亜細亜の街角
キリスト教の東西分裂
Home亜細亜の街角| 亜細亜の街角補足

東西教会の分裂とはキリスト教教会がローマ教皇を首長とする西方教会(カトリック教会)と東方正教会とに二分されたことをいう。キリスト教にまつわるシスマ(分裂)の中でも大規模ものである。分裂の年は世界史の教科書等の記述では1054年のこととされている。

分裂とはいうもののローマ帝国でキリスト教が普及した時代にすでにその萌芽はあった。初期のキリスト教にはローマ,コンスタンチノープル,アンティオキア,エルサレム,アレキサンドリアの各地に中心的な教会があった。キリスト教は教義の解釈,典礼の規範において統一した見解がないまま地中海世界一帯に広まってしまい,これが分裂を生む原因となった。

ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは「313年のミラノ勅令」による。それまでの間,キリスト教はローマ世界の各地に根付いていた。当然,上記の主要5教会の間には大小の差異があったと考えられる。ともあれ,ローマ帝国では皇帝教皇主義,つまりローマ皇帝が教皇を兼ねるという制度があったため,各地の教会の差異は大きく表面化することはなかった。

しかし,395年ローマ帝国が分裂し皇帝が東西に並立するようになると,西のローマ教会と東のコンスタンティノープル教会が互いに首座権を争そうようになった。そのため,教義の解釈,典礼規範などが議論されるようになり,東西の教会はその後の数百年間かけて独自の道を歩むことになった。こうしてイエス・キリストと12使徒という一つの種から出芽したキリスト教は,二本の大きな幹に分かれて成長することになった。

1054年の東西分裂はローマ教皇レオ9世とコンスタンティノープル総主教ミカエル1世ケルラリオスとの相互破門によって顕在化したもので,実質的にはその数百年前から東西の教会は分裂していたということができる。したがって,「ローマカトリック教会(西方教会)から東方正教会が分離した」という考え方は正しくはない。東西どちらの教会も自らを「使徒の教会」,すなわち正統であると自認しており,かつ他方と起源を同じくすることを認めている。

「相互破門」以降も分裂の解消は東西両教会大きな課題のひとつでありつづけた。しかし,文化・政治的状況の差異は拡大し続け,その努力は実を結ぶことはなかった。 特に第4回十字軍によるコンスタンティノープルの陥落(1204年),および東ローマ帝国市民への虐殺,略奪行為は正教会側の対カトリック感情を決定的に悪化させてしまった。

東方教会は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の崩壊とともに保護権がロシアに移り,ロシア正教会を始めとする多くの正教会に分裂していく。一方,ローマ教会は地上の権利を世俗諸侯に譲り,次第に精神的な権威へと変わっていくことになる。