亜細亜の街角
この町の発展を支えてきたのは木材と石油である
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サマリンダ  (地域地図を開く)

ボルネオ島は全体的に山がちな地形が多く,マレーシアとインドネシアの国境になっている北東から中央部を通り西に連なる山脈と東から中央部を通り南西に連なる二つの弧状の山脈が走っている。

ボルネオ島の東側に位置するスラウェシ島とハルマヘラ島は島の形状がファベットの「K」の形となっていることで知られているが,ボルネオ島の山脈も上空から見るとアルファベットの「K」の形となっており,学術的に「3K諸島」と呼称することもある。

マハカム川は全長980km,島の中央部から南東に流れ下り,マカッサル海峡に注ぐボルネオ島を代表する川の一つである。河口部に巨大な三角州をもち,その扇の要にあたるところにサマリンダの町がある。現在のサマリンダは人口約70万人,東カリマンタン州の州都である。

この町の発展を支えてきたのは木材と石油である。マハカム川流域の木材開発は1950年代から始まり,1980年頃に最盛期を迎えた。その頃は日本向けだけでも毎月30万m3もの原木が積み出されていた。

しかし,1985年に木材産業における付加価値を向上させるため(森林保護のためではない),インドネシア政府は原木の輸出を禁止した。原木の買い付けのため駐在していた日本の商社マンもこの町を離れることになった。

海底油田開発は1960年に始まり,1970年にマハカム川河口三角州の北側にアタカ油田が発見され,続いて南側にはブカパイ油田が発見された。アタカ油田の可採埋蔵量は6億バレルと推計された。

可採埋蔵量が5億バレル(8000万キロリットル)以上の油田は巨大油田とされるので,アタカ油田は立派な巨大油田である。1972年から生産が開始され累計生産量は6.5億バレルとなり,発見時の推定可採埋蔵量を超えている。

サマリンダはマハカム川の上流部に向かう船旅の起点となっている。現在は内陸部まで道路が通じているので,コタバグンやムラッまでバスで行くことができる。しかし,街の西側にある船着場からカパル・パブリックに乗って,のんびりと船旅を楽しむのはまた格別の趣である。

オニテナガエビの夕食

15時のバスに合わせ,13:30に宿を出る。うまい具合に宿の近くの広場に停まっているアンコタ(乗り合いワゴン)がKM6バスターミナルまで行ってくれた。

荷物を持って橋のあたりまで歩かなければならないところを助けてもらったので5000Rpを払うことにする。お釣りを出そうとする運転手に「とっておいてよ」と告げ,握手をして車から降りる。

サマリンダ行きのバスはすぐに見つかった。座席指定になっているのでザックを自分の席に置き,近くの屋台を見学に行く。今朝,市場で見かけた「オニテナガエビ」があった。

テナガエビは「テナガエビ属」に分類されるエビの総称で,体長は5cm-20cm,熱帯や温帯の淡水域や汽水域に生息する。名前の通り第2歩脚が長く発達し挟脚となっている。私たちになじの深いカニやザリガニは第1歩脚が大きな挟脚になっているので,テナガエビは少し変わり者である。

オニテナガエビはこのグループの中で最大の種で20cmほどの本体に30cmほどの長い挟脚をもっている。この挟脚の色は鮮やかな青色なので市場でもとても目立つ存在である。

これほど長い足だと獲物を捕まえるにもうまくいかないように思うのだが,市場で大量に並べられているところをみると,この一族はけっこう繁栄しているようだ。

屋台の料理ケースに入っているものはすでに炭火で焼かれているため挟脚を含め真っ赤になっている。値段を聞くと一匹25,000Rp(250円)だというので,ちょっと思い切って注文する。

おばさんはもう一度炭火の上で温め直して,ごはん,スープと一緒に出してくれた。この巨大な川エビは海産のエビとほぼ同じ味である。インドネシアではサンバルという辛いタレを付けて食べる。

僕はほんの少しタレをつけていただく。量が多いのでとても幸せな気分になる。日本人の味覚からすると,やはり塩焼きが良さそうだ。ということで,これが今日の夕食になった。

バスは定刻の15時になってもいっこうに動き出す気配は無い。乗客と思われる人たちは,周辺でのんびり待機している。その時がくればバスは出発するよというのがインドネシア流の考え方らしい。

バンジャルマシン(15:45)→サマリンダ(10:00) 移動

15:45にバスは動き出した。空港方面にしばらく走り,車内食(水と菓子パン)の受け取りのため15分ほど停車したので,実質的な出発は16時となった。僕の座席は前から二列目で,ザックは最後尾の座席に置くことになった。

バスはいちおう禁煙となっているが,かなりの人たちは平気でタバコを吸っている。僕の経験ではバスや列車の中の喫煙は中国,インドネシア,フィリッピンの順にひどい。中にはエアコンの入った車内でタバコを吸う人もおり,こんな人が近くにいるとさすがに注意することになるが,それほど効果はない。

道路は片側一車線,舗装されており状態は良い。道路が周辺の土地から1-2m高くなっているのは出水に備えてのことだろう。道路の両側はずっと高床式の家並みが続いており,場所によっては水が出ている。

ところどろで家並みが途切れ視界が開ける。300mほど向こうに高さのそろった森林のラインがあり,その手前は湿地や荒地になっている。水田も散見された。現在は田植えの時期らしく,一部は薄い緑に染まっている。

18:45,日没の礼拝を呼びかけるアザーンが通り過ぎるいくつかのモスクから聞こえる。夕日を背景に立派な水田が広がっている。横が200m,奥行きが100mほどあり絵になる風景だ。でも,写真にはできなかった。

19時にトイレ休憩となる。インドネシアに限らずアジアの国々をお金をかけずに旅行するためにはローカルの水洗トイレに慣れなければならない。トイレットペーパーは用意されていないし,詰まりの原因になるのでそれをトイレに流すことも禁止されている。

そのため,用を足したら蛇口からあるいは水槽から小さな柄杓で水を汲み,左手でお尻を洗うのが一般的である。この方法は慣れるととても快適である。特に下痢をしてトイレの回数が多いときは,紙を使用するとお尻が痛くなる。そんなとき,この方法だとずいぶんお尻にやさしい。

日本でも水でお尻を洗うトイレがずいぶん普及したのは紙を使用するより快適だからだ。まあ,そのようなトイレと原理は同じなのだが,さすがに僕も日本では左手で洗うことはない。

夜になると気温は下がる。前列上部の小窓が開いているので風が吹き込んでくる。半袖では寒いので長袖のトレーナーを着込む。それでも寒いので近くの小窓は閉めてもらった。

僕にとってバスの座席で寝るのは容易ではない。せいぜいウトウトするくらいのもので,それでも頭が前のめりになるため首筋が痛くなる。明け方の05:30にバスはフェリー乗り場に到着した。

22時に食事休憩となる

この頃から最後尾に陣取っている体格の良いおじさんと仲良くなり,席も後ろに移動した。このおじさんはけっこう世話焼きである。近くに乳飲み子を抱いた若い母親がおり,彼女はおじさんに子どもを預けてバスの外に出ていた。

近くの乗客とも親しくなり,このような関係ができると荷物は放置しておいても大丈夫である。22時に食事休憩となる。僕はたいして食べたくなかったので,お茶と非常食のビスケットをいただくことにする。

ヨーヨーを作ってあげると大喜びである

この食堂では三人の子どもたちが母親の手伝いをしていた。注文が途絶えたところでヨーヨーを作ってあげると大喜びである。バスの後部座席の乗客も興味深そうにヨーヨー作りを眺めていた。

降りる場所を間違えて…

バスはそのままフェリーに乗り入れ,乗客はフェリーの座席に移動する。フェリーは朝焼けの石油施設の近くを航行している。次第に明るくなり,なんとか朝焼けの中で石油ガスを燃やす炎を撮ることができた。

再上陸してしばらく走り,ようやくバリッパンである。時刻は07時に近い。この先は写真にしておきたい風景がいくつかあったが,道路の両側にある樹木に妨げられうまくいかない。

09時にマハカム川にかかる橋の手前でバスは停車した。ここから上流に行くバスに乗車できるようだ。例の体格の良いおじさんに促されて下車したら,これは不正解であった。そのまま乗っているとバスは船着場の向かいにあるバスターミナルまで行ったはずだ。

町の中心部にあるモスク

サマリンダの安宿探しはずいぶん苦労した。何軒か回り,結局ガイドブックの宿情報にある「ヒダヤT」に泊まることにした。ここのフロントは英語がちゃんと通じるので旅行情報を収集するには都合が良い。

チェックインの前にフロントでパブリック・ボートについてたずねると,毎日07時にスンガイ・クジャンから出ていることが分かった。これで一安心してここに泊まることにする。

部屋は10畳,ダブルベッド,トイレ・マンディー付きでとても清潔である。料金は12.5万ルピア,これはインドネシアで宿泊した中でもっとも高い。この料金では連泊する気にはならない。明日はマハカム川を遡ることにしよう。

あらら,筆箱がない

部屋に入り日記を書こうとメインザックのサイドポケットを探したら筆箱がない。おやっと思い,南京錠のかかっていない他のポケットも探してみるとバリッパパン→タラカンの航空券,筆箱,ポケット・ティッシュ3個が無くなっていた。

航空券はジャカルタからバンジャルマシンに飛ぶとき,とりあえずとサイドポケットに入れ,しまい忘れていたのだ。これは僕の不注意である。旅行会社のカバー・ケースに入っていたので金目のものとまちがえられたらしい。

筆箱の中には蛍光ラインマーカー2本,水性ボールペン2本,それに替え芯が5本入っていた。日記を書くため書きやすい日本製のものを用意してきたけれど,すべて無くなってしまった。

水性ボールペンはこの町でも50円くらいである。書きやすさはさすがに劣るけれど,それほどひどいことにはならなかった。航空券はイーチケットではなかったので,バリッパパンの空港で買いなおすことになった。被害額は32万ルピアである。

盗難にあったのはフェリーに乗船しているときであろう。乗客はフェリーの座席に移動したので車内は空になり,扉はロックされていなかったようだ。旅行に出て盗難にあったのはこれが初めてなので,ちょっとショックであり,同時に安全対策をいつも徹底しないと同じようなことが起きうると肝に銘じた。

それでも,同じポケットに入っていた日記に使用しているノートやガイドブックが無事だったのは不幸中の幸いであった。僕の場合,旅行中の持ち物でもっとも重要なものはノートと写真画像を収納しているストレージである。

パスポートやお金は取り返しがつくが,旅行の想いでの記録された日記と写真は再生はできない。2004年から使用しているストレージはメインザックの衣類の間に置いているが,5回の大旅行によく耐えてくれた。

それに対してデジタルカメラ(Power Shot S60)は2万枚くらいが使用限界であり,故障に備えて同じものをもう1台予備機として持ち歩いている。2007年の旅行では予想どうり4ヶ月くらいでレンズ駆動部が故障したし,今回の旅行でもやはり3ヶ月くらいでときどき画像が乱れるようになった。

サマリンダは宿が高すぎるの一泊しかしなかった。しかも,船着場での情報収集,宿探し,昼食,筆記用具の店探しなどで時間をとり,15時を過ぎてから駆け足で街を歩いてみた。

マハカム川は人や物資の輸送の大動脈だ

町はマハカム川の北岸に広がっており,中心部と西側2kmのところに船着場がある。中心部の船着場は主として貨物用であり,西側の船着場から上流に向うパブリック・ボートが出ている。中心部の船着場には大小の貨物船が係留されている。かなり内陸部まで道路が通じたといっても,まだまだ川は人や物資の輸送の大動脈の地位を維持している。

川幅は600mほどあり,泥を溶かし込んでいるため水は茶色に染まっている。水深があるので少し大きな貨物船もここまで来ている。船着場は固定式で板張りとなっている。通常,川岸の船着場は水位の変動に備えて可動式のものになっている。ここは海から50kmほど離れているけれど,河口三角州に位置しているので水位の変動は上流に比べて小さいのかもしれない。

コプラを干す

船着場の空いたスペースでは男性がココヤシの実を四分割したものを内側の白いコプラを上にして干している。コプラは胚乳にあたる部分で栄養価に富んでおり,これを削り取り粉末状にしたものは料理の調味料のように使用される。

干したコプラは油脂を作る材料になる。ヤシの実石鹸はこの油脂を原料にして作られる。インドネシアやフィリッピンの港ではこの干したコプラの入った大きな袋を積み下ろしする風景がよく見られる。袋の中に入っていても一種独特の臭いがあるのでそれと分かる。

パイナップルの切り身

近くではおばさんがパイナップルを売っていた。ここではパイナップルの皮を切り落とし,四半分にして売られている。パイナップルの皮をとるのはけっこう大変だ。表面に凹凸があり,皮の部分を厚く削ってしまうと食べるところが少なくなってしまう。

凸の部分を削り,残った凹の部分をていねいに切り落とすと付加価値のついた切り身になる。四半分が1000Rp(10円),甘いジュースがこたえられなくてもう一ついただいてしまった。

ドリアンがいっぱい

川岸を西に向って歩くと石油関連と思われる施設があり,沖合にパイプラインが伸びていた。もちろんここは立ち入り禁止であり,ゲートのところには守衛が詰めている。。

ドリアンの露店がいくつかあった。果物の王様と形容されている。果実は球形もしくは卵形をしており,表面には固い突起がたくさん生えている。固い表皮の内側は4-5室に分かれており,そこにねっとりとした淡黄色の果肉が入っている。

かっては強烈な臭いのためホテルによっては持ち込み禁止としていたところもあった。現在のものは臭いの少ない品種に変わってきており,臭いを気にすることは少なくなった。果肉はそのまま取り出すことができるので,スーパーマーケットでは塊を発泡スチロールのトレイに入れ,ラップで巻いたものが売られている。

ドリアン1個はとても一人では食べきれないので,ときどき誰かが買って割っているところを見つけておこぼれをいただいていた。今日もドリアンの露店で買物をしている人がいた。彼はじっくりと熟れ具合を確かめている。

売り手はこれはというものの表皮の一部を切り取り熟れ具合を客に確認してもらう。彼はお気に入りを2個買って,その場で解体してもらい,果肉だけを持ち帰ろうとしていた。僕が近くで見ていたので,そのうちの一つを差し出してくれた。

食感はクリーム状,濃厚で甘い味はなんと形容してよいか分からない。果物を食べているというより,とろりとしたチーズを食べているという感じである。今回の旅行もドリアンを食べることができたので,彼に感謝しよう。

Kotak Amal Masjid

市の中心部とバスターミナルの中間に大きなモスクがある。バイクタクシーでスンガイ・クジャンの船着場に行く時に見つけた。思いがけなくドリアンをいただいたので,歩きは止めてアンコタに乗る。

モスクまでは3000ルピア,アンコタの運転手に「masijid」と伝えておいたので,彼はこのモスクの前で僕を降ろしてくれた。道路と建物の間は石畳になっており,その部分は車止めのため高さ1mほどの石柱が道路との境界に並んでいる。

Google の地図でサマリンダを調べてみると,このモスクがある場所は空き地になっていた。なんでも1999年に完成したそうだ。Google の航空写真は(特にカリマンタンのような地域では)それほど頻繁に画像が最新化されるわけではない。

塀の西側に隣接して巨大なミナレットが立っている

このモスクは非常に写真にしずらい。道路との関係から建物は南北を基線に設計されている。礼拝堂本体は方形の基壇部の四隅にミナレットを配し,中央部をもう一段高くして,その上にドームを置いている。

南側には基壇部の半分ほどの幅の入り口部分が突き出しており,その両側にもミナレットが配されている。その南側は基壇部と同じくらいの面積の中庭があり,中庭の南側に正門がある。この門の上にも低い飾り塔が配されている。

さらに広場を囲む塀の西側に隣接して巨大なミナレットが立っている。このようにミナレットが多く,しかも中庭が道路側(南側)に配されているため,モスク全体の様子を伝えようとするとよく分からない写真になる。

モスクの模型が展示されていた

モスクの全貌を見るためには南側の(50mほど)高い位置から俯瞰しなければならない。実は入り口の内部はホールになっており,そこにはモスク模型が展示されていた。その写真を斜め上から撮るとちょうどよい。もっとも,模型はガラスケースに入っているため,光の反射がずいぶんジャマであった。

照明がなくても十分に明るい礼拝堂空間

そこには喜捨のための鉄製の大きな箱もあり,そこに「Kotak Amal Masjid」と記載されていたのでこのモスクの名前を知ることができた。礼拝堂は巨大であった。方形の基部とその上のドームの構造がよく分かるようになっている。ドームの下部と,その下の方形の一段高くなった部分の周囲にはたくさんの窓あり,照明がなくても十分に明るい礼拝堂空間となっている。

ドームの内側は幾何学模様の装飾が施されている

礼拝の時間ではないのでこの広い空間には一組の家族連れがいるだけだ。空間を独り占めしている気分でしばらくじゅうたんの上に坐っていた。天井はちょうとドームの頂点にあたり,幾何学模様の装飾が施されている。

イランのエスファハーンで壁面はおろかドーム構造になっている天井も精緻で色鮮やかなタイルで埋め尽くされている驚嘆すべき造形を見ているので,ここのものはなんとシンプルなのだとつぶやく。

モスクの前でパチリ,姉妹かな

近くの子どもたちは凧揚げをしている

モスクを出る頃は夕暮れが近づいており,昼間の暑気も一段落してきた。近くの子どもたちは凧揚げをしている。かなり本格的なもので直径20cmくらいの胴にタコ糸が巻きつけられている。上空は適度の風があるようで凧ははるかな高みに点となっている。

カリマンタンは古くからここに居住している人々に加えて,スハルト時代の政策により人口密度の高いジャワ島やバリ島からの移民の人々も多い。そのため,人々の顔にも民族色が出ている。

中国系と思われる色白の兄妹がいる

みんなが同系の顔立ちであるとそれほど感じないのだが,このようにいろいろな顔が出てくると,この子はジャワ系,あの子はイバン系かななどと考えてしまう。幹線道路の事務所の前には中国系と思われる色白の兄妹がいる。写真のお礼にヨーヨーを作ってあげると,二人でいいポーズを作ってくれた。

逆光ではあるものの感じの良い一枚をものにする

近くに川があり周辺には水上集落が密集している。家の前にある洗濯台の周りで子どもたちが遊んでいる。幹線道路の橋からでは距離がありすぎるので水路の反対側から近づこうとした。

しかし,家屋が密集しており道が無い。民家の庭先を通り,格子戸を開けてもらいなんとか水上集落の板敷きの通路に出ることができた。逆光ではあるものの感じの良い一枚をものにすることができた。

夕食もひどく高かった

夕食は宿の近くでサテ(インドネシア風ヤキトリ)をいただく。値段を聞いても答えはインドネシア語のため分からない。おばさんが手のひらに数字を書いてくれた。10本で7000ルピアのようなので注文する。

味は悪くない。支払い時に1万ルピアを渡すと,おばさんは足りないというそぶりをする。手のひらを見せてもらうと7に重なるように1がある。さっきはこの1はなかったのに・・・。見間違えたのかもしれないと苦笑しながら支払う。


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