Home 亜細亜の街角 | Ayutthaya / Thailand / Mar 2003

アユタヤ  (参照地図を開く)

アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)は現在のタイ中部を中心に繁栄したタイ族による王朝である。首都は現在のアユタヤにあった。中国とインドあるいはヨーロッパを結ぶ海洋交易路の中間に位置し,交易により莫大な富を蓄積した。

アユタヤ王朝の都として築かれたアユタヤは,四方を川に囲まれた水の都であった。水運を利用し,近隣だけでなく中国,ペルシャ,遠くヨーロッパとも交易を広め,最盛期には東南アジア最大の都市へと発展した。

17世紀には日本人町も形成され,山田長政が傭兵隊長として名を馳せた。アユタヤの王は上座部仏教を信奉し,都に数多くの寺院や宮殿を建立した。

同じタイ族によるスコータイ朝はアユタヤに朝貢する形となったが,15世紀にはアユタヤ朝に併合された。当時の東南アジアはアンコール朝が衰退し,ビルマの王朝が地域の覇権を求めて,数回にわたりアユタヤに攻め入った。1767年にビルマ族の侵攻によりはアユタヤ朝は滅亡した。

このときアユタヤの町は徹底的に破壊され,金箔の類はすべて剥ぎ取られてしまったとされている。ビルマ軍が撤退した後,新たに王となったタークシン(この名まえの元首相は英国に亡命した)はアユタヤの再興をあきらめトンブリーへと遷都した。これが現在につながるトンブリー王朝の始まりである。

現在のアユタヤの町は破壊されたままになっている遺跡を取り込むように広がっている。アユタヤの歴史上の町と関連する町は1991年に文化遺産として世界遺産に登録されている。


バンコク→アユタヤ移動

カオサン(09:00)→バンコク・モーチットBT(10:10)→アユタヤ(12:00)とバスで移動する。カオサンからモーチット北バス・ターミナルまでは,ワット・チャナソンクラム寺院の裏手の大きな通りから,No.3の市バスで行くことができる。

モーチットはとても巨大なターミナルだ。バンコクから北方向のバスはすべてここから出ている。チケット・カウンターもたくさんあり,自分でチェックするより聞いたほうが早い。建物の中には食堂もあり,早朝の出発にも問題はない。

バスはアユタヤが終点と思い油断をしていたら,町を通り過ぎてしまった。あわてて降ろしてもらい,バイクタクシーでPSゲストハウスに行ってもらう。

バンコクのGHでシャワーを浴びて部屋に戻ると時計がこわれてしまった。この時計は時刻以外にも方位,温度,高度(気圧)が計れる優れもので,8年近く旅のお供をしてくれた。

特に方位計は重要なアイテムで,地図と特定の場所(建物)が照合できると,方向音痴の僕でも目指すところにたどりつくことができる。前回の旅行の終わりに,バンコクで電池の交換をしたのが原因で,防水機能が低下したようだ。旅の始まりでこの時計を失ったのは大きな痛手だ。

遺跡の町

現在,アユタヤの町は遺跡と同居しており,ゲストハウスから歩ける範囲に遺跡は点在している。町のあちこちにあるストゥーパ(仏塔)は表面の漆喰がはがれ落ち,内部のレンガがむき出しになっている。

砕かれた仏像も多い。往時は金箔で飾られていたという多くの建造物もその輝きを留めておくことはできない。この遺跡ははからずしも,仏典でいう諸行無常を現在に伝えているようだ。

漆くいのはがれかけたストゥーパの下に小さな祭壇があった。高さ30cmほどの人形が数体置かれている。線香を焚いた後が残っているので,ある種の祭壇になっているのだろう。ストゥーパは破壊されても,人々の信仰はこの地に深く根を下ろしていたようだ。

ここではどのような願いを込めた祈りが唱えられたのだろう。時の流れに供物は風化していっても,祈りの風景が脳裏に浮かんでくる。

ビルマ族に占領されたとき,アユタヤの仏像の多くは徹底的に破壊されてしまった。中には難を逃れた仏像もあったのかもしれない。古そうな仏像にめぐり合うことができた。とてもいいお顔である。この仏像のおかげでここの遺跡はとても印象的なものになった。

小学校を発見

町中では下校時の小学校におじゃました。暑い気候のせいかタイの人たちは歩くことを嫌がる。下校時間ともなれば門の外にはたくさんのミニバスやトクトクが集まってくる。子どもたちは自分の乗り物を見つけどっと乗り込んでいく。

子どもたちの写真を撮るのが好きなので小学校に入れてもらう。ちょうど昼休みで子どもたちは思い思いに遊んでいる。カメラを向けるとすぐに集まってくる。タイの子どもたちはほとんど写真大好きである。

教室に入れてもらう

彼らの服装は一様に白いブラウス,紺のスカート,白いソックス,黒い靴である。ここでは上から下まで制服が決まっているようだ。

夕方の時間帯だったので,こんな時間まで授業があるのかと先生に質問すると,親が仕事帰りに迎えに来る子どもたちは,これから5時まで補習授業を受けるという。日本でいうと学童保育にちかいもののようだ。正規の授業ではないので教室に入ることができたようだ。

観光用の象

世界遺産に登録されたアユタヤは大観光地である。バンコクに近いので日帰りツアーで見学することもできる。暑い時期にもかかわらず,日本人観光客もたくさん来ており,そこかしこで日本語が耳にはいる。

ワット・プラ・スィ・サンペットの周辺にはたくさんの観光用の象がいる。象は観光客を乗せて200mほどの所を往復する。これは観光客には大人気である。料金は500Bと高い,さすが象である。

ワット・プラ・スィ・サンペット

朝食と散策

日中の暑さがウソのように夜は涼しい。ファンは不要でTシャツと短パンでちょうど良い温度だ。06時過ぎて少し明るくなる朝の散歩は特に収穫がない。昨日,夕食をいただいた店は開いていない。

08時少し前に朝食に出かける。とり飯の店が混んでいたので,この店に決定。タイでは「カオ・マン・ガイ」と呼ばれている。カオはごはん,マンは脂,ガイは鶏肉を意味する。本来の意味からすると出汁で炊いたごはんと蒸した鶏肉の組み合わせた料理であり,甘いたれを上から好みに合わせてかけていただく。

僕の入るような庶民の店では白いご飯の上に蒸した鶏肉が並べられており,少量のたれを使用していただく。この時は口内炎を煩っており刺激のある食事は苦行であったが,ここの鳥ご飯はなかなかの美味で,口内炎そっちのけで全部いただいた。

鶏肉は茹でているようで,その茹で汁がスープとして付いており,こちらもおいしかった。鳥ご飯とコーラを付けて27バーツというコストパフォーマンスのよい朝食であった。なるほど,これでは混んでいるのがよく分かる。

タイでは鶏肉を使用した「カオ・パット・ガイ」と呼ばれている国民食となっている料理である。カオはご飯,パットは炒める,ガイは鶏肉を意味する。直訳すると鶏肉を使用した炒めごはんということになる。豚肉や卵を使用したバージョンもあり,その場合は鶏肉の代わりに豚肉,卵の単語が使用される。この料理もタイではよくお世話になった。

観光用の象の食事

象の乗り場では彼らの食事と水浴びの様子が見学できる。今日の昼食はパイナップルの葉の部分である。鉄柵の向こう側から鼻でつかみ取り,口に入れてバリバリと噛み砕く。小さな象は鼻を延ばしてもエサに届かず気の毒だ。

本当は本体のほうがずっと好きなのだが,そちらは人間様のものなので仕方が無い。もっとも,タイでは野生象が農地を襲うという事件が頻発している。森の減少により,食料が不足しているため農作物を荒らすことになる。

パイナップルもその被害にあっている。象は器用に実の部分だけを摘み取りそのまま食べてしまうという。あの身体なので食べる量も桁違いである。数頭の象がやってくると畑は全滅してしまうという。

現在農地になっているところはもともと象のエサ場であり,あとから人間が森を切り拓き,農地に変えてしまったので象たちにもそれなりの言い分があるはずだ。仏教国タイにおいては象は神聖な動物とされており,農民は象を音や明かりで追い払うしかないという。

裏手には池があり,象使いがホースで水をかけている。象は水浴びが大好きなので,またこの炎天下でなので,日に何回か水浴びをさせるにちがいない。

象使いが鼻の先にホースをもってくると,鼻で水を吸い込みそれを口元に運び飲む。しかし,次の象が順番を待っているのでそう長くは楽しんでいられない。

小学校にて

巨大な涅槃佛

この寺院には巨大な涅槃佛が置かれている。入滅後ブッダは「涅槃に向かった」とされている。そのため,クシナーガルの地で2本の沙羅の木の間で最後を迎えたブッダの姿を形にした像は「涅槃佛」と呼ばれる。

涅槃とは仏教の最高の境地で「火の消えた状態」を意味する。ブッダは弟子たちに「人は貪欲,怒り,愚かさの炎に燃えている」と説いた。我々が苦なる人生を免れるためにはこの「煩悩の炎」を消さなければならない。その炎を消しつくした究極の境地が「涅槃」と呼ばれるものである。

そのときブッダは次のように弟子たちに諭したという。自分を拝んで何になる,死後のことなどに思い惑わされずに,戒律を守り,時間を惜しみ修行に励みなさい。ここに仏教の教えの真髄がある。しかし,彼の言葉は救いを求める多くの人々により仏像崇拝,衆生救済仏教へと変化していった。

ブッダの最後の言葉を裏切ったのは他ならぬ1番弟子とされるアーナンダであった。ブッダの死後,遺体は荼毘に付された。残された遺灰は分配され,それにより各地で仏舎利崇拝が生まれるようになった。自分の遺骨の供養に関わるなというブッダの遺言は弟子や信者たちにより裏切られた。

ブッダ終焉の地であるクシナガールには遺体を火葬した場所に巨大なストゥーパが建造されており,信仰の対象になっている。日本の仏教が葬式仏教と揶揄されるようになって久しいが,その原点はブッダ入滅に遡ることができることを考えると感慨深い。

のんびり歩き目に付いたものを撮る

三連パゴダのとなりの寺院

三連パゴダ(ワット・プラ・スィ・サンペット)の隣の寺院は開いていた。本尊は当然ブッダであるがその大きさと金色に輝くお姿にげんなりする。それより少し前に入った小さな寺院の小さな仏像の方がずっと僕の心に通じるものがある。

夕方の散歩

登校前に店の手伝いをする

早朝の市場風景

いろいろなナスがある

若者たち

タイでは中学生からバイクに乗ることができる。男子も女子も通学によくバイクを使用している。日本と同じようにかっこいいバイクは彼らのあこがれであり,女の子とデートするときの有力な武器のようだ。店の前で高校生と思われるカップルがバイクに乗っている。写真を撮らせてと頼むと,二つ返事で応じてくれた。

経済が底上げされているタイでは中学生くらいからおしゃれに関心が出てくるようだ。女生徒は学校からの帰り道にファッション雑誌を探したり,ファストフード店に立ち寄る。それでも,制服はしっかり着こなしており,ミニスカートの女生徒は見かけなかった。

石の彫刻屋

宿の南側で石像屋を見つけた。作品を見せてもらうとほとんどがアンコールの石像を模したものであった。そういえば昨日の石像屋も同じ題材のものだったので,何か理由があるのかもしれない。

宿の北側の小学校を見学

宿の北側の小学校を見学していたら,校長先生が話しかけてきた。タイ人には珍しくしっかりした英語を話す。この学校の生徒数は2400人,36クラス,1クラスは40〜50人だという。

付属の幼稚園もあるので終業後は大変な混雑になる。ソンテオ(乗り合いトラックバス),バイク,乗用車がひしめいている。15時過ぎの最初のピークがあり,17時に共働きの両親が迎えに来る二回目のピークがある。

調査中


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