亜細亜の街角
■ミャワディとアジアハイウエーで結ばれた町
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パアン  (地域地図を開く)

タンルゥイン川に面したカイン州の州都,タイのミャワディまで150kmの位置にあり,タイ貿易の中継地として栄えている。町としての規模は小さいので十分歩いて回れる。

ここの見どころはミャンマー有数の聖地,タマーニャ山である。多くの巡礼者がタマーニャ僧正の説法を聞くためにこの地を訪れる。残念ながら僧正は2004年に亡くなり,巡礼者も格段に少なくなったようだ。

モーラミャイン→パアン移動

宿(10:30)→北側ジェッティ(11:00)(13:30)→パアン(15:00)と車で移動する。モーラミャインとパアンはタンルウィン川で結ばれており,定期船で行くことができる。ちょっとわくわくする船旅である。

街の北側に近代的な橋ができ,船はその下を通れないためパアンに向かう船着場は橋の北側に移動している。10:30に宿を出てサイカーで船着場に行く。

船着場ではほとんど英語が通じない。いろんな人の話を総合するとパアン行きの船は12:30に出発するらしい。目的の船はまだ入港していないので,停泊中の船の2階デッキで待つことにする。

尼僧に連れられた7-10才くらいの見習い尼僧がデッキに坐っていたので写真にする。ピンクの僧衣と茶色のたすきの服装で女の子と分かるが,この年齢の子どもは坊主頭にするとほとんど性別不明になる。

1階の甲板には地元の人が多数乗船しており食べ物屋もある。コメの麺にたれをかけたものを昼食にしたが,なんとも言えない味である。日本には「しょう油」というすばらしい万能調味料があり,日本人の味覚のベースを作っている。

しょう油は大豆,小麦,塩に種麹を加えて発酵させたものである。大豆のたんぱく質,小麦のでんぷんが麹菌,酵母,乳酸菌などにより分解される。これを熟成させることにより産生された複数のアミノ酸やブドウ糖,有機酸類が塩分と組み合わさってしょう油独特の「おいしさ」が生み出される。

しょう油は東アジア共通の味覚を形作っており,日本人がしょうゆ文化圏の地域に旅行しても(油っこさは置いておくとして)料理の味についてはそれほど違和感を感じないはずだ。しかし,そのような地域でもしょう油から外れた味付けの食事に出くわすとかなりの違和感や拒否反応を示すことになる。

この船の上での昼食もそのようなものであった。どのような調味料が使用されているのか,ほとんど味が感じられない。回りの人たちはこれがおいしいのだろうか。皆が興味深そうに見ているのでまずそうな顔もできず,ただ口に入れ,そしゃくして飲み込み,ようやく笑顔で容器を空にした。

橋の南側と異なり北側では川岸には高床式の住居が並んでおり,その向こうに新しい橋が見える。近くの桟橋にも2層の甲板をもった船が3隻も停泊している。ここではまだ水運が地元の人たちに支持されているようだ。

12:30を過ぎても目的の船は現われない。船着場の管理スタッフがやってきて「今日の船便は運行中止になった」と知らせてくれた。何人かの旅行者と一緒に唖然とする。仕方が無いので陸路で行くことにする。

幸いデッキで会話を交わしたフランス人夫妻がガイド付きのバックアップ用の車を用意していたのでパアンまで送ってもらった。彼らの娘さんが日本の大学に留学しているというので日本人旅行者に親切なようだ。

僕と一緒に船を待っていた他のヨーロピアンの旅行者はバス等を見つけるのに苦労したことだろう。パアンの町では地元のガイドからモーラミャインの船着場で見かけたヨーロピアンの消息を聞かれたが答えようがない。

Soe Brothers GH

ここまで送ってきてもらったフランス人夫妻にお礼を言って車から降りる。ガイドの助言により宿は「Soe Brothers GH」にする。表に看板は出ているものの入口を探すのに少し手間取った。

改装があったのか外観は特に古ぼけているという印象は無い。部屋は4.5畳,1ベッド,T/S共同で清潔である。難点は窓,網戸が入っていないので小さな虫がたくさん入ってきて閉口した。窓が閉めたままファンを回しても暑い。

パアンの風景

パアンはタンルウィン川に面したカイン州の州都である。街の家屋はほとんどが2階建てか3階建てで,古いものは木造,新しいものはコンクリート製になっている。

若いサイカー運転手がひまそうにこちらを見ている

サイカーが何台も並んでおり,若い運転手がひまそうにこちらを見ている。時計塔ようなミナレットをもつイスラム寺院は中に入ることができた。金曜大礼拝は終わっており,イマームの説教が行われていた。

かわいい被写体を撮りながら川のほうに歩く

子どもたちは写真が大好きなようだ。かわいい被写体を撮りながら川のほうに歩く。この地域は石灰岩地帯に位置しているため,平地から切り立った岩山がそびえる風景が見られる。

川岸の寺院を訪問する

町の中心部から歩いて7-8分でシュエインミャウ・パゴダに着く。横の広場では,若者がビーチバレーに興じている。毎日ここで試合をしているのか,なかなかの技量である。

石段を上り,寺院の建物を抜けると巨大な菩提樹が茂り,その先が見晴台になっている。ここはタンルウィン川と夕陽のビューポイントになっている。地元の人たちは川岸で,洗濯や水浴びをしながら夕暮れを楽しんでいる。

寺院の見晴らし台から夕日を眺める

西にあたるタンルウィン川の対岸には森が広がり,その向こうに石灰岩の岩山がシルエットになっている。夕陽は次第に低くなり,空と水面を茜色に染めながら沈んでいく。

小さな町に泊まると夕食をどこでいただくかが問題になる。メインストリートを中心に探してみると意外とたくさんの食堂がある。

しかし,一つの食堂におけるメニューは限られており,今日はごはん,魚のカレー,味付け卵,キューリの取り合わせで,料金は300Kyと格安である。夕食の時間帯に停電となりキャンドルサービスの食事になる。

朝食は宿のすぐ南側の食堂でいただく

窓を閉めたまま暑い状態で寝る。夜半になると急に冷え込んできてファンを止める。3時頃から表通りで物音がするようになり,1時間おきに目を覚ました。

朝食は宿のすぐ南側の食堂でいただく。モーラミャインの宿で一緒だったフランス人が横に坐った。彼も昨日の定期船キャンセルの被害者であった。バスで移動して,今日からバイクタクシーを貸しきって近郊の観光スポットを回るという。お互いの旅の無事を伝え合い別れる。

乗車率は100%である

宿の部屋から眺望

小型トラックの乗合自動車でタマーニャ山を目指す

パアンに来た目的はタマーニャ山を訪れるためである。町の中心部にピックアップ乗り場がある。07:45に乗合トラックバスに乗車,乗客がいっぱいになって出発したのは08:30である。所要時間は1-1.5時間である。

周辺はほとんど農地で石灰岩の岩山が点在している。パアンと国境のミャワディを結ぶ道路はアジアハイウエーの一部だ。しかし,外国人が行けるのはタマーニャ山までである。タマーニャ山で降りたのは僕一人で,残りの人はミャワディに行くようだ。

タマーニャ山

タマーニャ山を聖地たらしめたのはタマーニャ大僧正である。60才で出家しここで悟りを開いたと云われている。カレン民族と中央政府が武力対立していた頃でも,巡礼の旗を立てて多くの巡礼者がこの地を訪れたという。また周辺は庇護を求めるカレン難民のキャンプ地になっていた。

外国人用の宿泊施設もある。腹具合のせいで体力が落ちているので案内の僧侶と別れここで1時間ほど寝かせてもらった。この施設の壁には在りし日の大僧正の大きな写真が飾ってある。本人の代わりにこの写真を撮る。

到着早々,腹具合が怪しくなったので市場の向かいの茶店でトイレを借りに行くと,英語の話せる僧侶に出会い,山を案内してもらった。彼の話では残念ながら大僧正は2004年に亡くなっていた。

遺体は防腐処理され,ガラスの棺に入れられ,中腹の新しい金色のパゴダに安置されている。僧侶は「大僧正はきっと涅槃に行ったのです」と話してくれた。

山の中腹からの眺望

山の中腹から見ると,道路に沿って家が並んでいる。周辺はほとんど森になっており,農地は見当たらない。遠くの山の頂上にはパゴダが見える。ビルマの人々も高いところに寺院を建てる習慣があるようだ。

タマーニャ僧院から山のふもとまで石段が続いている。石段は森に隠れているので,正面から見ると,石段の登り口がトンネルの入口のように見える。

難民キャンプは普通の村になっていた

20年前はカレン民族の難民キャンプが広がっていたタマーニャ山の周辺には,当時の面影は無い。そこはもう普通の村になっている。カレンの民族衣装もほとんど見ることはなかった。

水の運搬車が並ぶ

ちょっと緊張気味である

この年齢の女の子は店をまかされる

参道沿いに露店が並ぶ

山地の少数民族の典型的な家屋だね

この車はよく動くものだと感心する

目鼻立ちの整っ姉妹だね

傘と日傘の取り合わせがおもしろい

民族衣装抜きでは僕にはビルマ民族とカレン民族の識別ができない。たぶんこの子どもたちはカレンなのだろうと推測するだけである。この国でも美白が信奉されているのか,すげの傘と日傘の取り合わせがとても可愛らしい。

アボガドで失敗

パアンに戻り市場で果物を買う。モーラミャインでは200-250Kyで買えたブンタンがここでは500-700Kyになっている。オレンジは2個で100Ky,これは全国共通価格のようだ。アボガドは200Ky,これは大失敗であった。固くて食べられない。あと1週間ほどしないと熟さないような代物であった。

モスクで折り紙を教える

中心部のモスクには異教徒の僕も自由に入ることができる。ここはムスリムの人々の社交場にもなっているようだ。人々はここでのんびり会話を楽しんでいる。日が傾いた頃,モスクの前の床に腰を下ろし夕涼みをしていた。ムスリム帽を被った少年たちが集まってきたのでオリヅルを教えてあげる。

この床は大きなタイル張りなので折り紙には適している。生徒の数は6人,そのうち10人を越える人数になってしまった。完成品を持って集合写真を撮る。周囲の大人たちもにこやかにそれを見ているので問題は無さそうだ。

気が付くとモスクを囲む鉄格子の柵の向こうには30-40人の観客が集まっており,ちょっと驚く。さすがに仏教徒の人々がモスクの内部に入ることは無い。

井戸から水運搬車に給水する

お食事中に失礼します

パアンの町には映画館もある

托鉢の風景

高僧の巡回風景

早朝は霧が出て宿の窓から見ると近くにあるモスクのミナレットがかすんでいる。そのまま曇り空になったので南の方向に歩く。本物の時計台がありその周囲はロータリーになっている。ここは長距離バスの発着所になっている。

ここから西に歩くと盛装の人々が道路に出て何かを待っている。しばらく待っていると車を先頭に人々の一団がやってきた。その少し後ろから僧侶がやってくる。行列の前と後ろには自動小銃をかまえた兵士が警備している。

徳の高い僧侶がこの地域を巡回しており,人々は僧侶に供え物を捧げるためにここで待っていたのだ。人々は手を合わせて高僧を迎える。上座部仏教では僧侶が女性に触れることは戒律で禁じられている。彼は手にした手ぬぐいのような布で人々に触れ祝福する。

トラックの乗合自動車

トラクターのエンジンを搭載した小型トラックが停まっている。荷台も屋根も人でいっぱいである。後ろの車輪に片足を乗せ荷台の子どもたちの写真を撮る。風が当たるのかこの気温にもかかわらず冬服を着込んでいる。

この子たちもどうみても日本人だね

町から離れ田舎道を歩く

町の外れにある湖に向かって歩く。行く先々でお茶を飲んだり,写真をとったりしながらのんびり歩く。道の両側には緑が多く田舎の雰囲気を楽しむ。子どもたちが軒先で勉強している家があった。ちょうど机があったのでオリヅルを教えてあげる。なかなか筋が良く,きれいに仕上がる。記念写真をとってお別れする。

湖周辺の風景

湖にかかる水道橋を普通の橋とかんちがいして民家の裏手から苦労してアクセスする。水道橋はよい絵になったけれども,そこから本物の橋まではヤブ道を歩くことになった。

湖の橋は中心部に東屋をもっている。ここから湖の(たいしたことのない)風景を眺める。湖には小さなハスととても小さな葉をもった水性植物が水面に葉を浮かべている。水性植物は水面に茎を伸ばし白い小さな花を咲かせている。

インドキワタ(インドワタノキ)

インドからミャンマーにかけて「インドキワタ」をよく見かけた。この赤く大きな花に出会わなかったら,おそらくこの木の写真を撮ることはなかったであろう。亜熱帯の短い冬が終わると葉の無い枝に花をつける。

花の中央には椿のようにおしべ・めしべの束がついている。花が終わると椿のようにぽたっと花全体が落ちる。酷暑の時期,実は大きな音とともに破裂し中の綿毛が周囲に飛散する。この木がワタノキあるいはキワタと呼ばれる所以である。

教会を発見

どこからともなくきれいな歌声が聞こえてくるのであたりを見渡す。バフテスト教会の案内板があり,丘の上に教会があった。建物は大きな民家のようであまり教会らしくない。

屋根の上に四角い煙突のような構造物があり,そこに十字架が見える。礼拝堂の正面ではオルガンの伴奏に合わせて聖歌隊が賛美歌を歌っている。礼拝の形式は日本のプロテスタント教会のそれと変わらない。

この子と一緒に撮って

櫂のような棒で鍋の中身をかき回している

男たちは櫂のような棒で鍋の中身をかき回している。粘り気が強いのか力が入る。ごはんにいろいろなものを混ぜたフライドライスのようだが,出来上がりは何やら黒っぽい不気味な食べ物であった。

売り物ではなくビニールの袋に入れられ周囲の人々にふるまわれる。味は悪くないが,腹具合が悪いため全部を食べる気にはなれない。宿で聞いてみると,ヤフーと呼ばれこの季節特有の食べ物で,手に入れられたのはラッキーだという。

ゴールデン・シャワー

インドから東南アジアでよく見かけるというか,とても華やかな花なのでよく目に留まるとと言ったほうが正しい。フジのように小さな花が集まって黄色の花房となっており,それがたくさんぶら下がっているのはみごとだ。

英名の「ゴールデン・シャワー」はよくその状態を表現している。和名は「ナンバンサイカチ」,これでは花のイメージはさっぱり伝わってこない。花がフジに似ているのは両方とも「マメ科」に属しているので当然なのかもしれない。花の後には豆のような実がつく。

原産地はインドからミャンマーにかけての地域とされている。なぜか,タイでは「国花」となっている。熱帯の植物なので日本では沖縄や奄美地域が北限となっているようだ。

日傘の姉妹,ここでも色白は美人の条件なのかな

ほら,カメラの方を見るのよ

穏やかな表情を見せるタンルウィン川(中国名は怒江)

仕切りがないので通りから丸見えである

容器に中身が入っていたら重すぎるね

集落の子どもたちが集まっていた

共同井戸から水を運ぶ,これは女性の仕事だ

何を見ているのかな

僧侶になっても好奇心は子どものままだね

大きな木には精霊が宿るとされ伐られることはない

竹かごの墓場だね

この親子はよく似ている

モスクの入り口に座り込んで話を聞く

乗合い自動車には定員という概念はない

修繕中の寺院,マハーボーディー寺院にちょっと似ている

パアンで2回目の夕日

光が失われていく対岸の景色

地元の人たちも夕日見物に来ている

女性たちのグループも集まっている


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