亜細亜の街角
町にはドリアンが溢れていた
Home 亜細亜の街角 | Badambang / Cambodia / May 2001

バッタンバン  (参照地図を開く)

プノンペン→バッタンバン移動

クラチェからプノンペンに1泊してバッタンバンに移動する。プノンペンの宿は良い部屋がとれず狭い部屋になった。ここの天井ファンは音ばかりでさっぱり風が来ない。蚊も多く2回目を覚して薬を塗る。

06時にチェックアウトし,バイクタクシーでセントラル・マーケットに移動する。運転手にバッタンボンと告げると,ちゃんと乗り合いピックアップトラックのたまり場に行ってくれた。

バッタンバン行きは何台かあるらしく5$と言われ,二人の運転手に腕をとられ往生した。結局,近くの車にした。荷物は荷台に置き,後部座席に4人掛けすることになった。これはかなりきゅうくつだ。

乗客がいっぱいになると出発する。しばらくはプノンペン市内とその郊外を走る。プノンペンに向かう通勤用のバイクが切れ目無く向かってくるところをホーンを鳴らしながら,右に左にハンドルを切りながら進んでいく。

この車は道路でもっとも早く,バイクや荷物運搬車を追い越していく。市内を抜けると時速60〜80kmで飛ばし,この分なら午前中に到着するかなと考えていたら甘かった。

08時80分から道路事情は悪くなり,中央部は舗装がはがれて大きな穴ができている。これを避けるために片側をダートに落とし,右でも左でも(カンボジアは右側通行)おかまいなしに走る。座席に座っているので振動は意外と少ない。

しかし,荷台の乗客は大変だろう。09時30分からは完全なダートの道も出てくる。そこを時速60kmで走るのであるから,車の傷みも相当なものだろう。ダートでは土埃のため,視界がきかない。

10時30分にドライブインで朝食となる。魚のスープはなかなかの味でマレーシアでの食事を思い出させる。ごはん,魚のスープ,ごはんで3000リエルはコストパフォーマンスの良い食事であった。運転手はタイヤの交換に手間取り,出発は12時少し前になった。

運転手は道路状況によらず,ライバル(ピックアップトラック,乗用車)を次々と追い越していく。13時30分頃,橋の手前で大渋滞に遭遇する。大型トラックが200mほど連なっている。何時間かに相当する交通量である。

橋の渡し板が危ない状況でピックアップトラックは何とか通れるが,大型車はとても無理だ。地元の人たちが小型車を誘導し,なにがしかのリエルを稼いでいる。

僕のピックアップトラックは無事にバッタンバンの中央市場に到着した。運転手からは25,000リエルを要求される。これは8ドル強である。5ドルではどうにもならず6ドルを払うことになった。

ホテルはローヤルにする。立派なホテルで4ドルの部屋は快適である。カンボジアで最もコストパフォーマンスの高い宿である。

町にはドリアンが溢れている

ファンを目盛2に設定して寝たが以外に暑かった。明け方の涼しさで目を覚した。びっくりしたことに07時である。こんなに寝たことはこの旅行中にはなかった。昨夜のプノンペンの宿での寝不足が効いているのかもしれない。

宿の近くで朝食のとれそうなところは2軒しかない。肉野菜炒めを注文したが,かろうじて食べられる水準である。昨日のドライブインでの食事が懐かしい。

プノン・サンパウに向かう

プノン・サンパウはバッタンバン市街地から南西に15Kmほどのところにある。ワット・バナン遺跡があるというのでホテルのバイクタクシーで行くことにする。運転手は学生で強はバイトをしているそうだ。彼は英語をそこそこ話すが,内容を理解するぬ派ちょっと努力が必要なレベルだ。

道路は舗装されているものの穴だらけであり,バイクは脇の平坦なところを走る。ときどき四輪車が通ると,土埃のため息を止めてやり過ごすことになる。道すがら川では子どもの水遊び,3件の結婚式,1件のお葬式を確認しておく。

たどり着いた遺跡は丘の上にあり,石段を100mほど上っていかなければならない。遺跡はヒンドゥー寺院に見えたが,外壁にはブッダの彫像がある。石組みは稚拙で石のつなぎめがずれている。デバーダのレリーフも少なく,それも上半身が削り取れている。盗掘されてしまったと運転手は説明してくれた。

この丘の上からはバッタンバンを眺望することができる。周辺はカンボジアの穀倉地帯ということであるが,季節のせいか水田のようには見えない。

お葬式と結婚式

バイクタクシーの運転手にお葬式の家に行ってもらった。亡くなったのは16歳の女学生であった。200$のネックレスを狙った強盗に首を切りつけられて殺害されたという。遺影を見せてもらうと,かわいい娘さんであった。気の毒としかいいようがない。参列の女性たちは庭で食事をしている。カンボジアの音楽が流され,弔問客は家の中に入っていく。

次に結婚式の会場に行ってもらった。新郎新婦はすぐ分かったが,新郎と同じ服を着た男性が3人,きれいなチャイナドレスを着た女性3人が向かい合って座っている。友人代表のような役割なのだろうが意味不明だ。

巨大なスピーカーが大音量の音楽を流す中で,参列者は丸テーブルで食事である。僕もずいぶん炭酸飲料を飲まされ,牛肉もいただいた。ご祝儀の相場が分からないので,心ばかりの1$を封筒に入れて受付に渡す。

素焼きの容器を売り歩く

カンボジアではよく牛車に素焼きの容器を乗せて売り歩く姿を見かけた。素焼きの容器は壊れやすいので稲わらをクッションにした板に取り付けている。容器同士が触れあい,乾いた音を響かせている。

資源回収の子どもたち

食堂はテレビ観戦者でいっぱいだ

オリヅル教室を開く

宿の前の通りに子どもたちが集っているので,オリヅル教室を開く。この日本発の遊びはできあがった造形の素晴らしさもあり,東南アジアの子どもたちに人気は高い。とはいうものの,慣れないと紙を正確に揃えて折るのは難しいようだ。要所,要所で手直しをして完成すると笑顔がこぼれる。今日の成果は10人で10羽である。

セントラル・マーケット周辺のにぎわい

06時に起床する。この夜も暑かった。短パンだけで寝ていると,思わぬところで風邪をひきそうで用心しなければならない。バッタンバンの朝食探しは苦労した。宿の周辺には食堂が2軒しかなく,どちらもできが悪い。昨日の朝食は肉野菜炒めにしがだ,努力して食べられる程度である。

今朝もその食堂で呼び止められる。肉野菜炒めはノーと言うと,チキン野菜炒めを作ってくれた。トマト,タマネギ,チキンの組み合わせは悪くない。しかし,タマネギの火の通りは悪く,辛味は口内炎にしみる。

セントラル・マーケットは早朝から賑わっている。マーケットは建物内にあるが,その周囲に露天が出ており,これを眺めて歩くのは楽しい。意外なことに花がずいぶんたくさん売られている。一般の人が花を買う経済的な余裕があるとは思えない。いったいどこに需要があるのだろう。  

第2回オリヅル教室

市場から町の西側に向かおうとして,昨日のオリヅル教室の手前の家で再び教室を開くことになった。今日は12人,そのうち半分は見知った顔である。この家には立派なテーブルがあり,作業は楽だ。

町の西側を散策する

西を目指して適当に歩くと,線路に出て。線路沿いには伝統的な生活を見ることができた。小さな雑貨屋があり,冷たいコークがおいしい。コークを飲みながら,映画の「キリング・フィールド」で倉庫に山積みされたコークがあったなどと古い記憶がよみがえる。

雑貨屋のおばさんは何かを油で揚げている。チキンかと思っていたら,少し英語のできる男性が「マウス」だと教えてくれた。値段は一つ100リエル(3セント)だという。材料はたくさんあったが,この価格で商売が成り立つとは思えない。ちなみにコークは1500リエル(50セント)である。男性はさらに,「日本ではネズミを食べるのか」とたずねられ,ノーと答える。

ここでも何人かにオリヅルを教えてあげる。これが縁となり子どもの家に行くことになった。この家には胴が20cmもある大きな蛇が飼われている。エサのネズミは消化され,毛皮だけが排泄されていて。

近くの家に7歳,9歳,11歳の三姉妹がいたので,オリヅルを教えてあげる。ちょうど昼時となり,家族の食事に加えていただいた。魚のスープ,ビーフン,ごはんの昼食は,食堂のものよりずっとおいしかった。育ち盛りの三姉妹はよく食べる。

カメラの調子がおかしくなる

昼食の家を出たあたりからカメラがおかしくなる。ロックをしてもレンズ部から振動が発生して止まらない。宿に戻り,いろいろチェックしてみたが直らない。カンボジアでは修理は難しそうなので,バンコクに戻ることにした。

しかし,バンコクで見つけたカメラ屋でズームレンズの故障であることが分かり,日本からの部品の取り寄せを含め,修理に10日間,費用は2000バーツと言われ,修理はあきらめ帰国することにする。


クラチエ   亜細亜の街角   バンコク→成田