亜細亜の街角
タイとビルマが混在する町
Home 亜細亜の街角 | Maesaring / Thailand / Mar 2001

国境の町へ移動  (参照地図を開く)

チェンマイの北バスターミナルから約200km離れたメーサリンに移動する。窓口であらかじめチケットを購入する。もちろん車内でも買うことはできる。08時発のエアコンなしは80B(日本円で約220円)である。タイの普通バス料金の目安はおよそ80km/1$である。

バスはほぼ満員状態で出発した。チェンマイから南回りで山に入る。道路状態は良く,しばらくは快適であった。しかし,次第に温度が上がり,窓が開いていても気温はどんどん上昇し,腕時計の表示温度は37.9℃となっている。

メーサリンに到着したときは,暑さのために頭が痛く,ぐったりしていた。体調が不調のためゲストハウスまでバイクタクシーを利用した。一緒に下車した欧米人の旅行者は,この炎天下を2km歩いて行くという。


メーサリンの町

メーサリンはタイの西の外れにあるビルマ国境の小さな町だ。チェンマイからメーホンソンに行く旅行者はパイ経由になり,南回りでメーサリンに立ち寄る人はほとんどいない。そのため観光化されておらず,のんびりするにはいい町だ。

町中にはビルマからの移民(難民)も多く,いくつかのビルマ的なものが見られる。この町の寺院には屋根の形が特異なミャンマー様式のものが多い。また,イスラム教のモスクもあり,スカーフを着用した女の子もみかける。


リバーサイド・ゲストハウス

リバーサイドGHは大きな民家といった感じの家で,1階は食堂,2階は客室という作りである。客室は12畳ほどの板張りでダブルサイズのマットレスにきれいなシーツが敷かれている。

板張りの窓は内側に開け放たれ,虫よけの網が張られている。明るくて清潔で居心地はよい。川辺のGHのため夜はあたり一面カエルの合唱である。合唱は途切れることがなく,子守歌からはほど遠い。

夜はとても涼しく薄い布団を被ってちょうどよい温度である。明け方は5時前からオンドリのときの声がやかましい。タイの西の外れにあるこの町では6時はまだ暗く,その中からバイクや車の音が聞こえる。

この町にはムスリムも多い

町にはイスラム教の礼拝所(モスク)がある。この当時の僕はイスラムに関する知識が乏しく,東南アジアにおけるモスクでの礼拝を新鮮な気持ちで見学させてもらった。しかし,実際にはこの集まりはお葬式のようであった。小さな女の子もスカーフをしっかり着用しており,とてもかわいい。

バイクタクシーで近くの村を訪問

バイクタクシーを探して国道の方に向かうとしたが,角を2回曲がったところで道に迷う。どうもおかしいと地図で確認したところ,地図は南が上になっていた。ようやく,バイクタクシーのたまり場に到着する。問題は彼らが英語を話せないことである。幸い一人が英語で話しかけてきた。地図上で2つの村を指し示し,3時間で回ると言うと100バーツという答えが返ってきたので商談成立である。

最初のパマラー村に到着する。ここは織物が盛んなようだ。非常に古いタイプの腰機を使用している。織物の幅は50cmほどであり,帯のようだ。模様を織り込む技術は高度だ。このような腰機と帯を織る文化は雲南省や貴州省の少数民族と共通している。写真を撮らせてもらったら,家の中から売り物を出してきたので,丁重にお断りした。

次の家では小さな子どもたちがいたので,フーセンを作って遊んであげる。折り紙のツルも手取り足取りして教えながら一緒に作る。ついでに,ザックに入っていたビスケットを出すととても喜んでくれた。お返しにバナナが出てきた。地元産の小ぶりなもので,僕はこの寸詰まりのバナナがけっこう好きだ。1本はその場でいただき,3本は僕のお土産となった。

ソボハンは見所がない

ソボハンはお寺しか見るものがない。滝は3kmも行かなければならないというのであきらめた。代わりに近くで小学校が見つかった。ちょうど昼食の時間だったので教室の中の写真を撮ることができた。

市場で朝食

早朝が書き入れ時の市場は活気に満ちている。肉,魚,野菜,果物,雑貨が並び売り手と買い手でごった返している。市場の中で売り買いしているのはほとんど女性である。男は外でバイクや荷車を使って大きな荷物を運んでいる。

市場の中ではフライドチキン屋がある。揚げたてのチキンが大きな皿に盛られている。1個8Bのチキンはすぐにはけてしまい売れ行きはよい。僕も1個いただくと隣でお母さんたちが朝食を始めている。興味深そうに見ていると彼女たちはカーニャオとおかずを分けてくれる。

東南アジアはどこでもこんな感じで,旅行者にもオープンである。やはり同じアジア人という親近感があるのかもしれない。また売り物の竹筒ごはん(竹の中に餅米を入れ火にかけて蒸しあげた甘いおこわ)もごちそうしてくれた。大感謝である。

市場には簡易カラオケセットで歌をうたう盲目の女性の流しがいる。見ているとそれほど喜捨は集まっていないので,僕はごはんのお礼という気持ちで小銭を寄付する。

メーサンレップで国境の川を見る

メーサンレップ行きのソンテオ(乗合トラックバス)を市場の向かいで待つことにする。どう見ても中学生に見える女生徒がバイクに乗っているので聞いてみると,13才からバイクの免許は取れるとのことだった。「気をつけてね」と言って彼女たちを見送る

2時間ほど待ってようやく車体の横に「MAESAMLEB」と書いてあるソンテオが見つかった。ソンテオはたくさんの荷物と乗客を乗せて出発した。進むにつれて荷物と乗客はどんどん増え,大人と子供合わせて18人が荷台に乗ることになる。身動きできないくらいきゅうくつな上に,子供は車に酔ってゲロを吐く。なかなか楽しめる2時間であった。

国境(密)貿易が途絶えてしまったメーサンレップは何もないところであった。道路の脇にへばりつくように20-30軒の家が並んでいる。住民はほとんどビルマからの難民もしくは不法滞在のカレンの人々である。ムスリムの人も多く,メーサリンの町中にあったイスラム寺院のわけが分かった。

このあたりではタンルウィン川がタイとミャンマーの国境になっている。中国名では「怒江」と書き荒れ狂う川というイメージが強かったが,乾期のタンルウィンは幅50mくらいのおだやかな川であった。水はきれいで地元の人は川岸の深みのところで水遊びをしている。その気になれば彼らは簡単に対岸まで行くことができる。

カレンの人々

川の向こうはカレン族の土地である。ビルマの中央政府を支配しているビルマ族とは数百年にわたり対立しており,近年はビルマからの独立を求め武力闘争を展開している。しかし,圧倒的な政府軍に押され一部は政府と妥協し,一部は難民となってタイ領内にいる。

川岸の斜面に草葺きの家が点在している。ここではカレンの人々が農業で暮らしている。大きな木の葉を組み合わせて屋根を葺く材料を作っている女性,娘のために純白の民族衣装を作っている母親もいる。

母親が彼女に民族衣装を着せてくれた

カレン族の女性の衣服は,結婚を境に大きく変わる。娘時代は純白の生地に赤い縁どりのある貫頭衣を着て,結婚すると色物を着用する。したがって,白い貫頭衣を着ていれば彼女は未婚者ということになる。ただし,離婚して配偶者のいない女性も白服を着用するという。

残念ながらこの集落には白い貫頭衣を着た女性はいない。唯一,子供の写真を撮っていると母親が彼女に民族衣装を着せてくれた。果物や野菜を売り歩く行商のおばあさんにも出会った。背中の籠に取り付けられたひもを額に当てて運んでいる。僕も試させてもらったが,首が強く後ろに引っ張られるので重いものはとても無理だ。写真と籠の借り賃としてビスケットを1袋あげたらとても喜んでくれた。

水牛はのんびり水に浸かっている

小学校を訪問

この町の子どもたち

あっ,日本人にそっくり

夕陽を見るため歩いているとある家で日本人にそっくりの子どもたちを見かけた。顔にはタナカというビルマ式の化粧(日焼け止め)が塗られているのでビルマから来たようだ。

確かにビルマの北部,例えばマンダレーあたり行くと日本人そっくりの顔に出会うことが出来る。顔だち,文化・風習,屋根の形などの類似点を考えると,日本人のルーツの一つは雲南からビルマにかけての一帯にありそうだ。


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