Home 亜細亜の街角 | Siemreap / Cambodia / May 2003

シエムリアプ  (参照地図を開く)

アンコール遺跡めぐりの拠点の町。小さな町だが観光客が多いため国際空港があり,バンコクとも結ばれている。1泊3$のゲストハウスから,300$の高級ホテルまで宿泊設備は整備されている。また,レストランも多い。観光客とバックパッカーが同居する町である。

アンコール遺跡の広がりと世界遺産紛争

アンコール遺跡群はクメール族のアンコール王朝(9-14世紀)が残した巨大な石造寺院建築である。アンコール王朝の最盛期には,その版図は東南アジア大陸部の大部分に及んでいた。ベトナム中部を支配していたチャンパ王国(2-18世紀)とは何回か戦火を交え,そのときの様子はバイヨン寺院のレリーフにも描かれている。

アンコール王朝の支配地域には王道が整備され,アンコール都城と結ばれていた。現在カンボジアの密林の奥地に放置された5大遺跡は5大地方都市であり,かつては王道につながっていたと考えられている。

その5大遺跡とは@7世紀の都城サンボール・プレイ・クック,A10世紀後半の都城コー・ケー,Bペン・メリア寺院,Cバンテアイ・チュマール寺院,Dコンボン・スヴァイの大ブリヤ・カーン寺院である。いずれもアンコール・ワット級の規模をもつが,現在も密林の中に埋もれたままとなっている。

アンコールの遺跡はタイにもいくつか点在している。この中でタイとカンボジアの国境にある「プレアビヒア寺院」は両国が領有権を主張しており,1958年に国交断絶にまで発展した。

国際司法裁判所は1962年に遺跡はカンボジアに帰属すると決定したが,タイの人々には大きなわだかまりが残り,周辺地域の帰属をめぐって争いが続いていた。2007年にカンボジアがプレアビヒア寺院を世界遺産に登録する申請をしたとき,タイが拒否したためユネスコは両国の協議を求めた。

カンボジア政府が2008年に登録地域を遺跡に限定して再申請したのを受けて,タイ政府は6月に登録に同意する決定をした。これに対して野党や反タクシン元首相派勢力は売国的行為として強く非難し,タイ政府は同意を撤回する騒ぎとなった。

2008年のユネスコ世界遺産委員会でプレアビヒア寺院が世界遺産として登録され,タイでは外務大臣が辞任している。カンボジアの人々は歴史的に国土をタイとベトナムに削られてきたという怨念があるので,領土問題は今後も尾を引きそうである。

アンコール・ワット

アンコールは王都,ワットは寺院を意味する。大伽藍と美しいレリーフからクメール建築の最高傑作とされ,カンボジア人の誇りでもある。カンボジア国旗の中央にも国の象徴として描かれている。

12世紀にスールヤヴァルマン2世(スールヤ=太陽,ヴァルマン=卓越した,つまり太陽王)により建造が開始され,1万人の人々が毎日働き,30年の歳月を要したとされている。まさに,大国家プロジェクトであった。

アンコール・ワットの敷地は東西1500m,南北1300mという広大なものである。一番外側は幅200m,水の張られた環濠で囲まれており,壕の内側は低い周壁となっている。周壁の内側は広い空間となっており,その中央に伽藍が配されている。

伽藍は外側から第一回廊,第二回廊,第三回廊,中央祠堂という構成となっている。伽藍はビシュヌ神を祀る寺院であり,王自身の墓であったと考えられており,その構造は当時の宇宙観に基づいている。

王権を神格化するため,王はヴィシュヌ神の化身とされ,世界の中心に住む現人神と位置づけられた。ビラミッド型の中央祠堂は世界の中心となる須弥山を摸したものであり,三つの回廊は聖山を囲むヒマラヤの霊峰を意味している。

アンコール・ワットは「ナーガ」信仰にも結び付けられた水の伽藍でもある。激しいスコールが降ると,水は第2回廊の中庭,第1回廊の中庭,そして外側の環濠にたまるように設計されており,さながら「水に浮かんだ伽藍」というたたずまいを見せたことであろう。

アンコール・ワットの参道は浄土のある西を向いており,環濠の外側にある参道入り口からは,環濠を渡り周壁の位置にある西塔門まで続く参道が一直線に続いている。西塔門をくぐると,参道は前庭を突っ切り一直線に第一回廊まで伸びている。

ここから見る伽藍は左右対称となっており,その均整のとれた美しさはまさに人類の宝にふさわしい。建物は中央のものほど高くなっているので,この位置からでも伽藍の全体像が分かる。

伽藍の少し手前には参道の両側に聖なる池があり,この池越しに眺める伽藍の美しさはすばらしい。中央祠堂は四隅と中央に祠堂が配されているのでどの方向から見てもその美しさ損なわれない。時間を選ぶと伽藍本体と池の水面に写る伽藍の二つを楽しむことができる。

第一回廊は東西200m,南北180mあり内側の壁面全体に精緻なレリーフが施されている。一周するのはけっこう大変であるが,これを見ないではアンコール・ワットを見たことにはならない。このレリーフについてはガイドブックにも詳細に記載されているので,照合しながら回るとよい。

アンコール・ワットは西向きに造られているので午後になると西日が第一回廊の窓を通して入り込み,レリーフの神々や人物が一段と生き生きしてくる。

ハッピーGHと宿の近くの寺子屋

バッタンバンからトンレサップ湖までサンケイ川を下って移動した。桟橋を渡り陸地に着くとハッピーGHのスタッフが無料の送迎車を用意しており,一行の4人が乗り込んだ。こうして自動的にシエムリアプの宿はハッピーGHとなった。

ハッピーGHの2階の部屋は6畳,2ベッド,丸テーブルがあり,料金は3$である。家の中はタイル張りで土足厳禁,共同のシャワールームも清潔である。庭には食堂がある。メニューを見せてもらうと,6000とか8000という数字が並んでいる。食事は高くつきそうである。

となりには新しいゲストハウスが9割方完成していた。オーナーに建築費をたずねると,およそ1万ドルという答えが返ってきた。その程度ならば1日3ドルの部屋代でもあるていど客がつけば建築費用を償却することもできるだろう。

宿の近くの高床式の民家の床下で子どもたちが集って学校のように学習している。高床式の床下は風が通り,雨が当たらないので机とイスを持ち込むと,壁のない教室のようになる。

ここは塾というよりは寺子屋のように見える。生活レベルが向上すると,子どもの教育に支出する余裕が生まれ,より高い教育を受けさせ,より収入の良い職業に就かせることが発展途上国の親の願いとなる。

5月のカンボジアは酷暑の時期である。暑さのため体力が落ちているのかこのところ腹具合がよくない。昨日は宿で休養をとり,ヨーグルトを食べ,リンゴジュースをせっせと飲む。その甲斐があり腹具合はかなり回復してきた。

GHを出ようとするとお抱えのバイクタクシー運転手に声をかけられた。無下に断るわけにもいかないので,キリングフィールドと地雷博物館の両方で2$にした。

キリングフィールドはポルポト支配時代に犠牲になった人々の骨が納められている慰霊塔がある。しかし,周りにお寺が建ちちょっと陰が薄くなっている。9年前に最初に見たときの衝撃はもうない。

オオコウモリの集る木

東南アジアではしばしば町中でオオコウモリが特定の木に集団を作っているのも見かける。シュムレアプの町中にもそのような木がある。樹木にとって鳥類やオオコウモリのようなほ乳類は無害に思えるが,集団で利用された木はしばしば枯れてしまう。ここの木も先端部分はすっかり葉を落としてしまっている。

小学校の国旗掲揚

小学校の校庭に生徒が整列している。授業が終わり,終礼として校庭の国旗が降ろされる儀式である。これは愛国心教育の一環であろう。当然,朝礼として国旗掲揚の儀式もセットになっていると考えられる。

プノンバケンで夕陽を見る

2年前に泊まった「Apsara GH」がどうなっているか見に行く。この地域はたった2年間でずいぶん変わっており驚く。冷たい飲み物を仕入れにスターマートの方に行くと,ムアンシンと景洪で一緒になった日本人旅行者と出合った。

成り行きでプノンバケンに夕陽を見に行くことになった。プノンバケンはアンコールの一画にあるが,パスは不要である。

今日は雲がほとんど無いので夕陽が楽しめそうだ。足場の悪い急な坂道を登り,60度はありそうな石段を登り切ると360度の景観となる。西の方に雲があり,太陽が隠れると,雲から光がもれ,素晴らしい光景が見られる。

アンコールワットも森の中からそびえている。遠くに見える水の輝きは西バライであろうか。この丘には何回も来ているが,夕陽がこれだけきれいに見えたのは初めてである。

ガソリンスタンドに併設されるスターはコンビニ

よく働く子どもたち

スターの少し先には点と食堂があり,12歳くらいの女の子が3人で調理をしている。慣れた手つきでチキンを細かく切ったり,炒めたり,魚の素揚げを作っている。

寺院でヤシの実を収穫する子どもたち

スターの前では新しい寺院が建築中であった。その奥に古い寺院があり,壁面の絵が目を引いた。久しぶりに仏像の前で瞑想しようとしたが,ハエがうるさくて集中できない。

さらに,ときおりドカン,ドシンと大きな物音がする。外に出ると子どもたちがココヤシの実を落としている。それが,地面に落ちるとドシン,波形のトタン屋根に落ちるとドカンになる。ヤシの実の直撃を受けた屋根はたまらない。トタン屋根はベコベコの状態になっている。子どもたちは二,三個を寺院に残し,収穫物を荷車に乗せて持ち帰った。

ココヤシの木には枝がなく,最上部に葉柄とヤシの実が付いている。ヤシの木に登るには裸足になり,手足の力で尺取り虫のように登っていかなければならない。両手で幹を抱きかかえるのは大変なので,ロープを幹に回して登る方法もある。

タイの観光地ではサルを木に登りココナツを落とすように訓練している。この芸は観光地の人気のアトラクションになっているが,英国の動物愛護団体が『サルにココナッツを収穫させる「サル奴隷」がタイで横行している』と告発したことから,英国でタイ産ココナッツを使った商品をボイコットする動きが広がっている。タイ政府は疑惑を全面的に否定しているが、波紋を広げている。

この論理でいくと,農作業に牛馬を使用することも禁止されるべきであり,馬に乗ることも,羊の毛を刈ることも立派な動物虐待である。■

フランス統治時代の名残り?

アンコール時代の名残り?

■ホテル

工事はすべて人力が頼り

子どもたち

結婚式と格差社会

寺院の境内で出会った子どもたち

小学校の終礼式

結婚式の記念撮影

小さな市場の子どもたち

水辺の風景

キリングフィールド

5月のカンボジアは酷暑の時期である。暑さのため体力が落ちているのかこのところ腹具合がよくない。昨日は宿で休養をとり,ヨーグルトを食べ,リンゴジュースをせっせと飲む。その甲斐があり腹具合はかなり回復してきた。

GHを出ようとするとお抱えのバイクタクシー運転手に声をかけられた。無下に断るわけにもいかないので,キリングフィールドと地雷博物館の両方で2$にした。

キリングフィールドはポルポト支配時代に犠牲になった人々の骨が納められている慰霊塔がある。しかし,周りにお寺が建ちちょっと陰が薄くなっている。9年前に最初に見たときの衝撃はもうない。

地雷博物館

地雷博物館はアキ・ラーさんが個人で管理・展示しているものである。普通の民家が集まっている一画に日本語で「アキラの博物館」と表示されていた。彼はクメール・ルージュからカンボジアを解放したヘン・サムリン軍に所属してたことがあり,戦時中は地雷除去を担当していた。

除隊後も農地から地雷を除去するする作業を継続しており,彼が除去した地雷が博物館に展示してある。起爆装置と火薬を抜かれた地雷はいろんな形をしたただの金属容器である。これに火薬を詰め,起爆装置を仕込むと1個5$程度の対人地雷となる。

安価な武器のため数十万,数百万という地雷が敷設され,それらは戦争が終わっても放置される。地雷は20年経ってもその機能を失わないので多くの犠牲者が出る。その多くは農民である。

放置された地雷を除去するには1個当たり500$程度の費用がかかり,紛争から立ち直ろうとしている国にとっては重い負担となっている。この悪魔の兵器は1997年に発効した「オタワ条約(対人地雷の使用,貯蔵,生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約)」により大きな歯止めがかかることになった。

2007年末までに156ヶ国がこの条約を批准している。しかし,米国,中国,ロシアなどの軍事大国,紛争を抱えた国などはまだ批准をしていない。

宿の近くの子どもたち

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トンレサップ湖   亜細亜の街角   アランヤプラテート