亜細亜の街角
高床式の木道をバイクが走り回る
Home 亜細亜の街角 | Muara Muntai / Indonesia / Feb 2009

ムアラ・ムンタイ  (地域地図を開く)

マハカム川の中流域にはいくつかの湖沼を抱える低湿地帯がある。マハカム川の流域はほとんどが平坦な土地であり,河口近くのサマリンダと上流部のロングバグンではほとんど標高差はない。僕の腕時計の高度計(大気圧調整はしていないの誤差はある)ではどちらも60mを表示していた。

そのような平坦な土地でも中流域は盆地のように若干低地になっているようだ。そのためマハカム川の水は自由に低地に流れ込み広大な水没地を形成する。その中でも特に低いところが湖や沼になっている。このような湖沼は自然の水路によりマハカム川とつながっている。

大きな湖としてはマハカム川の北側にムリンタン(Melintang)とスマヤン(Semayang),南側にジュンパン(Jempang)がある。いずれも直径20kmほどもある大きな湖である。当然,これらの湖はマハカム川の水位により大きくその姿を変えることになる。近接しているスマヤン湖とムリンタン湖は水位が上がると一つの湖になってしまうという。

ムアラ・ムンタイは湖沼地帯の中心となる町であり,マハカム川とスマヤン湖,ムリンタン湖に挟まれたところに位置する。ここはマハカム川の水上交通の要衝として発展し,地域の人口は2万人を越えているらしい。

ムアラ・ムンタイの南にあるジュンパン湖の周辺にはタンジュン・イシュイ(ダヤク人の村落)やマンチョン(ブヌアッ人の村落)があり,観光化されてはいるものの,ロングハウスや伝統的な生活・文化を見ることができる。

ムアラ・ムンタイは低地にあるためすべての家屋は高床式となっており,道路もすべて高床式の木道になっている。当然,車は走っておらず,人々の陸上の足はもっぱらバイクとなっている。木道の上をバイクが走り回るので傷みがはやく,かつとてもうるさい。当然ながらこの町には車は走っていません。

トゥリン→ムアラ・ムンタイ 移動

トゥリンから下りの定期船は17:00-17:30あたりにに出発する。ロング・バグンからトゥリンに下ってきたときの到着時刻がこのくらいの時間であった。ということで48時間の滞在でトゥリンを後にすることになった。

しかし,15時くらいからけっこうな雨になってしまった。この雨の中を荷物を持って300mほど離れた船着場に行くのは願い下げだ。幸い16時に雨が上がり,問題なく船着場に向うことができた。

やって来た船は今までのものよりも一回り小さい。今回は新しい経験のため一階甲板で過ごすことにした。料金は10万ルピアである。おそらく二階の部屋よりは多少安くなっていることだろう。

エンジンルームを覗いてみるとメインのエンジンは一基であり,その後ろにはもう一つ旧式の小さなものがあった。今日の移動をまとめると次のようになる。
17:30 トゥリン
17:45 カンポン・ゲルモ
18:20 カンポン・トゥークル
21:20 ムラッ(想像以上に大きな町,物売りが多い)
03:00 ムアラ・ムンタイ

一階甲板は風が入るので涼しい。すぐに周囲は暗くなり写真の時間ではなくなる。甲板に坐って周囲を眺めているしかすることがない。夕食は食堂でナシチャンプル(15,000ルピア)をいただく。これは定期船の標準価格である。

夜になると風を避けるため舷側の帆布が下ろされる。一応,長袖を着込んで横になる。しかし,エンジン音はうるさいし,乗客の乗り降りがある度に帆布は引き上げられるので眠りは浅い。

03時にムアラムンタイに到着する。船員は大丈夫かいというような身振りをするが,周囲には照明があるので問題はないと判断した。船着場から傾斜のある木道を上って陸に着いてみて驚いた。道路がすべて木道になっているのだ。

川に沿った道だけではなく,それと交わる道もすべて木道になっている。地面からの高さは1mほどあるので,高床式の木道ということになる。木道の幅は2-4mほどで,厚い渡し板が取り付けられている。

木道の両側には家屋が連なっており,入り口の高さは木道と合わせてある。実はこの町には地面の道路はなく,すべてこのような木道になっている。そのためバイクはあっても自動車は1台も走っていない。ということは,ここからサマリンダに移動するときはバスは利用できないことを意味する。コタ・バグンあたりまで船で行って,それから乗り換えとなる。

船着場周辺は商店が多く,細いU字形の蛍光灯があるので暗さに対する不安はない。商店の軒先に腰を下ろして太った猫と一緒に朝になるのを待つ。周囲にはドリアンの匂いがただよっている。どうやら商店の中かららしい。

Penginapan Tiara

06時になると通りかかったバイクの男性が「Tiara」に連れて行ってくれた。彼はどうやら宿の関係者のようだ。彼は寝ている家の人から部屋のカギを受け取り,部屋に入れてくれた。

二階の部屋は11室,家の人もそのうちのいくつかを使用している。この宿は一族経営のようだ。部屋は3畳,1ベッド,トイレとマンディーは共同である。廊下の反対側には大きな窓があり,清潔である。

なにはともあれ2時間ほど寝かせてもらい,08時に起床する。家の人か宿泊客かは分からないがドーナッツを食べている人がいたので,僕も注文する。甘いドーナッツとコーヒーの朝食は5000ルピアであった。廊下とベランダには小さなテーブルが置いてあり。日記作業もここでしていた。

この家は切妻屋根をもつシンプルな木造二階建てである。一階の1/3は商店となっており,奥は二つの食堂兼居間になっている。この日の昼食と夕食はここで他の宿泊客や家人と一緒に食べることになった。

昼食はごはん,焼き魚,ジャックフルーツのスープ,夕食はごはん,焼き魚,チキンのスープの取り合わせで,どとらも25,000ルピアであった。夜に請求書を見せられこの値段にはずいぶん驚かされた。想定よりもそれぞれ1万ルピアも高い。

この宿にはランドリー・サービスもある。一ヶ所しかない水場を使うのがおっくうなのでお願いすることにした。料金は5点で25,000ルピアと高かった。最初は3万ルピアと言われ,僕が2万ルピアと答えると,間をとって25,000となった。この値段は東南アジアの標準価格(100-150円/kg)の2倍である。

調理場

宿の建物の内部には調理場は無い。入り口の外側に板敷きのたたきがあり,そこでは座りながら例えば生のスパイスをすりつぶすなどの作業が行われている。

その横には一段低くなった板敷きの水場があり,ここで魚やニワトリをさばいて水洗いしている。食材を加工するときは大きな木を輪切りにしたまな板を使用するが,食材そのものは板の上にそのまま置かれている。ということでこの水場周りは土足厳禁である。

二人の女性はまずスパイスの調合を始めた。複数の生のスパイスを石皿と乳棒ですりつぶし混ぜ合わせる。次は下で大きな魚と20羽ばかりの羽をすでにむしられたニワトリをさばき始めた。

大きな鯉に似た魚は三枚に下ろして,身は適当な大きさに切っていく。ニワトリはすでに羽がむしられているので内臓を抜き,足を切り,残りの部分を骨ごとぶつ切りにしていく。この大量の食材は翌日行われる宿の主人の父母の25回忌のごちそうに供せられた。

この日はいったん材料に火を通し,翌日は水場回りの板の上で灯油コンロで調理が行われた。火事の心配があるのか,この家では火を使う仕事はすべて外でしていた。また,水場は洗濯場も兼ねており,生活雑排水はそのまま空き地に垂れ流される。

宿の子どもたち

この家には小さな子どもが何人もいる。しかも,つぎつぎと入れ代わっており,どの子がこの家の子どもなのかは分からない。おそらく血縁関係にあるのだろうが,近所の子どもも混じっているようだ。今朝の集合写真のメンバーは6人である。

大工仕事

宿の前の木道を左に歩くとじきに川に出る。その手前で男性が大工仕事をしていた。この地域の鋸は先端が細い三角形をしており,縦型の取っ手になっているため片手で操作するようになっている。この道具はどうみても使い勝手が良いとは思えない。

おじさんは角材を切断しようとしていたが,支点の内側で鋸を引いている。そのやり方では歯が角材に挟まれるため作業性が良くない。普通は支点の外側で切るものだよなどと余計なことは言わないことにしよう。

マハカム川本流近くの風景

すぐにマハカム川の本流に出る。川幅は500mくらいだろう。水辺の筏の浮き家の風景は上流側と同じだ。人々は川の水で体を洗い,洗濯をして,トイレも水の上で済ませる。

宿の前の木道はここで途切れているので少し戻って船着場への木道を歩き出す。幅5mほどのりっぱな木道が先に伸びており,その両側に家屋が並んでいる。すべて木造家屋であり,瓦を使用した屋根も多い。建設中の家屋はコンクリートを使用している。これは木道の風景とは不似合いである。

家並みのすき間から川を覗いてみると合流点が見える。本流は北西から南東に流れ,そこに北からの支流が合流している。ムアラ・ムンタイの船着場はこの合流点に位置しており,支流の両岸に町が広がっている。

このためムアラ・ムンタイの町は支流により2つに分割されている。マハカム川本流の西側も含めると3分割ということになる。地区の呼び名は分かりやすいように東地区,支流の西側地区,本流の西側地区と呼ぶことにしよう。町の中心部は東地区ということになる。

サマリンダからロングバグンに移動したとき,ムアラ・ムンタイは夕暮れ時に立ち寄った。ムアラ・ムンタイの町の全体が分かりやすいのでそのときの写真をトップに置く。画像の左側に本流があり,中央部で支流と合流している。その合流点に船着場がある。

マハカムの川幅は500mほど,支流でも川幅は100mほどある。その川面を細身の小舟が前半分を水面に出してモーターボートのように疾走している。当然,エンジン音はずいぶんうるさい。 忙しい生活を送っているとはとても思えないのだが,水の上だけは暴走族を演じている。そのようなボートがたくさんおり,どうやら上流側とは小舟の使用文化が異なっているようだ。

木道を歩いていくと支流の対岸の家屋がずいぶん近くに感じる。川幅が狭くなり交通量も多くなるのでチェス(エンジン付きボート)の速度もずいぶんゆっくりになる。のどかな水辺の風景である。

家の前に座っていた子どもたち

林立する政党の旗(10:20)

ようやく船着場のあたりに到着した。宿から10分はかからない距離だ。木道の両側にはずらっと旗ざおが並んでいる。これは別に大漁旗というわけではない。7月に行われる大統領選挙のための政党の旗である。今回の選挙は現職のユドヨノ大統領(民主党),メガワティ前大統領(闘争民主党),ユドヨノ氏とたもとを分かったカラ副大統領(ゴルカル党)による選挙戦となった。

結果は世論調査の通り,ユドヨノ氏が60%を獲得して再選された。安定した経済成長や治安対策,反汚職の取り組みなどが幅広い層から支持された結果である。2004年に初めての直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領の5年間にインドネシア経済は順調に発展し,おかげで宿や食事代も2倍程度に上がってしまった。

匂いの正体(10:20)

昨夜,3時間ほど過ごさせてもらった家の横では小型のジャックフルーツのような果物を売っていた。周囲には昨夜と同じドリアンの匂いが漂っている。この果物はいったいなんなんだろう。表皮はくすんだ緑色で熟している部分は茶色になっている。表面はいぼのような小さな突起に覆われている。形状は細長い楕円型で長さは40cmほどである。

どうみてもジャックフルーツ(和名はパラミツ)の仲間と思われるが臭い,大きさ,形状は今まで見たものとは全く異なっている。地元の人たちは熟れ具合をじっくり調べてから買っていく。ネットで調べてみると甘い強い匂いとドリアンのようなひどい臭い,果物として生食するものと調理して食べるもの,小さいもの(3-4kg程度)と大きいもの(10-40kg)などさまざまな記述がある。

おそらくジャックフルーツにもいくつかの種類があるのだろう。僕がアジア各地の市場で見かけた果物の中にはジャックフルーツでありながら,そうとは思わなかったものがあるのかもしれない。

僕は今まで熟したものか,スープに入ったものしか食べたことがない。ジャックフルーツ(クワ科・パンノキ属)はクワ科の果実でよくあるように集合果となっている。巨大な果実を割ると中はたくさんの部屋に分かれており,そこに入っている黄色の果肉や仮種皮にくるまれた種を一つずつ取り出すことができる。これが果物としての販売単位である。

種は茹でると食用になるが,果物として売られる場合は取り除かれるていることが多い。1個は500-1000ルピア(5 -10円)程度なのでおやつとしてよく食べていた。少ししつこい甘さなのでそうそう数は食べられない。こうして食べているときは甘い匂いはするもののそれは悪臭ではない。

陸の家と川の家

木道の川側では通りに面した家とその背後の水辺の浮き家が列を作っている。通りに面した家屋はほとんどが二階建てのしっかりしたものになっており,一階は商店になっている。

このような家の後ろには筏の浮き家が並んでいる。当然ながら平屋が多い。陸側には板が渡されており,自由に行き来することができる。電気も引かれており,衛星放送のパラボラ・アンテナも見られる。トリ小屋などもあり,陸の暮らしとそれほど差は無い。

生姜とウコン

商店には生姜(ショウガ)とウコン(ターメリック)が並んで袋に入っていたので写真にする。この二つはどちらもショウガ科に属している。どちらも熱帯アジア原産の有用植物であるが日本でも普通に栽培されている。

ショウガ(ショウガ科・ショウガ属)もウコン(ショウガ科・ウコン属)も地下に肥大した根茎をもち,この部分が食用となる。ショウガもウコンも漢方薬として古くから利用されており,僕は飲んだことがないが,最近の日本では「ウコンの力」という栄養ドリンクが流行っているようだ。

僕はウコンよりターメリックと呼ぶことの方が多い。濃い黄色の粉末はスパイスとしてインド圏を中心に幅広く使用されており,カリーの黄色はこのスパイスの色である。地上にはまっすぐな茎を伸ばし長楕円の葉をつける。この茎のように見えるものは偽茎であり,複数の葉柄が重なるように巻いたものである。

花は葉とは別に花茎を出し,地上の低いところに鱗片の重なった姿を見せる。花弁は鱗片の間を押し広げるようにして咲く。特にウコンの花は可憐であり一度は現物を見たいと思っている。

子どもたちの写真(10:40)

子どもたちの写真はけっこう苦労が多かった。小さな子どもたちはカメラを向けると怖がり,ときには泣き出してしまう。小学生の女子は恥ずかしがって逃げ出してしまう。

そのため,川沿いの木道を歩いている時の子どもの写真は少ない。珍しく3歳くらいの女の子で,一人でいても写真に納まってくれた。お姉さんか近所の子がやってきて二人の写真なったので紹介しておこう。

オリヅル教室(12:10)

木道を小学生の一団が歩いている。子どもたちはとある民家に上がりこんだ。といっても家の中ではなく,その前にある広い屋根付きの板敷きのスペースである。ちょうど良い年齢(5歳から12歳くらいかな)なのでオリヅルを教えることにした。

この木道と家の間にある板敷きのスペースはよく子どもたちの遊び場になっていた。なんといっても地面が無い町である。他に子どもたちが遊べるところといえば水辺か板敷きの木道くらいのものである。

板敷きのスペースはとてもきれいだ。地面に降りることが少ないので泥が持ち込まれないのだ。ここに坐って年長の子どもたちに折り紙を渡す。最初の簡単なところは問題ない。しかし,きれいに角を合わせて折るという作業にはまったく慣れていないので,僕が折り直す場面も多い。作業の半ばからは複雑になるのでだいぶ手助けをすることになった。

まあ,多少歪んでいてもツルの形ができるのがオリヅルのいいところだ。このオリヅルですっかり仲良くなり,そうなると写真は自由に撮ることができる。見物人も増えて,最後の集合写真の人数は15人になっていた。

キャッサバの生垣(14:40)

宿から下流側に歩いていると木道から民家に通じる木道の両側がキャッサバの生垣になっていた。キャッサバ(トウダイグサ科・イモノキ属)の原産地は南米,樹木なのにイモ状の根をもち,そこにでんぷんが含まれている。そのため世界の熱帯地域で広く栽培されている。

茎を地面に挿すだけで発根し生育するので栽培はとても容易である。今回の旅行ではジャカルタでこのイモを油で揚げたものを食べた。味は甘味のちょっと少ないサツマイモに似ており,揚げてあるため喉につまる感じがなくサツマイモより食べやすい。この家では栽培が簡単なところに目をつけ,一列に茎を挿して生垣にしたようだ。

墓地

川岸にムスリムの墓地があった。二枚の木製の板あるいは石板が地面に立てられている。中には石の棺もある。これらはムスリムの人々の墓地では普通に見られる光景だ。死者をどのように弔うかは宗教と密接に関係している。マハカム川中・上流部の先住民族であるダヤクの人々の多くはキリスト教徒のため,やはり村はずれに土葬用の墓地をもっている。

しかし,キリスト教以前には遺体を棺に納め,鍾乳洞に安置したり,崖から吊るすつるすなどの方法が取られていた。このような葬送方法は東南アジアの島嶼部で広く行われていた。また,墓地にやぐらを組みその上に放置するという一種の風葬の形態もあった。

良し悪しは別にして,フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯,インドネシア・スラウエッジ島のトラジャ,バリ島のバトゥール山周辺ではそのような葬送の遺産が有力な観光資源となっている。

異文化の遺産を見学することは旅の醍醐味の一つであろう。しかし,葬送という人々の精神世界と深く結びついている遺産はそれなりの敬意と地元の人々の感情を斟酌して行動すべきである。自分たちの祖先の墓を観光用資源に活用したいなどと考える人々はおらず,できれば余所者が立ち入ることなく静かにしておいて欲しいというのが人々の気持ちであろう。

ルソン島のサガダには棺が置かれた鍾乳洞が複数あるが,ある鍾乳洞はそこに通じる道に通行禁止の柵が設けてあった。簡単な柵なので回り込んで先に行くことはできるが,僕はそこから行き返すことにした。地元の人々の気持ちを大事にするということはそういうことだ。

長〜い屋根付きの廊下(15:00)

木道から直角方向に屋根付きの長い廊下が伸びている。その先はちょっとした森になっており,付近で遊んでいた子どもたちに案内されて廊下を歩いてみる。

この廊下はとある家の入り口まで続いていたが,そこは施錠されており先には進めない。外観はしっかりしているが,屋根の上や内側には着生植物がたくさん繁っており,あまり手入

発電所

木道の森側が広く開けており,そこに騒音を吐き出す平屋の建物がある。入り口のところに管理人と思われる人がいたので見学の許可をもらう。内部には二基のジーゼルエンジンを使用した発電機があった。現在,稼動中のものは一基だけである。計器盤には3つの電流計があり,それぞれ500アンペアを表示していた。三相三線方式のようだ。周波数は50Hz,力率(cosφ)は0.9,電圧計は動いていなかったが220Vであろう。

ジーゼル発電機は100KVAから1000KVA程度のものが日本でも市販されている。多くは非常用や防災設備用であるがコージェネレーション(co-generation)として環境性や経済性に優れた常用発電システムとしても注目されている。

通常のジーゼル発電機やガスタービン発電機は電力だけを取り出すものであるが,同時に発生する熱を冷暖房や給湯に利用しようとするのがコージェネレーション・システムの考え方である。このシステムでは総合エネルギー効率が70-80%と極めて高くなる。

ボルネオ島のように送電線を通すのが難しい,あるいは経済的に成立しない地域でも,各地域ごとに小規模発電装置をもつことにより,電気のある生活を実現することができる。この計器盤の表示内容から推測するとこの発電機の出力はおよそ300kwである。

この発電機が町の全電力を供給していると思われる。町の人口2万人から世帯数を3000と仮定すれば,この地域の家庭の平均電力消費量は日本の20%程度ということになる。正確さは保証できないものの,地域の電力消費は多くはないが非常に小さいということもない。

森の中の木道(15:30)

川沿いの木道から東に分岐して森の中に入っていく木道がある。森といっても十分に人手は入っているものだが見に行くことにする。木道の両側には人の手で植えられたバナナやショウガの仲間が多い。感じのいい道なので明日にでも正式に探検することにしよう。

この道の向こう側にはもう一本川に並行する木道があった。ここではラケットケースを抱えてバイクで行く女性たちに出会った。彼女たちが誘われて体育館に到着した。どうやらここは学校らしい。怪しげな渡し板を通り体育館に入る。彼女たちはここでバドミントンを楽しもうとしていた。

しばらく見学させてもらうとダブルスのゲームが始まる。一試合の審判を務めてあげると,あなたもゲームをしたらと引きこまれてしまった。30代,40代のおばさんが相手である。パートナーの女性の特長をうまく引き出すようにして楽勝である。久しぶりの運動で汗がひどく,ボトルの水を飲み干してしまう。彼女たちにお礼を言って水を補充するため宿に戻る。

水辺の生活(17:30)

夕方の散歩に出かける。家並みが途切れて筏の浮き家が見えた。そこまではやはり木道が続いている。この家は筏を2つつないでおり,陸側の筏には小さな家が乗せられ,川側の筏では一家が水浴びをしている。

そろそろ夕暮れが近い。この一画には川と一緒にゆったりとした時間が流れている。テレビがなくても,ビデオゲームがなくても,人々は十分に人生を楽しむことができる。

夕焼けの風景(18:30)

宿の近くから夕暮れの川を眺める。雲が多くて夕焼けはそれほどきれいには染まらない。それでもなぜか夕日はこころを惹きつける。マハカム川の対岸にも村落は広がっており,数少ない背の高い木がシルエットになっている。

下流側から定期船がゆっくりと目の前を通っていく。おそらくムアラ・ムンタイの船着場に立ち寄ってから上流を目指すにちがいない。そういえば,サマリンダから上流に向ったとき,だいたいこの時間帯にムアラ・ムンタイを通過した。

夜市(19:50)

宿の青年から今日は日曜日なので夜市があるという情報を聞いて夕食後に出かける。場所は船着場の前の通りを北側に行ったところだ。船着場の前の通りはこの町のメインストリートである。それでも少し北になると商店街は途切れ,民家の前の板敷きスペースと木道に露店が並ぶようになる。

食べ物,飲み物,野菜,洋服,雑貨などの店が出ており,木道はずいぶん狭くなっている。このため通路は混雑しており,写真はちょっと難しい。パンケーキの店にはたくさんの人が集まっている。普通のパンケーキにコンデンスミルクをかけたものだが,安いためなのかずいぶん人気が高い。木道側からだと客の背中しか写らないので店の方から撮らせてもらう。

厚手のお好み焼きのようなものを鉄板で焼いている店もある。日常生活ではごはん一辺倒の食生活なのに,この夜市では小麦粉の文化が幅をきかせている。見覚えのある子どもにも出会った。もちろん顔を覚えているわけではない。来ている服のいちご柄が記憶に残っている。彼女の方はもちろんこちらを覚えており,お友達との写真を撮ることになった。

朝のコーヒー(06:00)

昨夜はやぶ蚊にずいぶん悩まされた。湿地の町なので蚊の繁殖には最適な環境である。ドアの上にある通気用窓には網戸が入っておらず,蚊にとっては出入り自由の状態だ。刺された直後のかゆみがひどく,夜中に起き出してザックの中から薬箱を取り出すことになる。気温は夜半を過ぎるとどんどん涼しくなる。寝るときは半袖,朝方は上下とも長袖の状態でも涼しく感じる。

05時に起床し,物音を立てないように廊下のテーブルで日記を書き始める。しばらくすると,この家の長老ともいうべきおじいさんが出てきた。彼はメッカ巡礼を経験している。家族がおじいさんを紹介する時に「ハージュ」と呼んでいたのでそれと分かる。もっとも僕には「ハッジ」というように聞こえた。

イスラム教徒には信仰告白(シャハーダ),礼拝(サラー),喜捨(ザカート),断食(サウム),メッカ巡礼(ハッジ)の五行が義務として課せられている。最初の四行は日常生活で実行可能なものであるが,メッカ巡礼は容易なことではない。

イスラムの教義が確立した預言者ムハンマドの時代,イスラム世界はアラビア半島に限定されていた。しかし,その後イスラム世界は北,西,東に急速に拡大していき,遠隔地のイスラム教徒にとってはメッカ巡礼はまさに一生に一度という大事業となった。

そのためこの一行については,実行できる体力や財力のある者のみが行えばよいという条件が付与されている。しかも,このメッカ巡礼はいつでもよいというものではない。イスラム世界で使用されているヒジュラ暦の12番目のズー=ル=ヒッジャ月(巡礼月)の3日間に行われるものが大巡礼とされており,それ以外の小巡礼(ウラム)と明確に区別されている。

現在ではこの大巡礼の3日間にメッカを巡礼するムスリムは200万人にも上り,彼らがカアバ神殿の周囲を反時計回りに回る儀式はよく知られている。このおじいさんのようにメッカ巡礼の大業を成し遂げた人は「ハージュ(女性形はハーッジャ)」の尊称をつけて呼ばれている。

さて,家人や近所の人たちからは相当の尊敬を集めているおじいさんは朝のインスタント・コーヒーを日課にしているようだ。廊下のテーブルに僕がいることに気が付くと,「コーヒーを飲むかね」と身振りで誘ってくれる。「はい,いただきます」と言うと,僕のためにコーヒーを入れてくれた。

この日と次の日の朝,おじいさんの入れてくれたコーヒーを飲みながら,日記を書いたりガイドブックを読むといういい時間を過ごすことができた。ちなみに,このコーヒー代は食事の請求書には含まれていなかった。

中学校

昨晩の高い請求書にこりて朝食は外でとることにする。商店街の木道から一本東の木道を歩いているといくつかの学校がある。中学校では先生が敷地の中を案内してくれた。学校も廊下もすべて高床式になっている。さすがに中庭は地面のままであるが,水が引いてからまだ間が無いのか,洪水の漂流物が散乱しておりとても使用することはできない。

朝礼の時間だったので生徒たちはすべて中庭を囲む廊下に出ている。男子は半そでシャツにネクタイ,半ズボン姿である。それに対して女子の大半はくるぶしまでの長いスカートである。中には膝下10cmのスカートの生徒もいるがそれは少数派である。スカーフを被っている生徒も散見される。

学校の裏手はグランドになっており,ここはまだ水が引いていない。先生は自分のクラスにまで案内してくれた。さすがに先生の引率があるので,女子生徒もカメラ目線で写真を撮らせてくれた。このくらいの年齢になると,道で写真を撮るのはほとんど不可能なのでありがたい。

先生が子どもたちに何か質問はないかとたずねる。しかし,だれも英語では質問してこない。インドネシア語で質問が出て,それを先生が英語にして,僕が英語で答え,先生がインドネシア語で生徒に話すという対話になった。黒板を使用して今回の旅行ルートを説明してあげる。ほとんどの子どもたちはムアラ・ムンタイから上流側には行ったことがないようだ。

朝食

この町にはいちおう食堂はあり,店の前で魚やチキンを炭火で焼いている。魚がおいしそうだったので値段を聞くと25,000ルピアだという。宿の食事と同じ値段である。それに対して野菜炒めはごはん,コーヒーを付けても13,000ルピアなのでそちらを選択する。

小学校

立派な小学校もあった。赤い瓦屋根のロング・ハウスという雰囲気である。もちろん1mほどの高床式だ。案内板には「NOMOR 002」となっていた。

教室を覗いてみると,体に比して大きすぎる机とイスを使用して子どもたちが勉強している。低学年も高学年も同じサイズのものを使用しているのでこのようなことになる。ほとんどのクラスは一人用の机であるが,中には二人用の長い机のクラスもある。

ここの制服は白いシャツ,エンジ色のネクタイ,男子は半ズボン,女子は膝下のスカートである。教室ということもあり,カメラから顔をそむける子どもはおらず,男子はVサインである。

この学校の向かいには幼稚園がある。おそらく小学校の旧校舎を利用しているのであろう。10時が始業時間のようだ。制服である青色のワンピースを着た子どもたちが木道を歩いてくる。中にはかなりの肥満児もいる。

廊下に並んでもらい集合写真を撮らせてもらう。先生がいるので子どもたちも安心してカメラ目線になってくれる。彼らのネクタイはおそらく結ぶのではなく取り付けるタイプのものであろう。

高校ではやはり先生が案内してくれた。さすがに女学生の写真は撮れなかった。彼女たちは白い長袖シャツ,白い足首までのスカート,白いスカーフということでとても絵になるのだが,近くからの写真は難しい。校舎の廊下に出ている一団と食堂の中だけはなんとか写真にできた。

紋章

幼稚園から高校まで一通り見学して,制服の胸の部分に一様にある種の紋章が刺繍されている,あるいはワッペン様のものが縫い付けてあることに気が付いた。このような紋章の文化はヨーロッパ由来のものなのであろう。

ヨーロッパでは中世のキリスト教貴族社会において,騎士の盾にそれぞれ個人を識別するシンボルを描いたのが「紋章」の始まりとされている。そのためヨーロッパの紋章は盾の形に描かれることが多い。

紋章は個人を識別するためのものであると同時に世襲的な側面をもっており,紋章のデザインには細かな規定が設けられている。そのため紋章を読み解くことにより家系と個人を識別することができるようになっている。

日本の家紋は一族で同じものを使用するが,ヨーロッパでは個人識別用なので,それこそ星の数ほど紋章がある。そのため,英国では15世紀から紋章院が創設され現在に受け継がれている。ここには英国で認可されたすべての紋章が登録されている。

「マスター・キートン(浦沢直樹)」の単行本第6巻には,15世紀に日本に漂着した英国人の懐中時計に記された紋章から彼の生い立ちを解き明かす物語(アザミの紋章)がある。この古い紋章から個人が特定されていくのはまさしく紋章院のおかげである。

紋章は個人以外にも国家,都市,教会,大学などにも使用されており,紋章としても認められている。このように紋章はヨーロッパ文化に深く根ざしたものであり,世襲的に使用されてきたものである。

それに対して,代々継承された実績がなければ紋章(arms)とは認められず,エンブレム(emblem)と呼んで区別されている。学校の制服にシンボル・マークが使用されているのは,ボルネオ島を分割支配した英国とオランダから受け継いだものであろう。

ただし,代々継承された実績には該当しないのでエンブレムと呼ぶべきものだ。エンブレムは日本語としても通用しており,一般的には「紋章」と同義で使用されることが多い。

車の前部に取り付けられている製造会社のロゴマークやブランド・シンボルもエンブレムと呼ばれており,ジャガーやロールスロイスのようにそれが立体化されたものはフード・クレスト・マークと呼ばれている。クレストには(紋章の)頂飾という意味がある。やれやれヨーロッパの紋章文化は奥が深い。

銀合歓(ギンネム)

木道から少し離れたところにギンネム(ネムノキ科・ギンゴウカン属)があり,白い花を咲かせていた。地面はぬかるんでおり,クツをはいていては近くに行くことはできない。これはちょっと残念だ。

ギンネムの原産地は中南米とされているが現在では世界中の熱帯,亜熱帯地域に広がっている。古くはマメ科に分類されていたが,現在ではネムノキなどと一緒に新しいネムノキ科(ネムノキ亜科とすることもある)を作っている。

元マメ科の植物らしく,根に空中窒素を固定する根粒菌を共生させているため,貧栄養の土地でも非常に成長が早い。そのため,新しく開けた土地を早々と占拠してしまう性質をもっており,現在では世界の侵略的外来種ワースト100にリストされている。

日本でも沖縄県から九州南部まで勢力を広げている。強い繁殖力をもっているうえに,若葉にはミモシンという有毒アミノ酸を含有しているので,動物の食害も少なく,可憐な花に似合わずやっかいものになっている。

ネムノキ科の植物なので枝先に総状の散形花序をつけ,小さな白いボンボンのような花を付ける。この白い花びらようなものは,ネムノキの花と同じように長く伸びた雄しべ(雄ずい)が集まったものである。日本では銀合歓とも呼ばれており,この呼称は園芸種の場合に使用されることが多い。

おばさんたちは料理作りに大忙し

宿に戻る途中で家の前の板敷きスペースで教科書を開いている子どもたちがいた。嬉しいことにカメラを向けても逃げない。仲良し四人組の集合写真が出来上がる。一人が学校の制服を着ており,それは今朝訪問した小学校のものだ。小学校で何枚か写真を撮ったので僕のことを覚えていたのかもしれない。

宿に戻るとおばさんたちは25回忌の料理作りに大忙しである。金ダライと言ってよいほどの巨大な鍋をコンロにかけ,チキン料理を作っている。さすがに20羽ぶんのチキンは大変な量だ。下の石油コンロがとても小さく見える。

英語のできる宿の青年に聞いたところではチキンは1羽が7万ルピア,25回忌の総費用は200万ルピアだという。これを毎年行うのだから大変な出費だ。宿の前にはやはりたくさんの子どもたちが遊んでいる。新顔も揃っているので集合写真にする。やはり,25回忌のお手伝いということで親戚の女性がやってくるので,子どもたちも多いようだ。

宿ではドラムカンから水をくんで水浴びをするのが最大の楽しみだ。汗をかいているのと体温が上がっているので,冷たい水はとても気持ちが良い。しかし,シャワーのように連続して水がかかるわけではないので,体温を下げる効果はそれほどない。また,汗をすべて流せるわけではないので,タオルがだんだん汗臭くなる。

水浴びをして扇風機にあたりながらベッドで横になる。昼食後に水浴び,ベッドの工程に入るとたいていは昼寝につながってしまう。一日中歩き回っていると,カロリー消費量は大きくなり,質素な食事との相乗効果でウエストが細くなっていく。僕の場合,旅行のダイエット効果は大きい。

伝統的な家屋

午後は東側の木道を歩いてみる。伝統的な板屋根の家屋がいくつか集まっている。中心の建物は切妻屋根が二連になっており,前部は複雑な構造の屋根になっている。

メインの切妻屋根も中ほどから傾斜が変わっている。ずいぶん造りづらい構造のようだが何か意味でもあるのだろうか。急勾配になった切妻屋根の上部は二階構造になっているようにも見えない。この家も切妻の先端にT字形の装飾が取り付けてある。

Masjid Besar Asysyakirin

木道の横に「Masjid Besar Asysyakirin」というプレートの貼られたモスクがあった。正面からでは近すぎて写真にはならない。周辺を一回りして反対側からようやく全景を撮ることができた。それにしても,電線がランダムに張られており写真のジャマだ。

モスクは二つの銀色のドームをもっており,建物の隅に一本のこれも銀色のミナレットが立っている。最上部にはムアッジンがアザーンを唱えるための開口部があり,なんとなく火の見やぐらのような感じを受ける。

モスク本体は鉄筋コンクリートでできており,その回りを板敷きのスペースが囲んでいる。おそらく,礼拝室の床面は地面から1mほど高くなっていることだろう。コンクリートの高床式建築物ということになる。

入り口が開いているので中に入る。中には誰もいない。床には大きなタイルが敷き詰められており,低い天井は木製である。たくさんの細い柱が林立している。おそらくコンクリートの柱にタイルを貼ったものであろう。

この程度の建物を支えるだけならこのように多数の柱は必要ない。預言者ムハンマドの時代,モスクは壁が無くナツメヤシの柱を多数並べ,屋根を支える簡単なものであったという。これが初期の多柱式モスクの原型になったとされている。このモスクはその様式を踏襲したものであろう。

礼拝堂の内部はすべて天井で覆われているのでドームの丸みは見ることができない。コーランにはムスリムの人々がメッカの方向に向って礼拝をするように記されている。

そのためモスクにはメッカの方向に向いた壁面(キブラ壁)が必ずあり,そこにはミフラーブという装飾的な窪みが設けられている。ところがこのモスクのミフラーブは壁の窪みではなく,壁面を切り取ったものになっており,その背後にかなり大きな部屋がある。これは初めて見る様式だ。

人々は礼拝の時には床にじゅうたんを敷くことが多い。大勢で礼拝をするモスクのような建物には,大きなあるいは狭くて長いじゅうたんが用意されている。このモスクには一人あるいは二人用の小さなじゅうたんが丸められて柱の周りに立ててある。金曜大礼拝のようにたくさんの人々が集まる時はどうするんだろう。

近くにはもう一つのモスクがある。こちらはインドネシアの新しい瓦屋根の邸宅である。モスクと分かるのは中央に置かれた銀色のドームと,四隅の柱の上に取り付けられた銀色のチャトリ(インド建築で使用される小塔)のような飾りによる。モスクらしからぬ建物なので見に行く元気は湧かない。

まだ水に浸かっている土地

木道を女子中学生の一団が歩いてくる。今朝の学校とは制服が異なる。ゆったりとした白の上着と薄い青色のくるぶしまでのスカート,白のスカーフ姿はムスリムの中学生らしい。少し離れて所からカメラを向けると,特に逃げ出されることなく一枚だけ撮ることができた。

木道の東側の土地は水の逃げ場がないのか,まだ水没している。そちらに向う怪しげな木道があったので終点まで歩いてみる。その先は水没しており船でなければ移動できない土地であるが,畦のようなものが見える。どうやら水田らしい。

高床の上に粗末な小屋が乗っており,これがこの農地所有者の作業小屋のようだ。近くに網があるので,水の引いた時は農業,水が出たときは漁業という生活のようだ。

ムアラ・ムンタイには教会がなかった

東側木道はここから先も北に伸びている。周辺は樹木も多少あり,わりと好ましい。しかし,対岸に渡るため西に向うことにする。この道は昨晩の夜市の近くに出た。支流を挟んで西側の街並みを眺める。

距離があるので川岸のモスクがちょうどよい具合に見える。四角錐の屋根の上に銀色のドームがあり,陽光に映えている。全景が見やすいという理由もあるが,ムアラ・ムンタイでもっとも均整のとれたモスクである。

ムアラ・ムンタイではキリスト教の教会は見かけなかった。トゥリンとムアラ・ムンタイの間にイスラム化された民族とされなかった民族の境界があるようだ。インドネシアの人口は約2.3億人,世界第4位の人口大国である。そのうち80%弱の1.9億人がイスラム教徒であり,世界最大のムスリム人口を抱える国家でもある。

しかし,イスラム教徒の多くは人口の半数以上を占めるジャワ島に集中しており,独立時にはボルネオ島内陸部,スラウェジ島北部,ヌサ・トゥンガラ諸島,マルク諸島,イリアンジャヤなどの辺境の地域ではキリスト教徒が多数を占めていた。

新生インドネシアは東西4000kmにおよぶ広大な海域に散らばる島嶼国家であり,多数の民族,言語,宗教をもつ集団を一つの国家にまとめ,近代化を推進する必要があった。初代大統領のスカルノが失脚し,それを継いだスハルトは国家の近代化を積極的に進めた。その原資となったのは辺境の島々の地下資源や森林資源であった。

さらにスハルトのもとではジャワ島から大量の国内移民を人口の少ない辺境の島々に送り込む政策をとった。インドネシア近代化の歴史はインドネシアのジャワ化の歴史ときれいに重なっている。大量の移民は教師,技術者のような都市型の人材だけではなく,その多くは農民であった。彼らは食糧増産の国策に基づき辺境の島に新しい農地を切り開き定住することになった。

この独立後の新移民はすべてイスラム教徒であったため,辺境の島々は急速に宗教人口が変貌していった。そのような新移民が開拓した土地は無人の土地というわけではなかった。

ボルネオ島においてもダヤクなどの焼畑農民は広大な森林を舞台にロング・スパンの焼畑移動耕作を行ってきた。そのような土地に新移民が軍隊や警察の後押しで入植してきたのであるから,摩擦が生じるのは当然である。

宗教の違い,土地権の問題,ジャワ人への反感・・・根の深い対立感情はなにかのきっかけで暴発することになる。スハルト政権により押さえつけられていた対立はスハルト政権の崩壊(1998年)によりいろいろな形で噴出した。

カリマンタンでは1998年にジャワ島のすぐ近くにあるマドゥラ島から移住してきた人々がダヤク人に襲撃され,200人以上が殺害された。これにより,3万人以上の新移民の人々が国内難民となった。

モルッカ諸島では1999年に先住のキリスト教徒とイスラム教徒の新移民の武力衝突が起こり,400人以上が犠牲となった。この衝突は双方が聖戦を宣言するなど宗教対立に発展し,インドネシア各地に飛び火していった。

また,宗教対立に触発された偶発的なものか組織的なものかは不明であるが,1998年にジャカルタでは多数の中国系商店が略奪・焼き討ちにあっている。

現在,カリマンタンを含めインドネシア情勢はユドヨノ大統領の経済政策が効を奏して安定しているが,貧富の格差,環境破壊などを含めて多くの火種を抱えているのは事実である。

対岸に渡る

川岸を少し探すと対岸に向う小舟が見つかった。チェスと呼ばれるエンジン付きの小舟はわずか1分で対岸の浮き家に到着した。渡し舟は東側地区ではわりと簡単に捕まえられたが,支流の西側地区ではまったく見つからず往生することになった。

この辺りではチェスは移動の足となっており,対岸に移動したいときは知り合いに乗せてもらえば済むことだ。不特定多数の人を対岸に渡すような商売は成立しないようだ。

水辺の風景は東側地区とまったく変わらない。ロープで固定された筏が岸辺を埋め,その多くには小さな家を乗せている。人が住んでいる家の横にはさらに小さな作業小屋やトイレ小屋が設けられている。この日は天気が良かったので,風景写真はきれいに撮れている。

住民の足となっているチェス(エンジン付きの小舟)がずいぶん多い。チェスは上流側でダヤクの人々が使用していたロング・ボートに比べて,全長が短く,幅は少し広い。それに合わせて船底を平にしており,エンジンを使用することを前提にした構造になっている。

支流の西側地区も対岸と同じような木道になっている。少し上流側に歩いてみると対岸の緑が少し増えてきた。茶色のねっとりとしたうねるような水の流れの向こう側に緑が半分,家並みが半分の景色となっているので写真にする。

魚篭(びく)

水中に沈められたカゴを見かけた。二つのカゴをくっつけているのでハート型に見える。おそらく魚を入れておくためのものであろう。残念ながら浮き家からは手が届かないので中身は確認できなかった。

日本では竹でこのようなカゴを作るが,この辺りにではラタン(籐)がカゴ作りの主要材料だ。マハカム川の上流部に居住するダヤクの人々はさまざまな種類のラタンを使い,カゴやマットを編む。

男たちが周辺の森からラタンを切り出してくると,女性や年配者がそれを裂いてさまざまな生活用具を作り出す。世界のさまざまな地域で,人々は自分たちの回りで得られる自然の産物を利用して生活用具を作り出してきた。それは先人から受け継がれてきた大切な知恵と技術である。

そのような伝統的な社会はこの1世代か2世代のうちに急速に変わってきた。安価な工業製品が世界のすみずみまで入ってきたため,技術と時間をかけて作られた生活用具はプラスチックに置き換えられつつある。伝統的な社会を支えていた多種多様な自然の産物は,近代化の資源として恐ろしいほどの速さで消費されている。それは,地中から取り出される資源についても同じである。

私たちは自然資源が尽きた後に,どのような社会を思い描くことができるのであろうか。20世紀後半から急激に拡大した近代文明(石油文明)において,果たして人類は本当に進歩しているのであろうか。

西洋文明に絶望した画家ゴーギャンは19世紀の終わりにタヒチ島に渡った。しかし,そこも彼にとっては楽園ではなかった。貧困と絶望の中で彼が遺書代わりに描いたのが「われわれはどこから来たのか,われわれは何者か,われわれはどこへ行くのか」である。

この139cmX 375cmの大作はゴーギャンの代表作とされており,その意味深長な題名により広く知られてるようになった。ゴーギャンがこのような画題を思い至った精神的背景は彼が少年時代を過ごしたカソリックの神学校にある。

この神学校では生徒たちにキリスト教の霊的なものを理解させるため,教理問答を実施していた。その中の3つの基本的な問答は「人間はどこから来たのか」,「どこへ行こうとするのか」,「人間はどうやって進歩していくのか」であった。

この問いかけのうち最初の二つはすべての宗教に共通する根源的なものである。最後の一問はキリスト教的には天国に通じる階段を上るためにはどのような信仰をもてばよいのかという問いかけであろう。僕はこの一問を「人類にとって進歩とはいったい何であろうか」と言い直してみたい。

布団干し

この日は天気が良かったので木道にはたくさんの布団や枕が並べられていた。こんなときは板敷きの木道がとても役に立つ。こちら側はほとんどバイクも通らないのでとくにジャマにはならない。

背中から開く

川の近くで開いた魚を干してある。ここでは背開き(背中から包丁を入れて開く)が主流のようだ。日本では地域と魚種により背開き,腹開きの両方が混在している。どちらの方法をとっても日本では頭から尻尾まできれいに開くのが普通だ。

ここのものは片側が途中で切れてしまっている。日本人なら「こんなだらしのない開き方はがまんできない」とおっしゃられる方も多いだろう。そのあたりは国民性の差異ということだろう。

ここでは虫除け網などは使用せず完全にオープン状態で干物を作っているがハエが見当たらなかった。地域全体が水没してしまうのでヤブ蚊はたくさんいても,ハエにとっては繁殖しずらい環境なのかもしれない。

水没地の学校

水がまだ残っている地域に学校があった。建物は東側地区と同じものだ。すでに授業は終了しているのに,一部の教室から声が聞こえてくるので訪問してみる。男の子と女の子がコーランの読み方を習っている。これはおそらく課外授業なのだろう。

イスラム教の聖典コーランはアラビア語のものしか存在しない。預言者ムハンマドを通して伝えられたアラーの言葉はアラビア語であり,その教えはアラビア語で朗誦しなければならないとされている。

しかもこのとき独特の抑揚をつけた読み方が要求され,シリアのようにアラビア語を母語とする国でも,朗誦の手ほどきを受けなければ正しく読んだことにならないというやっかいな側面がある。

そのため,アラビア文字(アラビア語ではない)はイスラム世界で広く使用されるようになった。インドネシアもイスラムの浸透とともにアラビア文字が使用されるようになったが,オランダの統治時代にラテン文字表記に変更された。

この表記変更により,インドネシアではイスラム教徒でありながら,コーランを読めない人が出てくるようになった。おそらく学校の正規の授業ではアラビア文字の読み方は教えていないであろう。

これに危機感を覚えた人たちがモスク,寺子屋などで子どもたちにアラビア文字の読み方を教えている。さすがにアラビア語の意味は分からなくても,声に出してコーランを読むことはできるようになる。

しかし,この学習は大変である。ここの子どもたちは多くの時間を学習にあて,複雑なアラビア文字の読み方をマスターするのだ。なんといっても遊びたい盛りの子どもたちである。

僕が教室に入ると先生が自ら男子を並ばせて集合写真を撮らせてくれた。その写真の中には何人か仮面を被った子どもが混じっているのはご愛嬌というものだ。

女子の写真はずっと楽だった。女子の服装は学校の制服や家で着る服装とは異なっている。ゆったりとしたズボン,膝までのゆったりとした長い上着,それにヘジャブを被っている。

やはり,コーランの読み方を学ぶということで,礼拝時と同じ服装になっている。かわいらしいお人形さんのような集合写真がとれたので,これはラッキーであった。授業が始まると,子どもたちは先生の後を一生懸命に声を出して読んでいた。

帰りのチェスが見つからない

さて,一通り支流の西側地区を見たので対岸に戻ることにした。しかし・・・,どこにも対岸に渡してくれる舟がいない。とりあえず南の先端部まで行ってみることにした。ところどころで人を見つけると対岸に渡りたいと身振りで伝えるのだがさっぱり要領を得ない。

結局,南の先端部まで行き,再び戻り,ようやく家具を製造する筏の家のところで親切な小舟に拾われた。彼はどうしても料金を受け取ってくれなかった。「テリマ・カシ」とインドネシア語でお礼を言ってお別れする。炎天下をけっこう歩いたため,宿で水を浴びベッドで横になる。

25回忌の食事会

夕方になると宿のメンバーが荷車に大鍋の料理を積んで出かけるので一緒に会場に向う。そこは特別の会場ではなく宿の親戚の家のようだ。すでに顔見知りのおばんさんたちが準備を進めている。 食事が始まるのはまだまだ先のようなのでいったん宿に引き上げる。日がとっぷり暮れてから再び会場の家に行く。歩いて5分もかからないところだ。

すでに料理の盛り付けはほとんど終了している。家の中には女性と年配の訪問者が集まっており,外の板敷きのスペースには男性が多い。また,隣の玄関スペースのところにも近所の人が集まっている。

07:30のアザーンがあり,人々は礼拝に参加する。礼拝は家の中でするので,このときは各部屋がいっぱいになる。礼拝が終了して食事会となる。僕もごはん,チキン,スープ,水をいただく。

水はプラスチックの容器に入っており,上からストローを刺して飲むタイプだ。人々は飲み終わった容器をその辺に捨ててしまうので,僕がダンボールでゴミ箱を作ったら,どこかに片付けられてしまった。う〜ん,ここにはゴミ箱という文化はないのかなあ・・・。

周辺の人たちの写真は特に問題なかった。光源の弱いフラッシュでとなりの家の玄関スペースで食事をする人々の写真を撮る。暗いためほとんどフレームは決められない。玄関の階段に坐っている女性たちからも写真のリクエストがくる。

家の中でも食事が行われている,こちらは家族連れや女性が多い。食事もできたし,写真も撮れたし,デザートの果物もいただけたしで満足のいく25回忌であった。


トゥリン   亜細亜の街角   バリッパパン