亜細亜の街角
マハカム川をパブリック・ボートで遡る その2
Home 亜細亜の街角 | Mahakam River / Indonesia / Feb 2009

マハカム川の船旅  (地域地図を開く)

07:00 サマリンダ
09:00 テンガロン
15:20 コタバグン
15:40 アンクッ
16:40 ムアラ・ウィルス
18:00 ムアラ・ムンタイ
01:00 ムラッ
06:00 トゥリン
07:30 ロング・イラン
10:10 スンガイ・スマトゥリアン
12:30 カンポン・ルータン
13:25 カンポン・ガタビラン
15:20 ロング・ブグン
17:15 ロング・フブン
18:00 ロング・ラハム
19:00 ケンポルサハン
19:30 カンポン・ルグンダマイ
20:30 ママハット
02:30 ロング・バグン

15:20|コタバグン

少し大きな町が見えてきたと思ったらコタバグンであった。サマリンダからここまでは約120km,それを8時間かけて遡行してきたことになる。この時点の平均時速は15kmである。

ここはクタイ人の多い地域である。クタイ人は東カリマンタン州人口の約10%を占める先住民族である。石油,石炭,木材資源が豊かな東カリマンタン州の人口の半分はジャワ人,ブギス人などインドネシア成立後に移住してきた人々によって占められている。

現在のテンガロンのあたりでサンスクリット語で記された古い石碑が発見された。4世紀後半から5世紀頃と推定される石碑には「この地をムラワルマンが支配しており,王国はヒンドゥー教に改宗し黄金,牛を寄進した」と記されていた。

これはジャワ島の王国と並んでインドネシアでは最古の王国の記録である。ずっと後の時代に同じ地域に再度クタイ王国が登場する。こちらは16世紀になってイスラム教に改宗し,王族がブギス人に代わってからも20世紀半ばまで存続した。

コタバグンの船着場は可動式のものであった。川の場合は季節により水位が変動するので上下に動く浮き桟橋になっていることが多い。船はこの船着場に接岸し,人と荷物を出し入れする。川の反対側は湿地帯になっており,水位が上がると大きな遊水地になるようだ。川幅はおよそ500m,茶色の水がゆったりと流れている。

15分ほどで人と荷物の移動が収まると船はすぐに動き出す。船着場側の川岸は水上家屋で埋め尽くされ,その前にはいくつもの小さな水上トイレである。小屋の中にはトイレ用の穴がある。人々はまず水を汲んでおき,用を足した後はその水でお尻を洗う。完全なる水洗トイレである。

16:10|水位が上がると大きな遊水地になるようだ

マハカム川の中流域は土地が平坦のため川の水位が上がると水は周辺に溢れて広大な水系を形成する。このような地理的事情によりこの辺りには大小の湖沼が点在している。雨季に溢れる水は人間の活動を拒んできたが,周辺を見る限りでは力関係は逆転しているようだ。

16:15|熱帯雨林のパネルのようなものだ

動き出して10分くらいで集落は途切れ,川岸にわずかに樹木が残る風景に変わる。川岸から背後に向って樹木が高くなっていく。高いものは30-40mくらいであろう。往時はこのような光景をマハカム川流域の全域で見られたはずだが,そのような低地林は川に近いところから破壊されて農地等に転用されていった。ここから見えるものは川岸に立てかけた大きなパネルのようなものだ。

16:30|川岸の樹木が途切れるとこんな光景になる

樹木に遮られて先は見えないけれど,おそらくこの樹木は林と呼べるほどの厚みはもっていないだろう。川岸の樹木が途切れるところがあった。やはりはるかかなたまで森は消滅していた。

16:15|石炭の台船がタグボートに引かれる

16:40|携帯電話用のアンテナ

小さな村落があり,そこには三本の鉄塔が立っており,少なくとも一本は携帯電話用のアンテナのようだ。このような内陸の地域では電話網を敷設するより携帯電話にした方がはるかに少ない投資で済むことだろう。内陸部の人々は固定電話を飛び越えて一気に携帯電話の時代に入っている。

17:15|果実をたくさんつけた木があった

17:40|少し高い農地は水没していなかった

この頃からカメラに異変が起きていた。夕暮れの風景を撮るとときどき画像に横線が入るようになった。明るい被写体の場合はこの現象はあまり起きないので,しばらくはだましだましで使うことにする。その代わり画像はしっかり確認しなければならない。

このような場合に備えて同型の予備機を持ってきているので,いざとなれば切り替えることができる。このカメラはおよそ1月後に横線の入る確率がずいぶん高くなり,予備機に交換することになった。

17:55|こうなると農地か湿地かが分からなくなる

17:55|視界が開けると森の残骸が見える

17:55|そろそろムアラ・ムンタイが近い

コタ・バグンを過ぎるといわゆる湖沼地帯となり,ムアラ・ムンタイはその中心に位置する町である。ここからマハカム川を離れて支流を行くとジャントゥル,タンジュン・イシュイに行くことができる。

ムアラとは川の合流点を意味し,ムアラ・ムンタイはやはり川の合流部に位置していた。この地理的条件のためこの町は船の中継点として大きくなった。川幅がだいぶ狭くなってきたので水上家屋ならぬフローティング・ハウス(筏の上に置かれた浮き家)を間近に見ることができた。

18:00|ムアラ・ムンタイ,そろそろ夕暮れとなる

ムアラムンタイの少し先で日没となる。夕日の写真を撮ろうと屋根の上で待っていたが,太陽は雲の中にストンと落ち込んでしまい,夕焼けにはならなかった。

食堂に下りて夕食を摂ることにしよう。一階の船尾にある食堂の料金はナシ・チャンプル(ごはんの上におかずを乗せたもの)が15,000ルピア,ミー・スープ(肉団子入りのラーメン)が13,000ルピア,コーヒーは5000ルピアといずれも市価の1.5-2倍である。

夕食のナシ・チャンプルは内容はチキン,ゆで卵,豆腐と野菜を香辛料で炒めたものであり,味はとても良かった。ここで食事を摂る人は限られている。一階甲板の乗客はほとんど持参の食事および立ち寄った船着場で売りに来たもので済ませていた。

二階の部屋の寝心地は悪くなかった。エンジン音と振動はあるものの,眠りを妨げるものではない。日が落ちると温度も下がり,長袖のトレーナーを着込んで気持ちよく寝ることができた。荷物は貴重品を含めて布団の下の荷物室に入れておくので,少なくとも寝ている間は盗難の心配はない。

船は暗くなってもそのまま動き続けている。川の周辺には灯りはほとんどない。暗闇の中を二階の前方に取り付けられた二基のライト,屋根の側面に取り付けられたライトを頼りに船は進んでいく。繰舵手は複数おり,4-5時間で交代している。

01時にムラッに到着した。大きな町だ。深夜にもかかわらず船着場には物売りの人々が集まっている。乗客や荷物の出入りが多く,停船時間はけっこう長かった。少なくともここまでは道路ができており,サマリンダからバスで移動することができる。町の中にも車が走っている。

08:40|要求があるとこんな所にも立ち寄る

トゥリン(テリン)に到着する。まだまだ暗くて写真にならない。木製の桟橋に向って船は近づき接岸する。まず舳先の部分を付けて,船員がロープで固定し,舵を切った状態でエンジンをふかすと船の側面が桟橋に横付けされる。桟橋と船の舷側には衝撃吸収用のタイヤが吊るされている。

ここではたくさんの荷物が積み込まれた。トゥリンまでは道路ができており,ここから上流側への荷物輸送は船に頼るということになっているようだ。この船は乗客の要求があればどこにでも立ち寄るようになっている。船は小さな集落に停まっている。丸太を組み合わせた筏が船着場になっている。舷べりまでは1mほどあるので,乗客は舷側に取り付けられた衝撃吸収用のタイヤを足がかりに乗船する。

08:45|丸太を組み合わせた筏が船着場である

そのすぐ横では女性たちが洗濯をしている。陸から筏までは板が渡してあるが半分水没している。地元の人たちはビーチサンダルか裸足なのでそこを歩くのはまったく問題がない。しかし,僕のようにクツをはいた旅行者にとってはなかなかの難路である。マハカム川の流域に滞在しているとき,このような川べりの筏にアクセスしようとしたが,足場が悪くて断念したことも何回かあった。

女性たちが洗濯している筏には小さな小屋がある。ここはトイレ兼着替えの場所になっている。午後になると人々は川で水浴びをして,そこで着替えて,ついでに洗濯もする。この集落の土地は水面から2-3m高いところにある。今までの風景は川岸が水没するものであったので,ちょっと目新しい。

08:45|200mぐらいで次の船着場に立ち寄る

08:51|川岸の斜面は森林に覆われている

このあたりでは陸が水面よりだいぶ高くなってきた。川岸は斜面となっており,現在の水面から1mくらい上のところに水に浸かった痕跡がある。ここの最大水位はそのあたりなのかもしれない。川岸の斜面は森林に覆われている。もっともその背後の状況がどのようになっているかはここからでは分からない。もしかしたら,劣化しているものの森林が残されているのかもしれない。

小型船が丸太を集めている

しかし,現実はそう甘くなかった。少なくともこのあたりでもほとんど森林は残されていない。残されたわずかな森林からの木材を小型船が集めていた。カリマンタンの森林が無くなるというのは決して大げさな表現ではない。

10:10|スンガイ・スマトゥリアン

10時にスンガイ・スマトゥリアンに立ち寄る。戸数は100戸ほどの小さな集落である。船は自分よりずっと小さな水上家屋の船着場に上手に接岸する。ここの川岸も筏に乗せた浮き家が多い。

10:20|焼畑あるいは焼畑から回復途中の土地

この辺りの川岸には焼畑あるいは焼畑から回復途中の土地が散見された。焼畑は内陸先住民族のダヤクの人々が採用してきた伝統的な熱帯農業の一方法である。一般的に熱帯地域においては土壌は栄養分に乏しい。これは落ち葉などの植物の生産物はすみやかに分解され他の植物に吸収されてしまうからである。日本の広葉樹林のように腐葉土が厚く蓄積されることはない。

一見豊かに見える熱帯雨林も,栄養分はほとんど植生に蓄積されており,土壌の表面15cmほどのところだけに栄養分があるに過ぎない。ダヤクの人々が農業を行うのは丘陵地帯なので薄い土壌の地域である。彼らは特定の区画の森林を伐採し,乾季に火入れを行う。樹木や植物を燃やした灰はアルカリ性であり,肥料にもなる。

彼らは陸稲を栽培するが土地を耕すことはしない。焼いた後の土地に棒で穴をあけ,種子を入れていく。この方法は熱帯の強い雨で土壌が流出することを低減している。農民は1シーズンまたは数シーズンある区画を使用すると別の区画に移動していく。このため英語では「Shifting Cultivation」という。一時的に使用された区画は数年で森林に戻り15-20年後に再び利用される時には豊かな二次林となる。

このようなサイクルでダヤクの人々は持続的な熱帯農業を営んできたが,それはボルネオ島が人口希薄地域であったことにより実現できた。ダヤクの人々はアダットという慣習法により土地利用の持続性を担保してきたのだ。

目の前にあるものは川岸の斜面に切り拓かれた1haに満たない狭い焼畑農地である。機械を使用せず人力だけで森を伐採するのは大変な重労働であり,その限りでは過剰な開発とは無縁なものであった。

11:20|内陸の道路

川岸の斜面が削られ,むきだしの赤土となっているところがあった。内陸の道路を造っている現場らしい。川岸から背後に向って削られた土地が広がっている。

未開の土地に道路を造るときは重機や物資の輸送面から,すでに出来上がった道路を起点にして,そこから内陸に伸ばす方法が一般的である。

カリマンタンもそのような方法が取られているとすれば,すでにトゥリン(06時に通過)からここまで道路開発は進んでいるのかもしれない。ロング・ラハム(18時に通過)の1時間ほど手前にも建設現場があり,想像以上に道路建設は内陸部に延びている。

12:00|はじめて木材運搬船を見かけた

道路ができると周辺の開発は急ピッチで進行することなる。この道路が中央部山岳地域に到達した時は,商業伐採で劣化した程度にとどまっている土地にもアブラヤシ農園開発が始まることだろう。

カリマンタンではすでにマレーシアとの国境地帯に180万haのアブラヤシ農園を開発する計画が進められている。貴重な丘陵部の熱帯雨林はどうなるのか,ダヤクの人々の土地権はどうなるのか・・・,大量の二酸化炭素を放出する焼き払い型の開発の波はもうすぐそこまで来ている。

12:05 積み出しを待つ丸太の集積所

はじめて木材運搬船を見かけた。このあたりで木材生産が行われているのは驚きであった。商業伐採は熱帯雨林破壊の先兵であり,このあたりの低地林はとうの昔に価値のあるものは伐採されてしまったはずだ。現在残っているとすればそれは村落の共有林であろう。

このあたりはダヤク人の土地であり,コミュニティの同意無しには森林伐採はできないはずだ。それとも彼らの土地権を無視して伐採したものであろうか。

重機が積出の準備をする

わずかな焼畑で陸稲を栽培していたダヤク人の社会にも貨幣経済は容赦なく入り込んでくる。高額な町の商品を買うためには,手っ取り早く共有地の大きな木を売ってしまおうと考えることがあっても不思議はない。

木材運搬船はタグボートで筏のようにまとめられた200本ほどの丸太を引いていく。川岸には積み出しを待つ丸太の集積所が何ヶ所かある。とはいうものの,サマリンダでは木材運搬船は見なかったし,ここまで来る間も木材工場は見かけなかった。この丸太の行き先が気になる。

13:30|カンポン・ガタビラン

このような小さな集落にも乗客が利用すると停泊する。このあたりの川幅は150-200mくらいだ。風景は変わりばえしない。茶色の水の流れ,川岸の二次林,川岸の浮き家,水上集落・・・,さすがに退屈してくるね。斜面の上にあるのではっきりとは分からないが,この集落で陸上に家が多い。

船はここでも20分ほど停泊してから出発した。このような各駅停車ではいつになったらロング・バグンに到着するのか見当がつかない。

15:30|大きな木にステップ状に刻みを入れる

川岸の斜面のところになつかしい木製の階段があった。階段といっても板材を組み合わせたものではない。大きな木にステップ状に刻みを入れて歩けるようにしたものである。15年前にボルネオ島のサラワクを訪れた時に,ダヤクのロング・ハウスにホーム・ステイをしたことがある。ロング・ハウスは高床式になっており,このような丸太のステップを上ることになる。

丸太は急角度で取り付けられているためステップはとても不安定でクツのまま上るのはかなり難しかった。まあ,いざとなれば高さは2mほどなので飛び降りれば済むことである。ロングハウスの住人は裸足なので軽々とここを上り下りしていた。この川岸のものはより丸太が長くなっているが,角度が緩やかなので問題はないだろう。

18:00|ロング・ラハムには看板があった

ロング・ラハムはやはり二つの川の合流点に位置している。この村落には「Kampung Laham」と記された看板があったのですぐに分かった。筏の上の浮き家や陸上の木造家屋から少し離れたところに立派なキリスト教の教会がある。

ダヤクの人々にはキリスト教徒が多い。かってはアニミズムやシャーマニズムであったダヤク人の社会もキリスト教やイスラム教に接することにより,相当割合が改宗した。

18:00|立派なキリスト教の教会がある

ボルネオの内陸部に居住する先住民族はダヤクと総称されるが,実際には多様な民族集団から形成され,社会制度も平等社会から貴族制度や奴隷制度をもつものまでずいぶん異なっていた。ボルネオ島を東西に二分割した英国とオランダの宣教師は奥地の村落まで足を伸ばし,キリスト教を広めた。このため内陸部のダヤクの社会ではキリスト教に改宗する集団が多数を占めるようになった。

もっとも,イスラム勢力と接することの多かった集団はイスラム教に改宗しており,現在のダヤク社会は伝統宗教,キリスト教,イスラム教が混ざり合っている。また,一神教に改宗しながらも伝統的なアダットに入り込んでいるアミニズムを完全に捨て去ったわけでもない。


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