぶ高速船が係留されている桟橋もある。漁船の桟橋では出漁の準備をするものと,魚を水揚げするものがあり,周辺を含めてずいぶん混雑している。

漁船の甲板の一部がいくつかに仕切られた魚の貯蔵室になっており,そこから魚を取り出す作業が行われている。貯蔵室は魚の種類ごとに分かれており,氷と一緒に保存されている。当然,貯蔵室は発泡スチロールなどの材料で断熱されている。

大きな柄の付いた網で魚をすくい上げ甲板の容器に移し替える。網の下はロープで閉じられており,それを緩めると開くようになっている。柄を操作する人,ロープを操作する人,網から容器に移し替える人と4人一組で作業が進められる。

貯蔵室の中を覗いてみると網ですくうためにかなりの量の海水が入れられている。子どもたちはこの作業中にこぼれ落ちた魚を拾い集めている。

新しいタイプの貯蔵室は仕切りを減らし,面積を2倍程度に広くしている。これなら,貯蔵室に人が入れるので作業はずっと容易になる。出漁の準備をしている船では中年の男性が黙々と網の補修をしている。

バナナを運ぶ

魚市場の近くには野菜,果物のなどの生鮮食品の市場もあり,そこに持ち込むためなのだろう,マレーシアの民族服(同じ布地で縫製されたゆったりしたズボンと膝までの長い上着の組み合わせ)を着たおばさんたちが,小船にバナナを満載して突堤に横付けしている。

おそらく,タワウの南にある島々からやってきたものであろう。マレーシアといえどもボルネオ島ではまだ道路が整備されていないところもあり,それを水上交通が補完している。

製氷工場

魚市場の裏手には製氷工場もある。桟橋に停泊している大きさの漁船では冷凍設備はとても期待できない。魚の鮮度を保つためには出港時に氷を積み込み,それが溶ける前に戻ってこなければならない。

製氷工場では高さ150cm,幅50cm,奥行き30cmほどのブリキ製の缶で氷が作られている。工場の床下全体が製氷室になっており,できた氷は床板をずらしてクレーンで持ち上げられる。

ここには氷室があり,出来上がった氷のブロックはそこに運び込まれる。出荷される氷は機械で砕かれ,袋に詰められる。それを,漁業関係者が頭に乗せて運んでいる。氷は市場で一時的に保存するためにも必要である。

氷を作るためには製氷設備と電気代が必要である。日本の製氷機メーカーのカタログでは日産30トンクラスのもののランニングコストは800円/トンとされている。

マレーシアの電力料金は(家庭用の場合)日本の1/3程度である。業務用大口需要家の料金比較はできないが,およそ400円/トンあたりと推測できる。市場で使用するにしても,漁船に積み込むにしてもそれなりのコストがかかることになる。

今日は陽射しが強く,このような環境での氷作りはかなりコストがかさみそうだ。外に出ているとそれだけで疲労が蓄積されるような気がする。10時前なのに一度宿に戻り水浴びをして,小休止する。

インターネット事情

場所はよく覚えていないが,タワウのの街には日本語環境のあるネット屋があった。メールの送受信,朝日新聞のニュースサイトを快適に利用することができた。料金は1.5時間で4.5リンギットと妥当なものだ。

宿のすぐ近くのモスクの東側にある商店街で床屋を見つけた。中国系の客が多いのか,看板は中国語とインドネシア語の両方で記載されており,店の名前は「理成冷気理髪室」となっている。だいぶ髪も伸びてきたのでお世話になる。散髪のみでシャンプーも顔そりもなしでやってもらうと3.5リンギットである。電動バリカンでざっと切り,あとはハサミで形を整えてくれた。

大きなモスク

海岸通りをずっと東に行くと新しいモスクがある。タワウに到着したとき船から見ることのできた大きなモスクである。白いほぼ方形の建物の上に四角垂の上部を切り取ったような構造を造り,その上に緑色の巨大なドームを乗せている。

この四角垂台の部分には大きな窓が取り付けられており,そのため内部の礼拝堂空間はとても明るい。蛇足であるがイスラムにおいては緑色は預言者ムハンマドのターバンの色であったことから神聖な色とされている。

イスラムが成立したアラビア半島では乾燥した大地が広がっており,緑は生命を象徴する色であった。イスラムにおける最後の審判で選ばれた人々が向う天国は「緑の楽園」であるとされている。

モスクの周辺には駐車場が整備されており,マレーシアが完全な車社会になっていることをうかがわせる。ミナレットは東側に1本あり,三段の詠唱台が設けられている。本来の機能はアザーンの詠唱をするための場所なので,一段で十分なのだが,ここでは装飾のため三段になっている。

もっとも,近年ではここから肉声でアザーンを呼びかけることはほとんど無くなっており,ミナレットに取り付けられたスピーカーから流すスタイルになっている。モスクの内部は土足禁止のため,履物を預かる場所が用意されている。

入り口に礼拝時の服装やいくつかの注意点が写真や図解付きで表示してあった。その中で面白いと思ったのはじゅうたんに額を押し付ける礼拝動作における足の配置である。両足もしくは片足の甲の部分がじゅうたんに付いていてはいけないとされていた。じゅうたんに付いているのは足指だけでなければならないないのだ。イスラムの作法を一つ学ぶことになった。

礼拝堂内部は5000人は一度に礼拝できるくらいの広さをもっている。青緑色のガラスを通過する光のため,写真のホワイトバランスがずれてしまい,窓が白く,内部は青っぽい色に変わっている。この広い礼拝堂には数人の人しかいなかった。正面にはアーチ型のミフラーブがあり,アーチの天井部分はイランでよく見かけた鍾乳石飾りが施されている。

礼拝の時間になると昔のムアッジン(ミナレットから礼拝を呼びかけるアザーンを詠唱する人)に相当する男性が,ミフラーブの横にあるマイクに向ってアザーンを詠唱していた。

通常,アザーンのを唱えるときは,自分の声を聞き取るために,耳の後ろに両手を当てるものだが,礼拝堂の内部では反響が大きすぎるのか,彼は耳を両手でふさいでいた。しばらくして男性たちが集まってくる。

モスクで昼食

モスクの二階は礼拝堂になっており,一階はイベントに使用できるようになっている。その一画でおばさんたちが食事を出しているのでいただくことにした。メニューの選択はなく,「ナシアヤム」となった。そのまま訳すと鶏ごはんであり,分類するとすればマレー料理ということになる。

チキンを炒めたものに野菜を乗せ甘いタレをかけている。これがずいぶんおいしかった。料金も3.8リンギットと妥当な値段だったのでかなり満足のいく昼食となった。

水上集落

海岸沿いの大きなモスクのさらに東側に水上集落が並んでいる。かってはモスクのすぐ東側から水上集落は続いていたようだが,現在は干潟とゴミの散乱する空き地になっている。

海岸付近の再開発はモスクの東側にまで延びており,周辺には放棄されたような漁船が数隻横たわっている。水上集落がこの辺りにあった時代には,その住人と一緒に海に乗り出していった船が,地面の上に放置されているのはなんだか悲しい風景である。

遺棄船の背後にはモスクとショッピングセンターが迫っている。干潟となっているところには無数の杭の名残が立っており,巨大な水上集落が取り壊されたことが分かる。

時間が経つとこれらの杭も朽ち果て,風景はもとの干潟に戻るかもしれない。しかし,その前に再開発がこの地域をの風景を一変させるかもしれない。

水上集落から近代的な集合住宅へ

すでに,干潟から少し陸側に入ったところは水上集落の家族を収容するためなのか,たくさんの近代的な集合住宅が立っている。このコンクリートの建物は高床式にはなっていない。建物の一階部分の一部は柱だけの構造になっており,高床式のように見えるが,おそらく駐車用のスペースであろう。

このの水上集落の陸側はほとんど高床式の陸上集落になっており,なんとなく雰囲気が良くない。すぐに道路に戻り,さらに東に歩いてみる。

幼稚園

小さな幼稚園があり,園児が母親に連れられて出てきた。園児たちは先生の右手に額を押し付けるイスラム式の挨拶をしてから,きれいに色の塗られた階段を下りてくる。園内にはもうほとんど園児は残っていなかった。ちょっと時間が遅かったようだ。

水上集落

一組の親子連れが水上集落の方に歩いていくので後を付いていく。地面は乾いた土地から湿地に変わっていく。ここの子どもたちはまだ写真なれしていないようだ。最初の一枚はずいぶん表情が硬い。しかし,画像を見せてあげるとすぐに打ち解け,次の一枚は笑顔の集合写真になった。

湿地帯のあたりから道路は木道になり,その先は干潟へと続いている。高床式住居の下は地面が見えないほどプラチックの袋が散乱している。あまり歩く気のしない集落である。

マレーシアではレジ袋の文化がすっかり定着している反面,ゴミを収集する行政サービスはここまで届いていない。人々は不用になったものをただ床下に捨てている。

その少し先になるとレジ袋はきれいに無くなっている。潮の干満があるのでレジ袋は陸側に集められたり,海に流れ出してしまったのであろう。

その上を少し頼りない木道が勝手きままに伸びている。電線も通っており,テレビのアンテナも立っている。水も街から引かれており,そのためのホースが走っている。全体としてかっての水上集落の半分くらいがすでに取り壊されているようだ。この集落がこの先も残されるという保証はなにもない。

長距離バスターミナル

タワウの天候はかなり不安定であった。ときどき雨になり水上集落からの帰りも雨宿りを余儀なくされた。道路の横には元は市場であったような長い建物があり,食べ物の店が出ていた。雨宿りのついでに揚げバナナをいただく。街の中心部はいかにもマレーシアという雰囲気であるが,少し離れるとインドネシアにいるような錯覚を覚える。

翌日のラハ・ダトゥ移動に備えて,海岸モスクと宿の間にある長距離バスターミナルに立ち寄ってサンダカン行きのバスを確認する。早朝は数本のバスがあるので適当な時間に来ればよいと判断していた。。しかし,実際にはラハ・ダトゥ行きのものは4列シートのワゴン車であった。

夕食の時間帯

夕食は海岸近くの屋台にする。その前に防波堤から夕日の風景を楽しむ。沖合いに浮かぶ漁船の風景は昨日と同じあるが雲が薄くなってきているので夕日が見られそうだ。

少し時間が経つと半分雲に隠された空間が薄い茜色に染まってきた。海上に停泊している漁船にぽつぽつと灯りがともるようになる。防波堤で釣りをしている親子が少しずつシルエットになっていく。昼間の熱気は収まり,夕方の時間帯なら日本の夏よりもずっと過ごしやすい。

今日の夕食は屋台のナシゴレン(3.5リンギット)である。コメはインディカ米なのでこのような調理方法にはとてもよく合う。また,炊き上げたごはんの上におかずを乗せて食べる場合も,粘り気の少ないインディカ米はとても食べやすい。

帰りにスーパー・マーケットに寄り,カリマンタン・インドネシアでお目にかかれなかったニンジンを主体とした野菜ジュースの1リットルパック(4.9リンギット)を買う。

旅行中はどうしても野菜が不足することになり,補助手段があるばあいは利用することにしている。このジュースはとても飲みやすく,翌日の移動時にはもう無くなっていた。


タラカン   亜細亜の街角   ラハ・ダトゥ